第60話 ステイルメイト
蜃気楼に揺れる帝国の尖塔、空に浮かぶ星と対の漆黒の帝城。吐き出される蒸気は、帝国の頭脳であり心臓である機関の息吹そのものであるが、力強いそれと裏腹に、都の血の巡りは、淀みつつある。
「外出禁止令が発出され、朝日を十度迎えました」
鍵盤を弾く音が数十に重なり、豪雨のような激しい喧騒が鳴り響く。十の指が別の生物のように動き回り、ひとつの鍵盤が沈むと同時にひとつの文字が出力され、それでは終わらず、波のように文字が連なる。
「進捗は」
女帝が通信室の代表者に話しかけると、無垢の仮面が首を曲げる。その仮面の眼部、女性の指のように細いレンズからくたびれた目が覗いた。
「瓦斯配管、蒸気配管、水道は都市循環から小規模循環へと移行、大気圧鉄道の開発も一時中断。気送管が停止されれば、国内の全てのインフラを停止したことになります」
また別の無垢の仮面をつけた軍服が立ち上がり、出来上がった文書を円柱の容器に詰め、丸い穴の空いた装置に入れた。空気の吸い込まれる音と共に、あの文書はどこかの都市に送られる。
「閣下」
硬質的な旋律に、男の声が混ざった。女帝が鋭い目を流すと、彼は仮面のレンズを隔てて、窪んだ眼窩で見つめ合う。
「キール」
萎んだ風船のような肉体に、無垢の仮面が乗っている。清潔に整えられた皺のない軍服、そして、ぶら下がる勲章だけが、法務の長官である証。変わり果てた彼を彼だと言わしめる印。
「ここでは……」
白い手袋を開け放たれた扉へ向ける。その指先の方へ、女帝は歩む。帝国の停滞した空気を切り裂くように。
二人目の感染者が発覚してから三十日、三人目の感染が起きてから十日。研究は遅遅として進まなかった。彼らはこちらが何を判別したいのかを解析し、それとは真逆に、時に従い、意志を持って混乱をもたらすために動く。見目は黒く細長い線虫であり、気まぐれに光の屈折を曲げ自身を隠す。そうなれば、どこにいるのか永遠に分からない。魔力を主食にすると想定し、実験器内の魔力総量が減ったかと思えばそれを食ったはずの虫の総魔力量は変わらず、エネルギーがどこに消えたのかも分からない。そして、外部から圧力をかけると避けるような仕草を見せ、時には全ては無駄だと言うようにその圧力を透過させる。虫について理解出来たことは『規則性が無いように振る舞う』ということのみ。いや、そもそも、虫の形を取っていることすらミスリードなのかもしれない。技構の支援を持ってしても、その内実は全くの不透明であり続け、ネットワークの縮小を最優先とするしか無かった。
女帝に敬礼を送る役人たちは、地位に隔たれずフードを被り、その上から仮面を付け革のベルトで頭を強く締め付けている。例外がいるとしたら、それが女帝である。
「各国に散る諜報連隊との連絡は依然、途絶したままであり、特務のヴァルター、カルベラからの連絡も同様です。王国に向かわせたカフェとサージェも消息を絶ち、イムグリーネ殿下も帝国に戻る気配は無い」
帝国の外は闇に溶けた。数世代前から張り巡らされた情報の網は、子どもが悪戯に蜘蛛の巣を取り払うように、木の棒に纏めて投げ捨てられた。
女帝は執務室のアンティーク調の椅子に座り、デスクを挟んで直立する法務の長官を見上げる。ゆらゆらと揺れる火を閉じ込めたランプが女帝の前で揺れる。彼は、どこを見ているのか分からない目で、重々しく言った。
「女帝よ」
帝国の領土が包囲され、クリュサオルという猛毒が現れた現状。彼は、事が起こることを確信している。
キールは腹に重石を入れたような、深く、重く言う。
「女帝よ。戦争が、始まります」
