第55話 赤い両手は誰の血か
標的の血か、自らの血か。この両の手に纏わりつく赤い手袋と、IXの数字。最初の赤い手は、どうして赤く染まったのか。
ざらつく木の壁に付いた五指の手跡は、絵画が滑り落ちるように自らの肉体へ、循環へと戻る。
「理不尽に殺せば、理不尽に殺されるのも道理だな……だが」
貫かれた左胸は赤い穴が開き、ぐるぐると音無き渦巻きが血を巡らせている。心臓という必然の部位が不能となり、代わりとなるのは魔術そのもの。全身の血液を意識して循環させる。
「まだ、絵を描き終わってないからね……理不尽に、生きさせてもらおう」
しかし、意識して循環させている以上、意識を失えば循環は失われ、明確な未来を迎えることになる。
「当たり前のことを、当たり前と認識すれば、当たり前では無くなる……正にこれか」
「順序が逆だろう」と呟きながら、身体全体を意識して不格好に歩く。脂汗が瞼から落ちて、涙のように流れる。痛みのせいか、風に蔓延する独特な臭いに気づくのが遅れた。
手を置いた壁は、厩舎のものだった。血液の鍵で解錠した、錠が土に落ちる。大きく、重い引き戸を動かすと、夜の静寂を破る金切り音が響いた。
獣の生きる臭いが漂う。奥に長く広い厩舎の中で、独房のような、木の格子扉で塞がれた数十の部屋には、干し草の中で眠る馬達が居た。
扉の動く音で目覚めたのか、手前の数匹は屈強な体を起こしている。脚が長く、太い。不審者を見ても動じることなく大人しい。軍馬なのだろうと思った。
馬の好奇の視線を浴びながら、逃げる算段を考えていると、外の深い闇から、馬の臭いのように漂う歌声が聞こえてきた。
「赤い手の未来はウォウウォウウォウウォウ。特務が羨むイェイイェイイェイイェイ」
貴族は道楽の狩猟を円滑にするため、付き人に大声を出させて獲物を誘導するという手を取ることがある。彼にそんな目的は無く、遊びなのだろうが。
むしろ、そちらの方が確実にメンタルを削ってくる。
全神経を血液の循環に注いでいるこの状況では、真正面での殺し合いでは勝ち目がない。
彼を丸腰で迎え撃つのは悪手で、背を向けて逃げるのが最善の一手。
厩舎内の全ての扉を解錠し、開け放つ。馬を繋ぐ縄を切り、外と馬との動線が出来上がると、厩舎の奥の奥から血液の濁流を産み出す。
最初は様子を見ていた軍馬達も、濁流に触れれば正気を失って嘶く暇も無いほどいきり立って外へと逃げ出す。濁流には、極小の血晶針が大量に浮いていた。
この魔術には、ふたつの特性がある。魔力で血液そのものを操れることと、魔力を持たない血液の動物と無機物を作り出すことが出来る。その動物は、絵に描いたものでなくてはならないという、魔術とは無関係のルールもある。
絵に描いた動物は、草食動物に限り、さらに精巧になり知性も段違いとなる。想像の出力が、絵に描き出したことによって容易くなるためだろう。
「人と肉食の動物は、貪欲すぎる。やはり、君たちが最高の友達だと思いたいよ」
目の前には、濁流に浸かっても動じない赤褐色の体毛を持つ軍馬がいた。その馬に触れる。手も、腕も、呑み込まれるように、最終的には、同化した。
赤褐色の馬は、闇に守られた夜の時間では他の黒色や銅色の毛並みと見分けがつかない。厩舎から逃げる数十頭の馬に紛れて、赤褐色の馬は王都外縁を駆けた。
「誰だッ! そこで止まれ……学生!?」
国家憲兵の一人が、夜から湧き出てきた人影に声を荒らげる。しかし、その全貌を視認しては驚きを隠せなかった。
「待て、本当に学生か? こんな時間に」
王都の憲兵は優秀で、当たり前を疑うことを知っている。
「学生証はある。課外活動中に暴漢に襲われてついさっき目が覚めたんだ、命からがら逃げてきた」
外壁にぶら下げられた数個の瓦斯灯が、淡く光る。王都の口である両開き戸は固く閉ざされ、二人の真紅の制服を着た国家憲兵がその光の前に立ち、顔が見えるか見えないかの距離で佇む。
片方の若い憲兵が足元に投げられた学生証を拾う。あえて血だらけにした両手を上げて、承認を待つ。
