第71話 らんらんらん
「ま、待ってくれ。もう走れない!」
学園から逃げ続け、だいぶん人の目が増えた辺りでミチルが叫んだ。足を止めて振り返ると、建物に寄りかかるミチルと、へたり込むファウンだけが見える。あの宙も、リッジもいない。
わたしは乱れた呼吸を整える余裕もなく、抱いたイムと共に壁を背もたれにして、地面に座る。意識は無いが、呼吸はしている。しかし、その呼吸には熱が籠っていた。
「どうしよう、どうしよう……どうしよう!?」
あの宙と見つめ合ったせいだ。
「リサと、リサと一緒だ」
発熱と意識の混濁。黒い虫に操られる前のリサと同じ症状。だとすれば、これはクリュサオルの寄生にイムの身体が抵抗しているのか。一目だ、すこし出会っただけで、首元に冷たい刃がそえられた。線虫に侵され頭と胴が離れたイムを想像して吐き気を催した。だが、無駄だ。そんな感情いまはいらない。秒針は感情で止まらない。
「リサの体調が悪くなって、一週間……? いや、二週間……?」
辺境領に行くまでに一週間。偽の法務から時間稼ぎを食らって二日、そこから帰投に一週間……今思えば、あのフェルマーと名乗る偽法務の時間稼ぎも……? だが、時間稼ぎしなければならなかったということは、二週間は確実に必要なんだ。
「二週間だ。二週間で終わる……」
「なんだ!? なんの話をしている! さっきからいったいどうしたんだ」
わたしはミチルの顔をがっしりと掴んで、瞳を覗き込み、意識がしっかりしていることを確認した後に首元を触って熱を測る。
「ミチルは、ミチルは大丈夫なの? 体調は? つらくないの?」
「大丈夫だ! それより、皇女さまはどうしたんだって!」
なぜミチルは発症していないのか? 直接見ることがキーなのか? そもそも、なぜミチルには見えていなかった? なんで、わたし、イム、ファウンは見えて、ミチル他学生に見えていないのか?
本当にミチルは発症していないのか?
元から、発症しているのか?
「ミチル。自分に条件魔術をかけて。『現時点からユウメ・エクテレウに許可されるまで他者、そして自身に、意識のあるなしに関わらず自身の細胞一片たるまで干渉することを禁止し、ファウンのみに接触を許す』って。出来る?」
「なっ、はぁ?! 何もできないじゃないか、介護されろっていうのか!?」
「何もできなくしなきゃいけないの! わたしたちの周りにいる人間が全員信用できなくなったから! あの英雄墓で起こったことが分からないなら、大人しく言う事を聞いて! 出来ないっていうのなら」
「分かった! 分かったって! 条件定義! 現時点からユウメ・エクテレウに許可されるまで他者、そして自身に、意識のあるなしに関わらず干渉することを禁止……呼吸と体の中は例外! ええっと……ファウンのみに接触を許して、それで、ええっと! その代わりに良い睡眠が得られるようになる!」
わたしの抗議の目を受け取ったのか、彼女は震えながら言う。
「しょうがないだろ! 呼吸が出来なきゃ死ぬし、それに、代わりのプラスの効果がなきゃ条件魔術は……は……つど――」
彼女が気を失い直立したまま倒れようとするのをファウンが受け取った。ファウンは心配するように上目でわたしを覗き込む。
「どうするの……?」
「分からない……何もかも分からない。だから、みんなに頼ろう。カッツィに、ヴァルターに、フィア……」
フィアの名前とともに、大変なことに気づいた。
「フィアちゃん……まだ学園にいるよ?」
学園に戻ってフィアを助けなければならない。だが、だとするならイムはどうする? この無防備なイムを誰かに託さなければならないのか? 誰かに託さなければならないとしたら、それはカッツィしかいない。
「一回、ホテルに行こう。イムをカッツィに預けないと……ミチルは、いまだけはイムに近づけたくないから、あなたが引き摺ってでも連れてきて。できる?」
「分かった!」
ファウンはミチルを背負うが、身長が足りずに彼女の力の抜けた足を引き摺りながら歩いた。唯一安心できる、ミチルの安息の眠りに説明不足への謝罪と、頑張るファウンに感謝を伝えて、ホテルへと向かった。
街の様子や、ホテルまでの道のりなんて、考え事をしていたらなにも目に入らない。妙に集まる視線や、首元にちりちりと感じる敵意すら薄れ、一息の間にも感じるほど早くホテルに到着した。豪華絢爛だが、どこか殺伐としているフロントを抜け、階段を上り、廊下で新聞を読む付き人の一人を見つけた。
「どうなされたのです」
侵入者を警戒していたのか、声をかける前にこちらに気づいて、駆け寄ってくる。皇女が気を失っていることに気づいたのか、心配げな口調をしていた。