「何も、大袈裟なことでは無い。我の治世では」
「違う、違うのです。なぜです。なぜ、この状況で、民を締め付けるような真似を……国力を弱めれば、いかに、閣下の手の内にあろうと……」
「我が君臨し続ける限り、帝国が散ることは無い」
キールは押し黙った。クリュサオルの感染を封じるための外出禁止令。農繁期を半分潰してまでのそれは、戦争の予感を控えたままでは愚策だと。
「確かに、民たちを疲弊させることは間違いだ。だが、民たちを護らないことは、もっと間違いだ」
クリュサオルの感染経路は、未だに、寄生虫への直接接触以外、何も分かっていない。そのため、帝国内、全ての人員が、素材は問わず素肌の露出を避けている。そういう法を外出禁止令は内包していた。
「キール――痩せたな」
彼は顔を上げて女帝を見る。彼女は何の感情も乗せず、声を放った。
「息子のことは、残念だった」
二人目の感染者は、人体実験中の囚人の一人。三人目は、城内の役人であり、彼と同じ法務に携わる、キールの息子だった。
彼は、今も実の息子を使って実験を行っている。
キールは白い手袋と共に震える手を仮面に当てた。仮面を外そうとするが、上手くいかない。ベルトで止められていることを忘れていたかのように、ゆっくりと止め具に手を伸ばす。
無垢の仮面が外されると、その下にあったのは、腐った果実だった。
「あの日……囚人の目から、線虫が私の顔に飛んだ時。私は自分の顔を自分で剥ぎました。爪に肉が詰まり、剥げた爪もありました。痛みも忘れるほど、必死に顔を剥きました。それ程の、恐怖が、私を襲ったというのに、それをどうして、息子を思いましょうか」
口と鼻が繋がり、頬には穴が空いている。歪んだ現実を見つめるふたつの目が、理性があることの証であり、怪物で無いことの印だった。
「自分を忘れたか? キール」
女帝は椅子を引き、ゆらりと立ち上がる。
「女帝よ! あなたに分かるか……自我を無くした息子をただ見る憤怒が。地べたを這いずる人だったものの尊厳を見る悲哀が。尊厳を持たせてやったまま、死なせてやりたいとすら、思った。あの虫けらが『痛い、止めてくれ』と息子に喋らせる度に、手の震えが止まらなくなる。変わってやれたらと!」
「そうなれば、彼がお前を使うだけだ」
「女帝よ……俺には分からない。息子の口が、虫けらのものなのか……まだ、息子のものなのか……許せない。あの虫に侵される前に、王国を殺るしかないのです」
「人間は、目に見えない脅威に包まれた時、目に見える脅威を攻撃する。敵を見誤るな」
「あなたには……あなたには分からんでしょうよ! あんたは、我々とは違う! 人間を超越した別の何かだ! 到達者であり、超越者であり、超常であり、システムであり、天帝であり、――化け物だ……!」
女帝はキールの目をじっと見つめた。ギラギラと輝く目は、行き場の無い怒りを溜め込んで、無闇矢鱈に矛先を向けている。
女帝は彼と繋がる目線を切って、端に置いたチェスの盤を見下す。
「キール。お前は勘違いをしている。……数ある盤上の駒、お前がボーンだとしたら、我はキングだ」
「それはそうでしょうとも。少なくとも、場を整えても勝てないことだけは確かだ」
「違う――」
彼女は倒れたキングを握る。その盤面は、カフェとの対局が終わった時から時が止まっている。
「我もお前も……駒に過ぎん」
キールは困惑し、考える。そんな事、常識のこと……だが、彼女が含ませた意味は、ただの意味では無い。チェス盤の両側にある、ふたつの椅子。彼女が駒というのなら、そこに座っているのは、一体誰なんだ?
