第52話 久しぶり カッツィ
学園が週に一度の休日を迎え、晴れた日。王都の中心市では、朝十時に斜めに構えた日の光が、針葉樹の森を照らすように建物の影を伸ばしていた。朝の風は早起きの憂鬱を吹き飛ばすように清く街を縫う。
「頭痛い……」
イムは一夜で風邪を回復させ、わたし、そしてフクロウちゃんと闇市の情報収集へ動いていた。
爽やかな風が吹いていても、朝八時という個人的には早起きの苦行で頭痛が発症したわたしと、後遺症での頭痛に悩まされるイムは気分が落ち込んでいる。そんな陰鬱な二人に、フクロウちゃんは挟まれていた。
「どんな人なの。今日、会う人って」
会話が長続きしないわたしたちに、フクロウちゃんが新たな話題を提供した。
「闇に詳しくて、土地勘のある……人? 人というより猫かしら。獣人だから」
イムが『いつもどおり』を心掛けた口調で言った。皇女な彼女は、弱ったところを決して表に出さない。そして、わたしはその特徴を聞いてぴんときた。おそらく、というより、十中八九カッツィのことだろう。
「カッツィって、どうして?」
わたしの中でカッツィを構成する成分は、品行方正、敏腕メイド、猫の獣人、クール。そこに闇市にかかわる成分は無い。
「いい女には、必ず、絶対に秘密があるのよ」
イムがそう言った時。わたしの目に、フクロウちゃんの包帯を巻いた首が写った。
カッツィと会うのは、半年ぶりだろうか。いや、半年も経っていないか。学園の出来事は濃密で、一日一日がぎっしりと詰まって長く感じる。
イムがドアノブを握ったホテルの一角で、わたしは、何故か少しだけ緊張していた。何から学園の出来事を話せばいいかとか、カッツィは無事に動けているかとか、そんな心配事をしていたからかもしれない。だが、そんな心配は困惑と共に消えた。
イムがドアノブを押す、その一室には、何故か一匹の犬がいた。大型犬よりも多少は大きいかというサイズの、黒と銀の織り交ざった毛並み。汚れの無い、今日のために用意したような背広を着こんだ犬が、扉の前で頭を床に擦り付けて土下座している。
「誰?」
心当たりがあるかとイムの顔を見て、わたしはこの犬が敵であると分かった。彼女の表情は、出会いから今まで見たこともないような険しく、敵意に満ちている。
「赤い手のクラフティ。F.Ⅲ クラフティ」
そう言ったのは、黒い毛並みの猫メイド、カッツィだった。
「お久しぶりですね。姫様、ユウメさん。そして、初めまして。ご学友の方」
クラフティは何も言わずに頭を下げ続ける。赤い手。チェイサー、ギンピーギンピー、クラフティ、そして、ネームレス。唯一逃がした一人が、無防備に首を晒している。防御魔術も展開していなかった。
「理解が遠くに行くほど、苛立ちは近くなるものね。この犬もそうだけれど……王国の剣、三英五騎士がなぜここにいるのかしら」
丸テーブルと四つの椅子。食器棚と観葉植物。そして、この部屋の隅には、五つ目の椅子がある。それには、中性的で年齢が外見で分からない、彫刻のような人間が窓枠に腕をかけて座っている。
目線が交差する。絶対の自信と出所の分からない諦めを持つその目。あの男は、三英五騎士、第二席の次期英雄 ラスト・リンクス。
彼は争い事には無関係だとでも言うように、ひらひらと手を振って窓の外を見る。帝国の皇女相手に、木っ端に向けるファンサービスのような、大雑把な対応。頭を下げ続ける犬と、王国の剣。かみ砕けない状況だった。
「カッツィ。この犬は何?」
「赤い手を裏切り、こちらにつくと」
「カッツィ」
「彼の面倒は、ワタクシが」
「自分が今、どういう状況で、どういう立場か分かっていないようね」
「フクロウちゃん、ちょっと外で待てるかな」
殺伐とした雰囲気に当てられて、翼をはためかせるモリフクロウを頭に乗せたフクロウちゃんは、何も言わずにすぐに部屋から出た。
敵国である王国の主力と、敵対している暗殺集団の三番手。
カッツィはどちら側なのか?
