第66話 そして一切の絶望すら捨てよ
朝日なんて死んでしまえばいい。
夢を見る暇もなく眠ってからの、目覚めてもまだ夜だった瞬間が嬉しいから。そう願ったおかげで、目を開けた時に夜は夜であり続けていたと知れた。朝日は命拾いしたのだ。
ほんの少しだけ眠ったようだけれど、眠った気がしない。だって、まだ心臓がどきどきしている。焦げた匂いがする。焦げたのはわたしの脳かもしれない。
水が飲みたい。シャワーを浴びたい。頭を冷やしたい。
水。水。水。
毛布の下で裸で眠るイムをそのままにシャワーを浴びて、水差しから水を飲むと並列で効率よく支離滅裂に動いていた思考がまとまり始める。
服を着た。軍服は着たくなかった。学生服だ。おもいっきり蹴り上げたボールみたいに上へ下へ感情を動かした出来事が、あの数時間ですべて吹き飛んだ。数十年前のことのように霞がかかっている。ボールは帰ってこなかった。それぐらい、イムが強く蹴り飛ばしたのだ。
そうして、そのせいで、普段の自分も蹴り飛ばされた。イムとはどこか他人のようにすら感じるのだ。近づきすぎたせいで、今の距離がどこまでも遠く感じるからだろうか。なんにしろ、劇的に恥ずかしい。
「ユウメ……?」
半身を起こしたイムが、気が狂ったように水を飲み続けるわたしを見て困惑していた。いつの間にか起きていたようだ。何を言えばいいのかわからなかったので、あらかじめ言おうと考えていたことが飛び出した。
「その……よ、良かった……から……」
イムは猫みたいに笑って「そう」と言う。
「さ、先に学園行っとくから!」
いたたまれなくなったわたしは足がもつれるくらい走って逃げだした。
朝の前は最も冷え込む。夜が日の光と温かみを忘れて、黒と青の絵の具をぶちまけたように暗く、寂しい。髪を纏めずに走り出したせいで、強い風に揺られた髪が顔の前に躍り出る。
雑木林に走る一本の道を歩く。ざあざあと、風に揺られる木々が悲鳴を上げる。木も風を鬱陶しいと思うのだろうか。残り少ない葉っぱを吹き飛ばされて、何もかも自分から離れていくのは寂しいとわたしなら思う。
学園の門に繋がる塀には、無骨な見目を嫌ったのか長い長い花壇がある。木から千切れて風に乗る木の葉を目で追った先に、その花壇の前で佇む見慣れた姿が入り込んだ。
花壇の一点を見つめているが、花を見ているわけではないようで、何か考え込んでいる時にたまたま花がそこにあったといった様子だった。
驚かせないように足音を立てると、かえって驚かせてしまったようで小さく声を上げて振り向いた。
「びっくりしたぁ。ユウメかぁ」
フクロウちゃんは、胸に手を当てて息を吐いた。夜中に後ろから足跡がしたら、女の子は誰だって驚くだろう。申し訳ないと心で謝って、歩み寄る。あのモリフクロウはいないようだった。
「うん。おはよう。なにしてるのかなって思って」
「うぅん。考え事です」と言うと、続けて「寒いから、学園の中で話さない?」と首を傾げながら言う。
彼女はわたしの濡れた髪を見て言う。気を使ってくれたのかもしれない。
今度は二人で一本の道を歩く。フクロウも夜に眠るのか聞こうとすると、先に質問が投げられる。
「シャワー浴びてきたの?」
「はし」
「はし?」
「はい。あびてきました」
動揺は動きが揺れる。だから、わたしは今石みたいに首を固定して前を見ている。動きは揺れてなかったのに彼女は訝しむように少し黙った。
「さっき考えていたことだけど」
「うん」
動揺に対して特に言及はない。むしろ、どういう解釈を取られたのか気になる。
「トリトリントに『なにがあっても死んじゃダメ』って、言っちゃったのがずっとモヤモヤしてて」
自殺を止めたときに言ったのだろうか。
「私は生きることを諦めずにやってこれた。だけど、なかには、どうしても辛くて、幸せになるために死のうとする人もいるのかなと思うと、簡単に死んじゃダメっていうのは無責任な気がして……彼女に限った話じゃなくて。それで、ぐるぐる考えてたら寝れなくてここまで歩いちゃったんだ」