彼とは別の逞しい憲兵もそれを確認すると、雰囲気が緩んだ。
憲兵達に近づくと、彼らは大層驚いた。あえて、左胸から全身に血液を垂らしていたからだ。誰がどう、赤子が見ても大事だと分かる程に。
「おい、お前は医者を呼んでこい!」
「はい」と吃ることなく返して、若い方は連絡用の扉を開けて走り出す。
「出来うる限り、兵舎の方で手当しよう。こちらへ」
連絡用の扉をくぐり、王都の静かな大通りが迎える中、そっぽを向いて兵舎に入る。どっちみち、ただの医者では助からないことは分かっており、適当に逃げ出して知り合いに頼むつもりだった。
「大丈夫だ。大した傷じゃない。うちの家系は医者も混じっててな。そんな俺が言うのだから間違いないさ」
彼は、憲兵の鏡だった。怪我人には下手な励ましでも治療の一種になり得ることが分かっているようだった。だが、その言葉は深く浸透しない。妙に嫌な予感がして、気が気では無いからだ。
「ここが兵舎だ、奥に俺達が寝泊まりする場所がある」
廊下にひとつの照明があり、壁にかけられたランプが廊下には狭い以外に何も特徴がないことを明かしている。
先導する憲兵の後に続く。
「あぁ、そうだ。すまない」
廊下の奥に、明かりがある。そこにそれなりに広い空間があると分かる。その空間に侵入しながら、彼は言う。
「先客がいる」
そこに居たのは、ボスだった。
「おう! おひさ」
阿呆の犬のように笑う彼は後ろ手に縛られて、椅子に座らされている。
「すまない、不審者をここに一旦置いていたんだ。見張りがいたはずなんだが」
「ナインちゃぁん! こいつに説明してやってくれよ。俺はただの墓守だって言ってんのによぉ。この堅物が」
「知り合いなのか?」
「私を襲った暴漢だ」
憲兵は黙って腰に差した直剣を抜こうとした。それを制して前に出る。
「最期に、話をさせて欲しい」
彼と対峙するように椅子に座る。取調べの構図が出来上がる。
天井に、フックにかけられた瓦斯灯がひとつ。食器棚。食材を入れた籠。調理場のような、ナイフと鉄鍋、すり鉢など料理道具を立てかけてある場所が片隅に、そして、縦長の椅子に毛布が畳まれている。
そして、憲兵ひとりと赤い手ふたり。
「なんだよ、改まって。私たちやり直しましょうってか?」
「あなたの、魔術についてだ」
彼はあの妙な刀剣を持っていない。あの襤褸切れを着ている以上、没収されてもいないのだろう。
天井にある唯一の照明を仰ぎ見る。目が光を受け入れないように、両目を閉じて、更に血に濡れた片手で覆う。
「どう考えても、墓場から、牧場を経由して、私より早く王都にだどり着くのは、現実的に考えて不可能だ」
「唯物論では世を図るものさしとして不足じゃないか?」
無視。
「そして、私の魔術である『絵の中の友達』で産み出した馬達と牧場の馬達を合わせれば百頭以上いたはずだ。蜘蛛の子のように散る馬達からピンポイントで王都を当てたのは偶然じゃない」
「全部追ったって言ったら、どうする?」
「……ずっと、不思議で、不自然で、巫山戯ていた。あなたの姿は、私が組織に入った時から、なにも、なにひとつ。変わっていない」
光に驚いた目が、再び暗闇の世界に戻る。
「……一体、あなたはいつから生きている」
言葉を呑み込むのに時間がかかったのか、少しの間があって答えが返ってくる。
「悩める我が子に、こんな言葉を送ろう。生は、死の位相に過ぎない、その逆も然り」
かつてのボスから聞かされた御伽噺。山の老人が祖である暗殺集団は、阿片という頭の中の楽園を目指して殺戮を続けた。
『阿片は気持ちよくなる薬のことで、俺は吸ったことあるけど、おかしくなるから君は吸っちゃダメ』と付け足して、彼は、御伽噺をしめた。
それは、御伽噺というには、明確な『無駄』が無かった。 誰かに聞かせる教訓のような作り話というより、経験から語られる教訓に感じた。
リアリティがあったとして、これが本当のことだとして、見過ごせない点がある。
『阿片』なんてものは、この世のどこにも存在していない。
あなたは、いつから、いや、どこから、生きている?