駒を操る存在がいる。女帝すら駒と見る存在が。
「キール。仮面を、外したな」
彼女は席を立った本来の目的に戻る。外出禁止令には、素肌を晒さないことを内包する、れっきとした『法』である。
彼女が『システム』と揶揄されるのは、その厳格な、あまりにも厳格な秩序の頂点に座しているから。冷たい血と揶揄される帝国民の頂点。彼女は氷と石の女帝、キャロルである。
「我が名のもとに執行する」
彼女がキールへと右手を翳す。彼女の視界には、右手の甲とアンティーク調の家具、室内以外は、何も見えていない。
女帝が手を下げると、そこに何も無かった。
生物がいた痕跡は無くなり、絨毯には血の赤も無く、人の温もりも無い。キールを構成していた全てが、虚無と化した。
女帝は、それを確認するまでもなく席に座り、書類を捲る。
「天帝は賽を振らない。世界が賽を振り続けたとしても」
ピューピルの王、ヒゼキアは六の目を空想する。
雪のように白い、聖櫃と呼ばれる木で造られた空間で、彼は脳の裏を見ていた。大木のような一本の聖櫃を柱に背を預け、だだっ広い寂寞感のある空間にテーブルと椅子を並べ。
卓に並ぶ胡瓜を塩漬けにしたもの、杜撰に切られた野菜のスープ、ハムを巻き込んだデニッシュを前にして、無意味な言葉を口に出した。
「思想家の真似事は辞めてくれないか。ヒゼキア」
「今は宰相であることを辞めろ。イザヤ」
現実に引き戻されたヒゼキアと、現実に引き戻したイザヤは、合図するまでもなく、壁に飾られた数ある絵画のうちから、ひとつに目を向かわせる。
「ならば、友として言わせてもらうと――お前がそこまであの女帝を恐れる理由が分からない」
その絵は『民衆を導く自由の英雄』と銘打たれた。
ヒゼキアが王権を握り、三十年。しかし、実権を握っていたのは直近の二十年だけで、十年、影の実権を握っていたのが実母であるフレデリカ。
フレデリカ王妃は、当代の王を暗殺し当時十歳のヒゼキアを王位に即位させ傀儡の人形として使い、陰の王となった。だが、戦争を続けていた女帝キャロル率いる帝国に王都付近まで攻め入られ、王国の命運が危ぶまれることとなる。
今、王国が帝国と呼ばれていないように、歴史は、そうはならなかった。
現代の三英五騎士、その主席と次席であるムサシとラストを連れて突如、空いた玉座に反乱を起こしたヒゼキアは、実母を暗殺し、正式に戴冠。表と裏の実権を握り、帝国軍を本来の国境付近まで追い返した。
絵画の男は『次期英雄』と呼ばれている。
「あの女帝は、賭けをしない。する必要が無い。必ず六の目を出すサイコロと言ってもいい。あれがいる限り、帝国を落とすことは不可能だ。だから、死ぬまで待たなくてはならない」
「あの女より私達が先にくたばるだろう」
ヒゼキアはグラスを手に取り、その中の透明な液体を踊らせた。憂うように渦巻きを見下す表情が、扉の開く音を聞いて、上がる。
「問題ない。アァ レウェが、彼女の鼓動を早める」
聞こえるか聞こえないか、小さく呟いて、席を立ち、手を叩いて客を迎える。
「あまり王を待たせるんじゃないぞ」
投げやりな声に、三英五騎士はそれぞれの反応を返した。ムサシとラストは無視し、クロゾットーレは帽を外した。ドゥデは媚びるように笑いながら汗を拭き、ボスティは明後日の方を向いていた。
「いやいや、申し訳ありませんね。遠征の準備が立て込んでいて……こちら、詫びの酒でございます」
ドゥデは苦労人らしく、処世術として持参したそれなりに高価な瓶をテーブルに置く。ムサシがそれを掠め取り、断りも入れずにコルクを開けて中身の液体を口に放り込む。
「俺が許して、俺が捌く!」
音を立てて椅子に座る彼を見て、ドゥデは目を丸くしながら「……ハハハ」と乾いた笑いを浮かべた。
「まぁ、何でもいいが。さぁ、食事を始めよう」
王が席に座ると、ムサシ以外の全員も席に座り、国の頂点達の食事としては貧相なものに手をつける。
「ヒゼキア」
ラストが食事に手をつけずに王の名を呼んだ。
「なんだ」
「今回の遠征、僕は参加しない」
それを聞いて、跳ね上がるように宰相のイザヤが顔を上げた。