彼女は人のために思慮深くなれる人間のひとりであるのだ。彼ら彼女らに比べてわたしは他人に無頓着で、星の裏側で他人が死のうがどうでもいいと思う。だが、彼ら彼女らは違うのだろう。その意志は尊敬に値する。幸せになるべきだと思う。だからこそ、事情を話せないのがもどかしい。
「真に人の幸せを願うなら、どうするべきかって話だよね。わたしは無責任じゃないかって考えることが、既に責任のあることだと思う。その人がどうやったら真に救われるか、もちろん、自死のことも選択肢に入れて。それを親身に考え続け行動することが、救済につながるんじゃないかって思う。いつかはね。……って、答えでどう?」
お悩みに答え続けてきた部長の答え、かなり頑張って考えたがお気に召してくれるだろうか。たっぷり時間を取って、にもかかわらず若干しどろもどろの答えに、彼女は不満そうな顔もせずにくすくすと笑った。
「ふふ、好き」
「あ、ありがとう?」
学園に入ると、どちらが指し示すわけでもなく自然と足は相談室の方に向かった。わたし達双方にとって落ち着ける場所は片手で数えられるほどしかないからだろう。
全く人気のない夜の学園は寂しいというよりもどこか神秘的で、ちょっとだけ楽しい。カッツィが忍び込みたがる理由が分かったかもしれない。学園の廊下は壁の面積と並ぶくらい窓の面積が大きいのと、夜空を眺めることを止めた大人たちがふと立ち止まって空を見上げるほど、晴れ渡った先に星が輝いている。おかげで明かりが無くても悠々と歩ける。
相談室のカギはいつでも制服のポケットに入っていて、わたしは制服を着ている。スムーズに扉を開け誰もいない相談室に入ると、二冊のノートが乗る長テーブル、それを挟む黒い布張りのソファ、相談者からのお礼の品を入れたりするキャビネット、ウィズダムが持ってきた鳥の止まり木(使われているところは見たことがない)、イムがよく座る偉そうな革の椅子がいつも通りに出迎える。
夜の光源しかないせいか、フィアの深海に沈んだようにすべてが蒼い。神秘的に思うのはそのせいなのかなと思う。キャビネットから瓦斯灯を取り出そうとして、やめた。
「あのフクロウも、夜に寝るの?」
ずっと頭に残っていたことを聞いた。フクロウちゃんは座らずに、立ったまま数秒考えた。
「うーん? そういえば、寝てるところをあんまりみないなぁ。飛べるようになってからは人の前では寝ないようにしているのかも」
「本当に、甘えないやつだね。ウィズダムが持ってきたあれも全く使わないし。しっかり恩を返す賢い鳥だから、あまり恩を受けないようにしているのかな」
わたしが座ると、彼女の視線はソファ同士の間を行き来する。選ばれたのは対面のソファだった。
「鳥の頭のはずなのに、人の言葉を理解しているからね……そういえば、活動報告のノート。もう二冊目だよ。これ、よく書いたね」
手に取ってぱらぱらと捲られる。規則的に書き込まれていたり、時には乱雑に書き込まれたそれが一瞬で捲って閉じられる。一枚一枚がひとりひとりの悩みでもあり、わたしの悩みでもある。解決できたものもあるが、解決しきれていないものもある。特異点研究部のやつなど珍妙なものがその一例だがそれらも含めると、一学年分ほどのお悩みは聞いたのではないだろうか。一番多いのが魔術関連。二番目に勉強。三番目に人間関係。四番目に不自然で不思議な事。五番目に恋煩いで、それは珍妙なものにカウントされている。
「そうだね。本当に……頑張った。人の悩みって難しいけど、誰かのために頑張るって悪くない気持ち。楽しかったな……そろそろ選挙戦が始まるし、相談部はお休みだね」
わたしが生徒会を目指す理由を彼女には話していないし、誤魔化してもいない。『話せない』と言っている。
「生徒会に入ったら、この部活はもうやらないの?」