「黒い虫に感染したかもしれない。猶予は二週間。どうするかはこれから考える。いつでもチェックアウトできる準備をしておいて。カッツィは?」
付き人は、言葉に迷うように辺りを見回した。
「カッツィさんは、いまはいないのです」
「今は? いつもどる?」
彼は、眉を八の字に曲げる。彼自身も困っていることがそれだけで分かった。
「分かりません。あの狼、クラフティを連れて、何も告げずに……」
わたしは頭を抱えたくなった。身の回りのもの、時期や空気でさえわたし達の敵になっているのかと思うほどである。棘だらけのすり鉢に放り込まれたかのように、傷みながら落ちていくことしかできない。
「申し訳ございません。それと、いま言う事ではないかもしれませんがユウメ殿に来客が……」
「来客? 分かった」
わたしはミチルとファウンを一室に閉じ込め、来客とやらに会いに行った。不確定な要素すべてがわたしを邪魔することは分かっていたが、それでも今は、背を預ける味方が欲しいと思った。そして、その来客はわたしの予想を大きく上回る人物であったのだ。
「父さん……」
椅子に座ったスレイブ・エクテレウは、座高を超える長剣を持ち、片目でわたしを見る。どこかで戦い続けていたのか、外面はくたびれているというのに、ぎらぎらとした眼光を持っていて、それは、今まで見たことが無いほどの、殺気に満ちた隊長の姿だった。彼の姿が、赤くねばらかな光で歪んで見える程であったのだ。
「どうした」
挨拶を置いて、その言葉は父のその様子に戸惑うわたしに向けられたのかと思ったが、わたしは皇女を抱いていることに気づき、すぐに質問の意図を察した。
「リサねぇと一緒の症状が出たの。学園の地下にある英雄墓に行ったら……アイツがいて……それで、イムは見られて、見たの。そうしたら」
「気を失ったか」
「……うん。……どうしよう、このままじゃ、イムがリサねぇみたいに……」
「選択肢は二つある。そのアイツとやらを殺すか、もしくは」
わたしはそれは不可能だと思ったが言わなかった。迷ったのだ。宙を斬ったら宙は死ぬのか? そんなわけがない。しかし、父なら夜や闇そのものでさえも殺してしまうかもしれない。父からはその凄味というか、可能性を感じさせる。だけども『あの宙を殺して』なんて言えない、その言葉が父を殺したらどうするのだ?
その葛藤のなかで父は言葉を続けた。
「帝国に逃げるかだ」
わたしは浮かんだ疑問をそのまま口に出した。
「でも、帝国に戻ってどうするの? イムは?」
「帝国が虫を見つけてから一年以上経っている。治療法を見つけていてもおかしくない。リサが完全に寄生するまで二週間と少しかかった、つまり、二週間以内に帝都に戻れれば」
「治るかもしれない! 治るかもしれないけど、どれだけ急いでも王都から帝都には一か月以上かかるよ……」
「空間を高速で移動させ続けることは出来ないのか?」
「やってみなくちゃ分からないけど、たぶん、王国から出たあたりで尽きると思う」
「ならばアイツとやらを殺すしかない、が。分の悪い賭けだ。カフェ、サージェ、ユウメとダイン、俺という全総力をぶつけてもクロゾットーレがその場面を読んでいた場合、確実に負ける」
クロゾットーレという名には聞き覚えがあった。三英五騎士の第三席、国軍の総帥だ。そうだ、敵は一人ではない、少なくとも第五席のボスティはあちら側なのだ。そして、味方にも敵はいる。
「カフェは、もう寄生されてる」
「そうか。ならば勝ち目は万に一つだな」
たいして驚かずに彼は言う。その落ち着き払った態度は、わたしを安心させ、冷静さを思い出させた。驚かないことへの疑問はよそに、わたしは一つの案を提示した。
「ひとつだけ、あるよ。二週間かけずに帝国まで帰れる方法」
「なんだ」
「王国と帝国を繋ぐ、汚染地域を通れば……」
初めての、即答でなく、沈黙。頭から否定はされない。だが、父の表情からは明確な否定の意を感じた。あり得ない。そこを通る事だけは絶対に許されない。そんな意を。恐らく、彼の中では宙に挑むことよりも愚策なのかもしれない。
「……俺はサージェを探す。奴の魔術なら高速で移動することも可能だろう。それは、本当の最終手段だ……」
奥歯を噛むような気持ちだ。サージェを頼ることではない。イムを助ける為ならわたしはなんだってする。
「わかった。でも、その前にお願いしたいことがあるの」
――少しの間だけ、イムを見ていて欲しい。
