第70話 おはよう!
一週間がたった。
時間が自分を置いて行く。瞬きをすれば、そこにはきらきら笑うフクロウちゃんがいる。グリズリとウィズダムが話している。クレッテとフィアが走り回っている。瞬きをすれば、そこには何もない。冷たい空気がある。冷凍されたように、イムと繋ぐ手以外の全てが冷たい。
「帝国に戻ろう」
横に座るイムの、垂れた髪が揺れる。がさがさに擦れた、枯れた木肌のように傷んだ髪が、横にも縦にも触れたように見えた。
あれからわたし達は、この災害に巻き込まれた人を助けるため、国が設営した救助活動に参加していた。生徒の三割が死んだ。二割に息があって、三割は学園寮にいなかった。残りの二割は見つかっていない。救助活動はもうほぼ終わった。もっと続けばいいと思った。そうすれば、毎日くたくたになって帰れるから。そういう禁忌めいたことを考えるくらい、今のわたし達には労働という薬が必要だった。
「お疲れ様です」
からからの声が下りて、足元まで隠す白く長いスカートが視界に入った。それの一部には水玉模様の血がついてる。リッジ・ケンブは、あり合わせの布で作った粗雑な白衣を着て、わたし達の前に立った。
「今日は午前の作業で終わりです。この後、残った者たちで地下の英雄墓に追悼を捧げますが、あなた方は?」
「どうして、英雄墓に?」
「被害にあわれた方、亡くなられた方の名前を刻みました。亡骸も、ありませんから」
わたしはイムの方を見た。考えているのか、考えていないのかも分からない。
「学園の地下……どうする?」
わたしが探し求めていたものがあるかもしれない。しかし、今のわたしは行きたいとも、見たいとも思わなかった。
「………………」
イムは答えず。彼女の口が小さく動いた気もするが、何と言ったのか分からない。聞く前に、わたしと彼女をつないでいた手が離れる。
「イム?」
イムはポケットから黒い紐を取り出して、治療時にそうするように髪を一本にまとめた。そうして立ち上がった彼女にわたしは困惑した。トリトリント達が死んでから、いまのいままで下を向いていたのに、いきなり活力に満ちたように動くから。
「行く」
リッジの無表情は背を向けて、イムは置いてきぼりであるわたしの手を力強く掴んで立ち上がらせる。足が絡んだ蜘蛛みたいにばたばたと転びそうになったけれど、イムが支えてくれた。
「どうしたの、イム」
「こんなくよくよした人間に追悼されても、あいつらは嬉しくないでしょ」
胸の中がぎちぎちと締め付けられた。締め付ける感情は、悲しみであり、切なさであり、尊敬であり、きっと、憧れなんだろう。
「私はっ! 皇女なんだから。こんな時に、胸張るぐらいできなくちゃだめなの。それだけは、ずっとしてきたし。それに……」
「イム――」
「それにっ! 私は、『学園に来てよかった』って、堂々と言ってやりたいから。やるべきことは全部やる、ユウメの心残りもね」
イムはまとわりつく陰惨とした空気を振り払うように声を上げた。
「イム……イムは――」
イムに聞こえたかは分からない。彼女は一房に纏めた銀髪を揺らして邁進する。目元を腕でこする彼女を見て、わたしは思う。これが、ミチルが見た背中なんだろうなって。
「フィアはどうしたの?」
リッジにわたし達と同じ提案をされたミチルと合流して、数十人の生徒たちと共に地下の階段を降りる。様子が百八十度変わって問いかけてくるイムを見て、ミチルは戸惑いながら、どこか嬉しそうにしていた。
「二号天幕の方で見ましたが、何をしているかまでは」
「夜、歩き回ってたから、寝てると思う」
ミチルの手を繋いだファウンが言う。彼女の声に子供らしい元気はない。ちゃんとご飯を食べているのか心配になる声と顔色。ここにいる学生たち全員や、地下通路の薄暗く湿っぽい空気も、そんな顔色をしている。わたしも、きっとそうなんだろう。
「ミチル、ファウン、わたし達の側、絶対離れないでね」
わたしが言うと、ふたりとも顔を見合わせて不安げに頷いた。
そして、延々と、地面の見えない山の頂上から下りるように地の底へと向かう。靴の音が響きまわるほど空虚で、自分が本当に進んでいるのか分からないほど虚無な階段を下り、その音でくらくらしてきた辺りで、やっと平面の床が見えた。
「ここが、開闢の英雄。そのお二人が安まれている場所です」
光源はリッジとイムがそれぞれに持つ手持ちの瓦斯灯のみだった。見えるのは、石の壁のみでそれが扉だと気づいたのはリッジが石の裂け目を跨いで両手を押し当てたからだった。石の扉が動き始めて、それがとんでもなく巨大なものだと気づく。ぱらぱらと埃が落ち、扉の向こう側は明るいのか石扉の裂け目から光が漏れ出てわたしたちを照らす。光は高く、それは高く伸び、時計塔の鐘ぐらいの高さまで伸び、そこで初めて、わたし達は地下通路ではなく巨大な空間にいるのだと気づいた。
「どうして、ここまで巨大な空間を……」
学生の一人が言うが、リッジは答えないし、誰も答えられない。ごりごりと巨人が石鉢を擦るような音が続き、扉が動いていく。一人分の隙間が空いても、光に慣れていない目では、逆光に負ける。
「では、行きましょう」