彼女はわたしを見つめながら言う。夜の神秘色を吸い込む彼女の瞳が揺れていた。
「いいや、やるよ。『楽しかった』じゃなくて、これからも楽しいものにする」
わたしのことは信用できないのか、それとも、もっと信じさせることを言って欲しいのか彼女の瞳は揺れている。
「ユウメ。もし、もしも、これが最後だというのなら、最後の『お悩み』を私に譲って、そして、聞いてほしい。答えは――いらないから」
そこで初めてフクロウちゃんが求めているのが確信ではないことを察する。
「――うん。大丈夫」
彼女に糸が張り詰める。口に結ばれた一文字が動くとともにその糸も切られるだろう。彼女から何を言われようが、両手を広げて受け止めよう。大丈夫と口に出したのならわたしは何を言われても、赤い手の手先だとか、アァ レウェの手先だとか、実は男だとか、グリズリの事が少し怖いとか、実はイムが嫌いだとか、実は――実は、わたしのことが好きだとか。何を言われようと、覚悟はできている。
だが、張り詰めた糸は張り詰めたまま、ゆっくりと弛んでいった。
「やっぱり、いいや。もっと、場と雰囲気を整えないとね」
彼女はブレザーの上から胸の四角いものを握って、乗り出した体をソファに預けて息をつく。わたしも息をつく。彼女のお悩みが何だったとしても、わたしはわたしの答えをださないといけない。その答えが夜の神秘に消えたのは良いことなのか、分からない。分からないが、わたしは息をついた。
「……わたしは、フクロウちゃんからもらってないものがある」
そう言うと、彼女は慌てたように体中のポケットを触った。いつも落ち着いた彼女からかけ離れた姿にわたしが笑いを零すと、彼女はむくれた顔をした。
「これだよ」
机の上に置いたものは、夜空を閉じ込めたように小さな点がいくつも浮かぶ立方体のもの。
「相談が解決した時に、いつも何かもらって詰めてるやつだよね」
魔術師相手なら、魔力をもらって圧縮すれば色がつく。だが、非魔術師からは魔力をもらえないので彼らからもらった硬貨や個性のあるアイテムなどを圧縮していた。それを立方体に詰めてコレクションにしたものだ。
「そう。フクロウちゃんから、まだこれもらってないからさ。何でもいいから、何か頂戴よ」
「そういうことなら。そうだな、えぇっと。そうだ。これとかどうだろう」
あのモリフクロウの羽根だ。それをスカートのポケットから取り出した。ハンカチに包まれて白と灰と黒が織りなった数枚の羽根が扇のように広がる。
「なんで集めてるの?」
「捨てるのもったいないなと思って。好きなのどうぞ」
「じゃあ、一枚もらおうかな」
綺麗なものだった。羽の根にペンがついていても様になるだろう。圧縮してしまうか悩む。もう一枚、余分にもらおうか――と、ふと、気づく。
彼女のスカート。そのポケットから零れ落ちたかのような位置。そこの空間が歪んでいる。空間を操るわたしだから見つけられたのかは分からない。細長く、ちょうどこの手にある羽根のサイズだ。光の屈折がおかしい。蜃気楼のように、夜のわずかな光が揺れている。
わたしは、フクロウちゃんの傍に行きそれを触る。触って、いや、触れる少し前に理解した、この羽根の正体を。
――アルキメデスの持っていた、漆黒の羽根。
フクロウちゃんを腕の中におさめ、ソファごとその透明化した殺意を粉微塵にする。これをポケットに入れていたのか? とんでもない、ひきつけを起こすような強い寒気を感じた。
「あの羽根! どこで手に入れたの!?」
彼女は急展開についていけないようで、おびえた様子で答える。
「私のフクロウだよ!? ど、どうしたの?」
あのおぞましい羽根は、この綺麗な羽根とは似ても似つかない。彼女はあの羽根を認知していない。羽根はハンカチに包まれることなくポケットから零れた。
スリ入れられたのか?
フクロウちゃんを狙って? フクロウちゃんだけを狙って? 透明化の魔術?
