第61話 鴉の館は空が見ている
「イザヤ、今から言うことは、王から宰相への言葉だ」
「なんなりと」
「あの扉を開けておけ。野良猫が入れるようにな。では、――いい夜を」
立ち去る王の背中に目を向けたイザヤは、聖櫃の間を後にする。寂しい夜の王城だった。広大とも言える、床から天井まで細かい意匠を刻んだ廊下を抜け、自室に戻る。迷いは無かった。
イザヤ本人しか存在を許されないはずの部屋には、また別の誰かがいる。投げ捨てられたように、ベッドにうつ伏せにもたれかかって。
イザヤは驚くことなく、その死体のような彼の肩に手をかけ、仰向けにひっくり返した。その死体のような人間も、イザヤだった。顔面の紅潮で酩酊していることが分かる。
「なぜ国王があれを使える?」
王にイザヤと呼ばれた人間が静かに怒りながら、顔の皮を剥ぐように仮面を外す。その人皮の下から現れた顔は、多くの場でヴァルターと呼ばれた者の顔だった。
「答えろ。鍵はどうやって手に入れた」
イザヤは頭の中と目の球をぐるぐるとさせながら、意味の無い言葉と意味のある言葉が混ざった、呂律の回らない口で話す。
「ひぜきあしかしら、ない」
「アレはあの作戦からずっと凍結させておけと元老院から命令されたはずだ。技術防疫機構を敵に回すつもりか?」
「……」
「くそ、おい。遠征はいつからだ。三英五騎士が王国中を巡るって認識で合っているよな」
「合って、いる。きょうの夜にここを、たつ」
「……おい。ズグロの言っていた『開戦』とはどういう意味だ、何をするつもりだ? 」
「……王しか、知り、得ない……」
「役に立たねぇ。よく聞け。王の言葉だ。『あの扉を開けておけ。野良猫が入れるようにな』忘れるなよ」
せめてもの八つ当たりにイザヤの襟元を叩きつけるように離す。マスクを懐に隠し、窓を開ける。夜風が吹き荒ぶ中、天に吊られた王城から躊躇せず飛び降りた。
そして、着地した時には、既にヴァルターと呼ばれていた顔は変わり、また別の人間として王城を抜け夜の街を歩き始める。
誰もいない。夜の王都は誰もいない。夜の浜辺にもさざなみが響くというのに、溢れ返り、毛糸のように絡まりあった人間達は静まり返る。どこかで物が落ちる音が鳴り、その後に子供が親の顔を覗くような更に激しい静寂が訪れた。
ヴァルターはその夜に溶け込んでいた。まだ人間は夜を克服しきれてはいない。得体の知れぬ夜を払う太陽を神と崇める者は夜に生きることは出来ない。出来るのは、自らを人間と自覚していないものだけだ。
「ユウメ」
そう呼ぶと、夜でも目立つ帝国特務の白い軍服と第二皇女、学生服を着た友人数名が振り返る。
「誰?」
「ファルターだ」
「あぁ、分かった。こっちは、トリトリント。この前言った人探しの依頼人。で、この人はファルターっていう、えーと、技術防疫機構の人」
トリトリントと呼ばれた少女は技構の名前を聞いて一瞬怪訝な表情を見せたが、直ぐに取り直して自己紹介を始めた。
「トリトリントといいます。トリでもリントでも、お好きにお呼びください。なぜ、技構がここに?」
「あぁ、じゃあリントちゃん。君はヘミングウェイという小説家が好きだったね? 最近、技構での情報統制が済んだ作品だ。プレゼントしよう」
ヴァルターはどこからか手帳のような薄い書籍を取り出すと、トリトリントに差し出した。その題名は『老人と海』だった。
「いえ、別に好きではありませんが」
「いや? 君はこれが好きだ」
「なぜ……知っているんです?」
トリトリントが礼を言いながらそれを受け取ると、ユウメがヴァルターの右肩を強引に掴んでそっぽを向かせた。