「なに? ダメだ。それは困る。国の象徴たる君たちが国を隅々まで巡れば、簡単に大きく士気が上がる。この時期が」
「まぁ待て待て。イザヤ。訳を聞こう」
イザヤの口車が止まらなくなる前にヒゼキアがストップをかける。ラストは簡潔に答えた。
「やる気が出ない」
「ふぅむ。あの、黒猫か?」
そこで初めて、ラストは虚空に止まった目を外して、ヒゼキアへ目を向けた。ヒゼキアはグラスの縁を撫でながら顎を上げてそれを見返す。液体が揺れグラスの振動と合わさり気味の悪い音が鳴る。
「肯定か、否定をしろ。お前は英雄か?」
「――違う」
幾度と繰り返された押し問答に、呆れたように王は返す。
「相変わらずだな。お前の意思さえあれば、俺はお前が『次期』ではなく、現代の英雄と胸を張れるというのに」
「僕は、英雄になりえない」
取り付く島もない様子に、王は腹を決めたような表情を作り、グラスを口の中へ傾け、語りかける。
「そろそろ聞かせてくれよ。なぜ英雄と名乗らない」
沈黙がテーブルを包んだ。ムサシの酒を飲む音だけが響く。まだ、ダメか、と王がもう一度グラスに口をつけると、ラストは無表情に語った。
「――時折、自分の意思が薄れているように思う」
ヒゼキアはグラスを置き、話を聞く体勢に入る。
「民衆の声に従って動く度、今自分の体を動かしているのが民衆の集合意識なのか、僕の意識なのか分からなくなる。自分の体を空から俯瞰して、彼らのために戦う自分から、どんどん離れていく。勝手に動いているんだ、僕の体だったものが。
ヒゼキア、僕は、駒に過ぎないのか」
「いや違う。断じてちがう」
王は間を置かずにそう返した。
「俺たち、いや、我ら召し使う人間は、民の声で生き、民と共に生きる。民無くして、国も英雄もない。
だがな、よく聞けよ。我々は同じ場所に生きるが、同じ場所を目指してはいないんだ。それぞれが、何かに依存しきることなく、その方向へと、別々の場所へと目指している」
「その場所とは、なんだい」
「それが、欲望だ。全員が持つ、欲するを望むことだ。人類はそれを燃やし、合理に動いたり、非合理に動いたり……王に従ったり、英雄を応援したり。利用したりされたりして、やりたいことをやるんだ。
そうだろう? お前は、望みを欲していない。だから、他人の欲望に干渉され、自分を見失う。欲望を持て。自分を持て。薪は、なんだっていい」
自己哲学の答えに窮するラストは頭を片手で抑えた。
「じゃあ、試しに聞くけど、ヒゼキアは何を原動力に動いているんだ」
彼は両手を広げて言った。
「このテーブルを見て分からないか? しばらく王都を離れる君たちのため、ただ飯を共に食うために、卓に着く、非合理的な行為。そう、愛だよ。愛と平和。ラブアンドピース」
「愛が、あんたの欲望だと?」
「そうだ。忘れるなよ、必ず、愛は自分を繋ぎ止める。お前とムサシをここに連れたのも、愛が為すものだ。愛は、いい欲望だ」
「もっといい欲望がある」
聖櫃に囲まれた部屋に、テーブルを囲む彼らの内の誰でもない声が響く。
扉の前で立っていたのは、黒一色の外套に、精悍な顔立ちを持ち挑戦的な表情を持つ男。王は彼の名を呼んだ。
「ズグロ」
「強さへの渇望。俺はこれを勧める」
ラストはズグロの顔を知らない。どこかで聞いた名前だったが、興味も無かった。
「僕の相手になる人間などいない」
「じゃあ作ればいい。少なくとも、俺はそうするつもりだ。それに、護る人間を背負うと、高く飛べないだろ?」
ズグロの堂々とした振る舞いに、ラストの隣に座る男が賛同した。
「おい、ラスト、あのガキの言う通りだぜ。学園はそのためにあるだろ」
「それは明確に違うと言えるね」
ムサシとラストの言い合いが始まると、ヒゼキアが重く響く声でズグロに問う。
「何をしにここに来た」
ズグロは王さえも見下しながら、言い放つ。
「――決行の前に、声明を上げようと思ってね」
「あぁ、聞こう」
「朝日と共に、開戦の狼煙を上げる」
彼はそう言うと、ボスティから手渡されたデニッシュを食べた。