疑問に答えるように、学園を囲むように展開した空間が消える。魔術師が直接接触したのだろう。防御魔術に押し負けたのだ。何十にも、何百にも展開した空間が消える。
空間はわたしを中心にして展開している。それが次々と消えるということは、近づいてきているということだ。この場所へと。
空間がどろりと溶けて穴が開く。
最後の相談室を囲む空間、窓から見える最後の壁に何かが当たる。そしてそれは雹のように後に続いた。透明の、鳥だ。不可視の鳥が、全てを溶かす毒に溶け、肉片を振りまきながら落下している。
「フクロウちゃん、わたしからはなれちゃ――うわぁ!?」
腕の中の彼女が、わたしを突き飛ばす。
「なんで、どうして、こうなっちゃうのかな」
なんで、あの羽根がたった一枚だけだと。わたしは、選択を間違えた。
「これ、もう、だめ、だよね」
彼女の声は血がはじけるような、血がからむように拙く、溺れている。
胸が溶けている。
「ダメだ! 死んじゃ」
後悔は、後になって悔いるから後悔なのだ。彼女はもう、後のものになっていた。彼女は痛みに喘ぎながら、胸を強く握る。だが、最初は感触を返すように歪んだ服が、中身が無くなったかのようにするりと抵抗を止める。
彼女がブレザーの前を開けると、胸から背後の景色が見えた。
「ゆうめえ、わたし、やっと……生きていいと、思えたんだよ」
彼女がブレザーを開けたのは、手鏡を取り出すためだった。
「あ……ああ……だめ――あなたは、幸せにならなくちゃいけないのに」
「はは、悲しくて、泣いたことなんてなかったのにな――」
血が溢れる。彼女はふらふらと、立つ。垂れた血が更に体を溶かす。それでも立つ。血に透明のものがぽたぽたと落ちる。彼女の涙が、大粒の涙が落ちる。それでも立って、絶対に、言葉を遺そうと力を込めた。
「あなたのおかげ……ユウメ、ありがとう。これ――持っていくね。」
溶けていく。一人の人間が死んでいく。どうあがいても助けられない。だからこそ、わたしは空に手を伸ばす。
胸も腹も首も。
手も足も、頭も。
溶けて溶けて、溶かしつくした。
「ああ、ああ。なんで、なんで」
胸が痛い。走馬灯が見えるほど痛い。フクロウちゃんが消えていく。わたしのあたまに流れるフクロウちゃんはもういない。もう二度と、彼女と日々を過ごすことは出来ない。
彼女から垂れた血と肉が、相談室を溶かして行く。
肉片も、骨も、血も、遺灰すら集めることを許されない。
嘔吐する。手で口を押えても、胸の痛みは痛みを吐きだそうとする。
致死の雨が、遂に相談室に訪れる。
机の上の活動報告書に光の歪みが垂れて、今までの全てを溶かす。
「だめ! やめてぇ!」
そう言った時には、すべて消えていた。
机の上にフクロウの羽根が残っていることに気づく。死に物狂いで飛びつき、爪が剝げることも恐れずにそれを回収した。
どこかで爆発音が鳴る。どこからかは分からない。どこからでも鳴っているからだ。
致死の雨がわたしを穿つ前に、火炎が頭上を通過した。瓦斯管の瓦斯に引火して上階をすべて吹き飛ばしたのかもしれない。このままではわたしも死ぬ。自分の周りを空間で囲み、振り子のように自分を投げ飛ばした。
飛ばされながら、わたしは地獄の流れを見る。学園の大きく広い廊下は燃え、倒壊し、端から火炎と毒により消えていく。校舎の一部は既に消し飛び、ただの穴ぼこになっていた。中庭の大きな木は倒壊し、学園を叩き潰してただ燃焼を手助けする薪と化している。新たな火柱が立って、教室のある区画を消し飛ばした。
燃えて、燃え、溶けて消え。
硝子と鏡の雨が降っている。きらきらと輝くすべてが火炎を写し、朝日がここに訪れたかのようにすべて赤く輝いている。
光の歪みが降り注ぐ。空に雨粒を貼り付けたかのように歪に光が降り注ぐ。全てが、致死の毒だ。
何もかもが溶けて消える。
わたしは中庭の一角に着地した。なにも頭に追いついてこない。なんで、こうなった。どうして、こうなった。
「ああ……あぁああ!!」
殴りつけた地面は、大地が脈動するかのような音を立ててへこむ。
「よお」
空から声が落ちてくる。
見上げた先に、あの黒翼を携えた男が飛んでいる。
「ぬるま湯は心地よかったかァ!? 熱さを思い出させてやるよ。ユウメェ!」
男が声を上げる。歪んだ星空に歪んで狂った男が一人飛んでいる。
「ズグロ……ズグロ・ピトフーイ」
墜とせ。
「殺してやる」
墜とせ。あの黒翼を。