その疑問が沸いて当然だと思う。殺すべきだ。赤い手を生かしておく理由は無い。
どんな事情があろうと、主の命を脅かそうとした相手を見逃し、あまつさえ拠点に迎え入れるなどあってはならぬ事だ。カッツィには、そこまでこの犬に入れ込む理由も無いはずなのに。
「これを殺せと言うのなら、それも、ワタクシが」
命を狙われたイムが犬に結末を決める権利がある。そう言葉裏に感じた。この犬が頭を下げているのも、そういうことだろう。
「殺しなさい」
躊躇など微塵も無かった。だが、カッツィが返事をする前に、足元から迷いのない声が聞こえた。
「違う、命乞いなんかじゃあない」
「……なに?」
犬が顔を上げた。何重にも太い皺の寄った眉間。鋭く、黒い瞳。獰猛さを感じさせる、顎の形状がよく見えた。
「俺が頭を下げているのは、命乞いなんかのためじゃあないんですよ」
何かを決めた者の目をしていた。自分を見つめ、誇りを見つけ、希望を持った者の目だった。
「頭を下げているのは、俺が、俺を貫き通すため」
彼は犬ではなく、狼だった。
「ここで死んだとしたら、俺は俺のまま死ねる。これは、俺にとっても、あんた達にとっても本望でしょう。狼は、孤高に、高潔に死ぬべきだ。だがね、それと同時に、死ぬ瞬間も、獣は貪欲であるべきなんだよ」
彼は面を上げて、膝に手を置いた。
「俺には夢がある。出来た。死ぬ訳にはいかねぇ。だから、取引だ。赤い手の情報。動向。殺し方。全てを知っている」
「だから、生かせと?」
「あぁ、あんた達にとって、これ程の情報源はねぇはずだぜ」
「そうね。ちなみに、夢って?」
彼は得意気な顔をした。
「姉御のような獣人になること」
それを聞いたイムは、緩慢な動作でクラフティの目前に座り、彼の胸を、腕で貫いた。
「が、はぁ、あ、な、にを……」
「あの時、ペラペラと、喋っていたわね。自分の魔術を」
飛び散るはずの血液が飛ばず、彼の体は粘性の高い液体のようにイムの腕を受け入れている。
「『液体になっちゃうぞ』 自身も液体に出来ることは、あの時に視させてもらった」
イムが彼の体から腕を引き抜く。その手には、林檎を半分にしたような赤い光沢を持つ、臓物が握られていた。それは、彼女の手の中で氷に包まれる。
「心臓を半分奪った」
クラフティは背広に渦巻きのような皺が出来るほど、胸の中心を握りしめ、平伏するように頭を下げる。声にならないような苦悶の声が、唸る獣の声と混ざり、威嚇のように聞こえた。
「肉体が液体なのなら、心臓は流動し機能を取り戻すはず。出来なければ、死になさい」
皇女の声は、女帝の姿を思い浮かばせた。女帝が冷たい石のようだと例えられるのが、娘であるイムをみて再び理解出来た。
「この心臓の片割れは、預からせてもらう。それが代償であり、契約よ。私があなたを完全に信用出来たら、返してあげる」
強者の契約は、どこまでも不遜で、不透明でる。彼女は搾取する側なのだ。
「……っやってやる……やってやる。俺は、一度噛みついたら離さねぇ。狼の矜恃、見て頂きましょう……主殿」
彼は面を上げて、溜め込んだ熱い息を吐いた。
「そう。カッツィ、ちょっと来て」
イムは無愛想に返事をしてカッツィを呼ぶと、わたしとイムとカッツィの三人で小さな輪を作り、こそこそと話をする。
「勝手に動きすぎよ……! なんで厄介なのを二人も連れてきてるの」
「すいません。情に負けました。同じ獣人としてほっとけなかったのです」
「クラフティはいつでも消せるからいいとしても、二席がいるのはおかしいよ」
「何故かワタクシに付きまとうのです。力では勝てないので、強引に引き剥がすことが出来ません」
「憲兵を呼んだとして、三英五騎士をしょっぴくまではいかなくても、注意もしないだろうからね……特務も注意なんてされたことないし……」
カッツィは三英五騎士の第三席、ボスティが寄生されていることを知らない。彼らとカッツィが関わりを持つとは思わず、連絡相談していなかった。そして、それをここで話すのは高いリスクがある。
「しょうがないわね」
悩んだイムは、諦めたように息を吐いた。
「逆に、オトしなさい」
「は?」
「あえてね」
「適当に話し合わせとけば男なんてチョロいわよ。貴女がこの犬に情で負けたように、第二席に情で勝ちなさい」
「姫様ほどチョロくはないと思われますが。それを言われると……そうですね…………仲良くとは、どれほど?」
「わたしとカッツィぐらいの関係性がいいんじゃない? 友達になれば、もしかしたら色々手伝ってくれるかも」
「そうね。そのぐらいかそれ以上でお願い。あと私はチョロくない」
「分かりましたよ……落ち度はワタクシにあります。挽回しましょう」
「よし、じゃあ本題に入りましょう」
そして、数十分にわたる込み入った話が終わって、わたしは部屋の外に出た。
すると、フクロウちゃんが憂うような表情で手鏡を見ていた。わたしが、軽い音を立ててドアを閉めると、彼女は慌てたようにその手鏡をポケットに片付ける。
「お、終わった?」
「うん。ごめんね、取り込んじゃって」
「いや、大丈夫。手伝ってくれて嬉しい。どうするの?」
「イムが来たら、裏町に行こう」