「ねぇ、可愛いかもしれないけど、こういう時にも口説くのやめなよ」
「やめられないし止まれない。男はみんな病気なんだよ」
「もういいわね? 星の明かりが出ているうちに始めるわよ。フクロウちゃん、フィア、クレッテ、トリトリントが地中から侵入する班。私とユウメとファルターが正面突破で時間を稼ぐ。その間に捕らえられた人を見つけて連れてきて」
皇女が号令を掛ける。作戦としては、説明された通り地中侵入班と正面突破班に別れ、誘拐された人をピトフーイの家督に突きつける。そして、その場で特務が逮捕するという筋書きだ。
「よし、作ったよ。トンネル」
ユウメがそう言うとフィアが地面に手を突いた。地中侵入班の他三人が離れないように服を掴む。
「分かりました。行きます。『深海少女』」
彼女らは、ヴァルターの手に入れたピトフーイの館の青図を参考に、空間魔術で削った地中を領域魔術に上書きし、その中を泳ぎ、地下に直接突入する。
ずぷずぷと地面に沈み込む彼女らを見送って、ほか三人はユウメを先頭に館の門、閉じられた柵に向かう。
亡命者を護るためか、それとも秘密を護るためか、やけに整った装備をした傭兵が二人、門の端にそれぞれいる。
「おい! そこで止まれ!」
頑丈そうな黒光りの鉄柵に迷いなく突き進む不審者に傭兵が声を上げる。だが、先頭に立つ女の白い軍服を見ると、酷く驚き、たじろいだ。
「うるさい。この人、見たことある?」
ユウメが行方不明者リストから引き抜いた一枚を見せる。あの遺体のものだが、傭兵の反応は芳しくなかった。
「知らん」
ユウメが皇女の顔を見ると、皇女は首を振った。
「うそ」
ユウメは傭兵に突き進み、四肢に着けた八十キロの重りを力に上乗せして体当たりをする。門に叩きつけられた傭兵は、虚しくも崩れ落ち、内蔵が損傷したのかのたうち回りながら呻き始めた。そして、もう片方の傭兵は既にヴァルターが気を失わせている。
彼は傭兵の腰から鍵を取り、門の鍵穴に鍵を差し込む。鍵が開く音が夜に良く響くが、門にユウメが体当たりした影響か、鉄柵が変形して開かない。
それを見た彼女は、鉄柵の間に手を入れると、引き戸を軽く開けるかのように鉄を変形させ、入口を作った。
「皇女、あんたがこいつをこんな化け物にしちまったのか?」
「元からだったわよ」
「失礼だよね。普通に」
「お前が段々カフェに似てきたことに危機感を覚えているよ、俺は」
門から入口までの一本道は光も人影もなく、楽々と入口の扉に到達する。灯りが消され色の分からない両開きの扉をユウメが蹴破ると、蝶番に掴まった勢い良く回る扉に、傭兵のひとりが打ち付けられる。
それを避けたもう一人の傭兵が襲いかかるが、ユウメの鉄輪に頭を殴られる。彼は唐突に膝が無くなったかのように倒れ、気絶した。もしくは、死んだ。
「何者だ、相手が王国貴族だと知っての狼藉か?」
広間に響いた声は、右手側にある階段から聞こえた。装飾の無い、機能を優先した室内に転がる二人の傭兵と、白い軍服を見た声の主は、階段の踊り場で湧き出る憎しみの激流に身を任せ、憤怒の表情を浮かべた。
「帝国め……」
「誰」
「当主の側仕えだ。亡命前からのな」
体の細い初老の男は、皺のある顔に更に皺を重ねて睨みつける。
「もう、御当主様とあの国を繋ぐものは無い。変わらぬ愚行を、王国の剣に裁かれるがいい」
男は一方的に言い放ち、踊場から階段を上り姿を消した。入れ替わりに、五人の魔力を持った傭兵が現れる。
「ゆっくり、騒がしくやりましょう。朝は遠いから」
「じゃあ、もうちょっと加減しないと」
五人の魔術師は変形した家具や壁、床に取り込まれ、締め付けられ気絶していた。