リッジがそう言って呆気にとられたわたしと、学生達を置いて逆光に吞まれていく。イムのわたしを連れる手が優しく引かれ、一歩、また一歩と、求めた答えに近づいていく。幾度も幾度も夢に見たリサの旅路、その終点。わたしの心には、ちいさな高揚があったが、足取りは重かった。この漏れる光は、祝福の光ではない。
光の先にあったのは、英雄の墓というには小さすぎる墓石だった。絵本の一頁にぽつんとそれがあるように、それが墓だと分かる最低限の装飾をされた石が二つ並んでいる。空とも言える高い場所には学園の教室がまるまる入りそうなほど大きな、球状の天蓋灯が大きな鎖で吊るされている。小さな太陽のように輝くそれが、数十個はあった。それでもまだ、天井は闇だ。昼よりも明るいが、冬の夜のように空虚な空間にずっしりと重い空気を感じる。
全員が扉を通過した時、リッジ・ケンブが振り返った。わたしを握る手に痛みを感じる。振り返った彼女は、満面の笑みだった。
――虫の這いずる音がする。
空の果て無き闇が動く。そこには、幾星霜を経た夜空のように、幾千の瞳があった。闇が、人の指を模倣したかのような五本指が天蓋灯を吊るす鎖を掴む。三本指の手、四本指の手、七本指の手、数十の天蓋灯を数十の手指が掴み、夜空と星が降りてくる。恒星のような光に照らされても夜空は闇、黒ではなく、無限の宙のような闇。あの報告書は、この現象を絵に落とし込んだのだろうが、これは一枚の絵で、平らな机の上で伝えられるものではない。瞳で見て、理解した。彼が全くの例外なる者であることを。
「――『アァ レウェ』」
無限の瞳は全て、一点を結んでいた。その先にある彼女の身体が、不自然に震える。弾かれた、楽器の弦のように。
わたしの腕を握る手の力が弱まる。
「そう。私は、ずっと見えていたのね」
「イム?」
名を呼んでも反応は無く、彼女の瞳はあれらと共鳴するように見開かれている。
「イム!」
「ユウメとクレッテに無くて、みんなにあるもの」
夢を見ているのか、宙を見ているのか、どちらも同じものなのか。わたしは彼女を覚ますべきか、それとも、あの宙を殺すべきか迷った。圧縮空気を送り込もうとして、すぐにやめた。
殺せるわけがない。
あれは、もう生物だとか、命だとか、そういうものではない。夜が、宙が動いている。現象を相手に、どうすれば人は殺意を抱けるだろうか。
宙が迎えに来ている。
「イム、逃げよう!」
イムグリーネは虚ろに言った。
「私は、何を好きになったの?」
彼女のランプが落ちて、割れ、小さな火の爆発が起き、イムが死んだように崩れ落ちる。掴まれた腕を掴み返し離れてしまう前に抱き留める。彼女の胸が上下していることを認識して、心の底からほっとすると、思い出したかのようにわたしの心臓が警鐘となって暴れまわる。事実、わたしはあの宙に気を取られ、現状を忘れていた。
「皇女様? どうなされたのです!?」
後ろにいたミチルが駆け寄ってくる。
「顔色が悪いな……」
彼女はイムの顔を覗き込んで言う。わたしは、いや、わたしとファウンはその様子に途轍もない違和感を抱いた。まるで、まるで、あの宙に気づいていないみたいじゃないか。
「な、何を言っているの……あれが見えないの……?」
ファウンが宙を指さしながら言った。ミチルは、困惑して上を見上げる。しかし、降りてきた顔は、困惑のままだった。
「何? なにが言いたいんだ、ファウン」
「――ダメだ」
わたしは気を失ったイムを抱え、ミチルの手を強引に引っ張って開け放たれた扉に走る。引き摺ってでもと強く引いた手にミチルは応えて、抵抗なく、誰も止めることなく、まるで、わたしが突然、凶行を起こしたとでも言いたいような学徒達の目を抜けて数秒で扉を通過した。
大丈夫。イムは生きてる。ミチルを連れればファウンもついてくる。大丈夫。後ろは振り向かなくていい。階段を、階段を上って逃げなければ。
「はあっ……はぁっ……」
数十段も昇っていないのに、息が上がる。呼吸が苦しい。体の動かし方を考える前に体が動く。まともに息を吸い込めていないのかもしれない。背後からはミチルの荒い息以外何も聞こえない。闇だ。
「はぁっ……はぁっ……」
あの歪な指が追ってきているかもしれない。後ろを振り向けば瞳があるかもしれない。ちりちりと炎で炙られるような焦燥感が、わたしの身体を勝手に動かす。この感情は、この涙が出るほどの強い感情は『恐怖』だ。
「はぁっ……はぁっ……」
自分が傷つくことや、痛み、死んでしまう事すら、ここまでの恐怖を感じたことがない。イムがあれにつかまれば、どうなってしまうのか、分からない。分からない。彼女が気を失う前に言った言葉も、分からない。
『分からない』がわたしを追う。背中を這うわたしの汗も、常に聞こえ続けるこの虫が這う音も、何もかもが。こわい。
しかし、想像は想像で終わり、わたし達は驚くほど簡単に外に出れた。陽光が迎え、本当の空が迎える。ミチルもファウンもイムもいる。でも、わたしは、まだ逃げた。追ってきて欲しいと、思ったのだ。あの永劫の宙に。
お願い。追ってきて。
追ってきてくれれば――
追って、来てくれれば。
まだ手遅れじゃないって、希望が持てるのに。
 