カッツィは、裏の事情に妙に詳しかった。彼女が言うに、わたしたち三人が、裏町にたむろするそれらしい人間に聞き取りをするだけで良いらしい。
「猫達と会話は出来ませんが、通じ合うことは出来ます。そして、猫に嘘をつく人間は存在しません」
王都中に存在する猫たちがカッツィの耳と目。泉に雫が落ちて波紋が広がるように、わたし達が闇市を探していると話題に出れば、波紋に当てられた異物が浮き出るというわけだ。
遅れて、また扉が開いてイムが出てきた。何故か怪訝な表情でフクロウちゃんを見た後に、気を取り直すように言う。
「よし、じゃあ、早速行きましょう」
そして、昨日もやってきた、治安の悪い脇道を歩く。
中心市で感じた爽やかな風はここでは吹いていない。紫煙と腐った人間の匂い。比喩では無く、人が腐った臭いがする。人の騒がしさも無く、朝の日で照らしきれない闇を感じた。
誰か、理性のある適当な人間を探すが、荒事になる匂いを発するゴロツキしかいない。破れた服をそのままにする人間や、そもそも服を着ない人間がいる中で、制服を着た女三人は酷く目立つ。
「あまり、会話はしないようにしましょう。目をつけられるのは時間の無駄だわ」
わたし達は無言で歩き続ける。
クラフティの話を聞いたあとだと、物陰やイムに近づく一般人が更に恐ろしく感じる。
彼は、赤い手の内部事情をぺらぺらと喋ったのだ。それには、あまり、信じたくないものもあった。
「赤い手の上位構成、序列番号は殺した数で決まり、 I が最下位で、 X が最上位です」
つまり、あのネームレスは、あの技量で殺人数は最下位だということになる。殺した数なのだから、直接の強さとは関係がないとしても、殺さない暗殺者など居ないように、ネームレスも沢山の人間を殺したはずで、あの剣技は、それを立証するものだった。
「IIIを抜いた I から V は主殿方の手で始末されました。その後、VIも消息を絶ったため、番号付きの過半数はいません。ですが、 X を含む残る四人は、文字通りの化け物です。俺が百人いても一人だって殺せやしませんよ。逃げることは出来ましたけどね」
ネームレスを遥かに超える残り四人 VII から X がまだ、イムを狙っている。彼の忠告は、学園の暖かさに浸って甘くなった警戒を、再び締め付けた。
最大限の警戒を持つわたしに油断は無い。あるはずは無いのだ。だが、目の前の現実は、油断を遥かに越えた超常だった。
二人を視界に入れて歩いていたわたしから、二人の姿が消えたのだ。
それだけではなく、たむろしていたゴロツキも、物陰にあった気配も、全てが消えている。
雪が溶けるような、煙が飛ぶような、納得出来る現象ではなく、そこにあったものが突如消える現象。超常の力。魔術による、敵の攻撃だ。
「誘っているんだね」
イムが歩いていた、わたしの右側には異様な雰囲気の天幕があった。紫の布に覆われた、数台の馬車ほどの大きさの天幕は、口を開けてこちらを見ている。
わたしは迷いなく、その天幕に入った。
警戒しながら入ると、わたしは理解し難いもので囲まれる。丸い天幕の中身は、星空だった。淡いような、薄い黒い布に輝くような星が浮いているのである。その中心には、六枚の伏せた札が乗った丸机と、小さな椅子に座った老婆がいた。
漆黒のロープを深く被って顔は分からない。老婆であることは、枯れた細指と、萎びた花のような曲がった背筋で判別できた。
「ようこそ。ユウメ・エクテレウ。元気だったかい?」
老婆は嗄れた声で言う。孫の帰りを迎える跳ねた口調にも、夫の仇を恨む低い母の声にも聞こえた。
「イムはどこ?」
「どこ? それは見失った人間がいう言葉だよ。お前は、自らここに来たんだろう。ユウメ」
「長く生きた老人はずる賢いから、はっきりものをいうのが怖いんだよね。嫌われるからやめた方がいいよ」
「苛ついているね。最近の若者は歴史の先人である老人に対する礼儀を忘れている」
「物事をひとまとめにして名前をつけるのは老人の特権だよね。礼儀を求めるなら礼儀を求めるなりの行動をしなよ。どうせ、魔術師もカテゴライズして属性で性格を決めつけたりしているんでしょ」
「話が長いねぇ。簡単に結論を出すのが若者の特権だろう?」
「めんどくさい。会話にならないし。イムはどこ?」
老婆は枯れた指を外の方へと向けた。
「外にいるさ」
わたしはこの老害に背を向けて、外に出ようとした。信用したのではなく、居なかったら殺そうと思っただけだ。
「ただ」
老婆が言う。
「アァ レウェの全てを知ることは叶わない」
わたしは足を止め、耳を傾けた。
「私はエコール。巷での呼び名は憶奪の彗術師。記憶を賭けたゲームに勝てば、全てを教えよう」
「――あぁ?」
「それとも、ユウメ・エクテレウは、アァ レウェを知るチャンスを、みすみす逃す。もしかして、姉の仇なんて、とらなくていいと思っているのかねぇ」
「おまえ……」
「リサ・エクテレウは、ユウメ・エクテレウにとって、なんてことの無い、今まで殺した雑兵と変わらぬ存在だったと」
わたしは体を翻し、音を立てて小さな椅子に座る。
「やってやるよ。ババア」
老婆が、薄く笑った。