その間にフィアを助けに行くつもりだった。だが、父は「俺が行く。お前が彼女を見てやれ」といってくれた。父が宙に曝されないか不安だったが、凍りつくほどの判断力を持つあの人が操られているところなど想像するのも馬鹿馬鹿しかった。
そして、すんなりと、フィアは帰ってきたのだ。今は別室で眠っているが、もうそろそろ交代してイムを見る予定だった。
だが、イムの瞼が開いた。
汗と熱の浮かぶ、窒息しているような苦しみ方なのに肌は赤い、苦悶の表情がわたしを見た。
「――イム?」
わたしは、イムを呼んだ。
「……ユウメ」
イムが答えた。わたしはイムがまだイムであることに安堵してほっとする。彼女の口が喋りたいのに言葉が出ないといったようにすらすらと動く。イムの側にいたくて、顔を近づけた。
「……虫の這いずる音が聞こえる?」
「今は、聞こえないよ」
「あれは、あれは、自分の頭から鳴っているのよ」
わたしはぞっとした。イムの目を見れば、彼女は私の考えていることが分かるかのように言葉を続けた。
「大丈夫。私は、正気。聞いて。私はずっと、あの虫の魔力が見えていた。他のものだと勘違いしていたの。『意識』その名があの虫の名。あの虫は、それを魔力の信号にしてアァ レウェに送っていた。私はずっと見えていたの」
わたしは考えが追いつかなかった。
「『意識』の無い人間はいない。感情がなくとも、そこには思考がある。信号のない人間は存在しないの。分かる? ――全人類は、ずっと昔から寄生されていたの」
「え、え。?」
「分からなくていいから、暗記して。『寄生』と『発症』は違う。発症させる鍵を握るのは『アァ レウェ』を、奴を直接見る、または、全くの未知の方法。そして、脳のクリュサオルは活性化し『発症』する」
だとすれば、わたしは一体何なん
『私はイムがいれば大丈夫!』
それについては、考える必要はない。
「次は、あなたについて。虫の音は『今は』聞こえないといったわね。つまり、虫はいるの。あなたの頭にも。でも『意識』を奴に送る信号が遮断されている。そして、アァ レウェからも、信号は送られている。それを受け取れる人間は、奴の姿が見えないの。だから、あなたには奴が見える。瞳のある私も見える。ファウンは思考を覗こうとしたことが無かったから分からないけど、おそらく絵である彼女は寄生されていない。クレッテは分からない」
記憶しろ。暗記しろ。
「今わかっていることは、これだけ。ここからは憶測。アァ レウェは私を発症させることに全力を尽くしてる。だから、ミチルや他生徒が正気を保ってた。だけど、それも時間の問題。おそらく、私が発症したら。それで『終わり』。私から奪った『天帝』をつかって、何か決定的なことをやる。今思えば、私が特異点に到達することを待っていたとしか考えられない。計算されつくされている。つまり、今、アレに挑むことは絶対的な仕組まれた愚策。彼は逃げればいいだけだもの。だから、お願い。ユウメ。私を助けて。帝国へ、母様のもとへ届けて。あなたが、あなただけが、一縷の希望を握っているの」
そう告げて、イムは気を失った。残された時間を一息につかってしまうかのような勢いだった。わたしは彼女の額に唇を落とした。戸惑いはもうない。迷いはもうないのだ。なんとしてでも、何を犠牲にしてでも、彼女を女帝のもとへ届ける。わたしは決意に満ちた。
「ユウメ先生?」
ノックの音と共に、扉の向こう側から声がした。扉を開けると、その先にいたのはフィアで、時計を見て交代の時間だと察した。
「おはよう、寝れた?」
「……はい。十分です」
柔らかい笑みは、どこか弱っていた。フィアの眼には隈があり、寝れていないのは明らかだった。彼女の白い頬に手を当てると熱は無いものの、子供の肌とは思えないくらいがさついている。万全とは程遠い。
「ごめんね。わたしも少し寝たら、交代するから」
今は休まなければならない。また次にいつ休める時が来るか分からないのだ。決意を遂行するために、わたしは厳しくもそう言った。
「いえ、大丈夫ですよ。休んでください。……ごめんなさい……私は、本当に役に立てませんね」
「そんなことないよ。フィア。役に立ってるし、これからも立ってもらう。その年で特異点に到達するのは、本当にすごい事なんだよ。わたしには負けるけどね」
冗談めかしてそう言うと、病人のような色白さでへにゃへにゃと笑った。
「じゃあ、お願いね」
「はい」
わたしとフィアはすれ違い、フィアの後ろ姿はイムのもとへと向かっていく。
油断はしていなかった。この一瞬でも。だが、現実は最悪の予測を常に上回るものだ。
死を招く声が落ちる。
「――深海少女」