「そうか……。嘘じゃないのだろう。『全てを追った』」
「あぁ、嘘じゃない。あれもこれもね」
「分身か、分裂か。どちらも同義だな。あなたは、複数人いる」
「ファイナルアンサー?」
「確定するには、ちょっぴり、早いだろうね」
「あっそう。話は変わるけど、俺からそんなに目を離していいのかよ」
彼は、ずっと私が寝れない学者のような格好をしていることに疑問を持ったようだ。その返答は無視して、最初に言ったことを掘り返す。
「『最期に話をする』というのは、どういう意味に聞こえたかな?」
返答を待たず、唯一の照明を血液で消した。暗闇に慣れた目を開き、気づかれぬように片手に移動させた肉切り包丁を振りかぶる。
彼は足も縛られている様で、自らに凶器を振るう者に両足で飛び跳ねて蹴りを食らわせる。それを食らったのは、血液で操られる逞しい憲兵だった。
制服の装飾が出す音に隠されたのだろう。静かに振りかぶるこの肉切り包丁は、本来の役目を全うする。
「いってぇアアァ!」
片腕の骨に当たる感触が、包丁から伝わる。浮いた対象に正確に力を伝えることが出来ず、成果はそれに終わった。
彼は机の上で一回転と、椅子の上で一回転して、転がりながら床に落ちる。振りかぶる憲兵の剣に上手く当てたのか、両足の縄は解けている。手の縄を対処される前に肉切り包丁を再び振りかぶる。
「キャアッチ!」
肉切り包丁は彼の両手、そして、その縄で受け止められる。それでも追いすがる凶器に彼は背にした食器棚を揺らして、眼前に迫る肉切り包丁から逃げようとした。
力を入れられて、縄を切られる前に、片手に残った鋭いナイフを彼の太腿に突き刺した。
苦悶の声が漏れる前に、さらに膝をナイフの柄に打ち込んで深く、深く潜り込ませる。
「お前ッ! 容赦ねぇなぁ!」
彼が声を上げた一秒にも満たない瞬き未満の刹那で、どういう手品か彼は肉切り包丁を手にしていた。奪われた、という感触もない神業を当たり前のように行って、さらに、容赦なく首を狙った斬撃を繰り出す。
首を切られる前に、血液で補強した腕で受け止める。彼の、骨のように細い腕から生み出される信じ難い剛力に耐えられず、左腕が半ばまで断ち切られる。どうにか、硬い骨が完全な切断を耐えた。
彼は二激目を繰り返そうと、肉切り包丁を引き抜く。しかし、固まった血液に包丁は捕まっていた。引き抜こうとして力を入れた筋肉の硬直は、この状況では致命的。
「一手、間違えたな」
起き上がった憲兵が、首元へ剣を突き刺そうと突撃する。
「だが、チェックには程遠いぞ」
瞬間、視界が赤い光に変わった。