「……これで人が寄ってくればいいのよ」
「しかし、思ったより人を使っていないな。装備はいいが程度が低い」
「わたし達にとってはいい事だね」
「そうだな。下の方も楽だろう。俺たちはアイツを追うぞ」
隠しきれない帝国調の装飾が施された階段を登ると、廊下の奥まったところで初老の側仕えはいた。細剣を持ち、燕尾服の上着を脱いで、帝国の面々に立ち向かおうとしている。
細剣を握る右手に、剣を離すまいと巻かれたスカーフが不退転の決意を表していた。
彼も例外なく打ち倒し、その先へ進もうとした時、ヴァルターが手を挙げて待ったをかける。
「先に身分を明かしておくべきだったな」
彼はそう言うと、帝国の刺客だろうと半ば諦めの目を向ける側仕えに、ひとつの証を見せつけた。それは、輝きの星と、その中心で見開く瞳を象った紀章。王国を象徴し、法を司る者たちを示すものだった。
「国家憲兵だと……」
「王国が味方してくれると思ったか? 女を困らすやつに味方なんぞいるわけがない」
『王国が裏切るわけが無い』と考えているであろう側仕えをヴァルターは簡単に読むことが出来た。なぜなら、王国の何かを秘し、実行し続けることを亡命との条件に受け入れたのだろうと、予測はついていたからだ。
「一度、ピトフーイの当主と話をさせろ。あんた自身も、やるべきことを再確認した方がいい」
明らかに決意の鈍った側仕えを前に、新たに追い打ちがかかる。
階段を上る、数人の軽々とした音が聞こえた。地下から登ってきたフィア達だ。少しの戦闘があったのか、緊張の汗を浮かばせるフクロウちゃんの後に続きクレッテ、トリトリントと続く。
トリトリントの腕には拘束衣に包まれた女性が抱えられている。その女性が『ファースト』だと気づくのには少し時間がかかった。なぜなら、髪の毛が全て剃られ、脳の中身を頭に描いたような図面が書き込まれているからだ。
白い拘束衣には出処の分からない赤い滲みが広がっていて、力なく寄りかかる姿と、海の泡波のような白い肌が一切の生気を否定している。
「その人は……」
皇女がトリトリントに言葉を投げかけると、彼女は歯を食いしばって、涙の乾いた、烈火の怒りを込めた瞳を震わせ、首を横に二度降った。
間に合わなかった。
「通してもらう」
ユウメは、瞬きの間に距離を詰め側仕えの横に立った。空間に刻まれた細剣が、ぱらぱらと落ち、側仕えの首を掴んで、彼が護っていた扉へ投げつける。
木の破片を飛び散らせながら、扉が通路に変わると、躊躇せずに暗い室内に入った。
そこは、不可解な部屋だった。椅子も机もない、本棚も、ベッドも無い。壁にカーテンの無い窓がひとつと、夜の灯りを通すドーム状の天窓だけがあった。執務室でも寝室でも娯楽室でも無い、何でもない部屋である。鳥籠のようであった。
ユウメは、ぱきぱきと木片を踏み潰しながら、気を失ったのか、動かない側仕えの老人を叩き起こそうと近づく。そして、ふと、何の理由も無く右を向いた。
鴉がいた。人の身体を優に超える大きさの鴉が、ユウメを見下ろしていた。黒く丸い、知性の光がある目と黒い嘴が真っ直ぐユウメを向いている。ただの巨大な鴉では無いことは、身体を見ると分かる。人の身体だ、人の身体に黒い羽と、巨大な黒翼と、鴉の頭を取り付けたような様相だった。
鳥の獣人。大きな椅子に座り、前のめりに手を組み、人を見下す鳥獣。人の身体に、一枚布を巻いたような服と気配を感じさせない身のこなし、息の殺し方に彼女の目が鋭く光る。
「あんたが、ピトフーイの当主?」
鴉が嘴を開くと、重く低い人類の言語が聞こえた。




