第51話 命を奪う
イムが風邪にやられてしまった。
フクロウちゃんとの相談が終わった後に、彼女の顔色が悪かった原因が本格的に表に出てきた。倒れ込む、とか、幻覚を見るかいう程ではないが、二日は大事を見た方がいいだろう。
事件が起こる前のリサも同じ症状を起こしていた。全く風邪と同じであり、区別する症状は一人の事例で見つけられるものでは無い。だから、分からない。明日にはイムが操られているかもしれないし、そうでないかもしれない。
そんな気が気でもない状態でイムはさも当然のように『りんご買ってきて』と言った。『風邪の時に食べるりんごほど美味しいものは無いわ』とも。有り得るか? そんなことが。護衛の役目とわたしの狂気的な心配を捨ててまでりんごを買ってこいというのだ。暴君である。
伝染病が、人間にとってとらばさみのような致命的な罠だった時代は終わり、医療と衛生観念の進展により、疲れていたら躓く道端の石ぐらいの脅威になった。前代の戦争は人と人との戦いと言うより、人と人とシラミの戦いだったそうだ。だが、時代は加速した。これは、技構による技術推進と迅速なネットワークの封鎖が大きく関係しているだろう。
学生寮にもガラスの瓶に入れられた、たくさんのカプセルがあり何かあればいつでもわたしたちの痛みと熱を取り除いてくれる。だが、主君がりんごを買ってこいと言えば、下僕であるわたしはせこせこ足を動かして買いに行くしかないのだ。
「人、多すぎでしょ……」
夕暮れ時だからか、大通りは人通りが絶えない。人通りといっても、針を刺す隙間も無いほどの密度である。空から見れば大通りは人間が細胞の様に敷き詰まって、巨大なみみずのように見えるだろう。
太陽の落ちぬうちにこれでは、人の、決して快いとは言えない温かみと太陽の鬱陶しい暑さで、健康なはずのわたしも吐き気を覚えてくる。
魔術師も数には無力。香水と汗が濁った空気の波をかき分けながら、どうにか路地に入る。
空気一割、水二割のような場所で呼吸する息苦しさから解放されて、決していい空気とは言えない壁から通気口が生えた路地の空気を吸う。あの大衆をやり過ごした後だと、どんな空気も新鮮に感じる。
「授業でも人口爆発がどうとか言ってたけれど……それにしても多すぎる。時間、間違えたかな」
医療発展のおかげか、戦争終結の影響か、それとも別の産業が影響しているのか。人口増加に歯止めが無くなった結果が、この息もできないような密集である。
わざわざあの不快な大通りを歩く理由が無いわたしは、脇道に逸れた。大通りに比べれば、すかすかと言ってもいいほどの人口密度だ。
「人はいないけれど……一人で歩くような道じゃないね」
治安が悪い。住居は家というより布の塊で、肌が焼けているのか、汚れているのか分からない住人達は難癖をつけるためか、通行人に目を合わせようと瞬きもせずに見つめている。
わたしは難癖を付けられても適当に殴ればみんな幸せになるが、荒事を避けたい一般の方から見れば、この脇道は道では無いのだろう。
だから、そんな道に似合わない彼女を見て、わたしは真剣に驚いた。
「フクロウちゃんだ」
学園の制服と、汚れた場所には似合わない綺麗な顔立ちは異質な存在で、その暗い表情から、何となく心配になったわたしは迷いなく彼女の元に向かう。
ここらでは立派な方の、平屋のひさしの下で、何かを待っているのか俯いている。
声をかけようとした時、その建物から男が出てきた。体の形を見せない外套、それでも浮き出た筋肉質な腕、獲物を狙う蛇のように顎を引いている男。歳は三十過ぎだろうか、軍人くずれか、傭兵か、もっと質の悪い者か。最近ではよく見る性の人間だ。王国政府の軍部が再編か何か、動いているらしいが……彼はそれには該当しない。
男とフクロウちゃんは一言二言交わすと、男の方から去る。男はどこを見ているのか分からない目で、わたしとすれ違った。彼の通った道からは煙草の匂いがする。
「ユウメさん」
フクロウちゃんの驚いている目と合った。彼女の肩に、どこから来たのかモリフクロウが飛び乗る。餌でも取りに行っていたのだろうか。
「こんなところでどうしたの」
「…………情報収集。闇市の」
答えには少し迷いのようなものがあった。詰問したい訳では無いので、それ以上は聞かないようにする。だが、聞かずとも、答えは彼女の体が発した。
モリフクロウが翼を擦るように彼女の襟元に擦り寄る。
「ちょ、ちょっと、ダメ」
彼女は首元を手で覆い隠す。見られたくないものでもあるように。しかし、見えてしまった。彼の羽に拭われた化粧の下。赤黒い、縄の後が。彼女は首元を右手で押さえ隠しながらわたしの目を見る。
「……見た?」
「いや」
嘘をつく時は、短い言葉にした方が良い。 彼女が何をしようとしたのか、それとも、何かがあったのか。わたしは知らないし、詳しく知るつもりもない。
「ここら辺、危ないから送るよ」
「ユウメさんって、目と話を逸らすんだね。嘘をつく時」
バレた。彼女は訝しげに目を細めて、睨むという行為の一歩手前でわたしを見ていることに気づいた。だが、それも直ぐに落ち着いた無表情に変わった。
「……ごめん。見たくて見たわけじゃないのにね」
彼女は重い溜息を吐きながら言う。
「気を使ってくれて、ありがとう。でも、見て見ぬふりされるのは、怖かったから」
「……分かった」
沈黙。
「帰ろう。送って、くれるんだよね」
「ああ、うん」
生返事を返したあとも会話は無かった。彼女も良く語る人間ではなく、わたしもどう切り出したらいいのか分からない。
「この道、学園に帰るには遠回り」
片手で首を押え続ける彼女に、唐突に言われた。
「少し、買い物に付き合ってよ」
「……分かった」
沈黙。
モリフクロウは、何故、あの行動をとったのだろうか。あんなことしなければ、こんなに冷えきった空気になることも無かったのに。
「難しい、ね」
彼女は、何が、とは言わずに零した。わたしは、少し踏み込むことにした。
「なんで、見て見ぬふりは嫌だった? そうした方が、二人とも、楽じゃん」
「勘違いされていると、思ったから」
「勘違い?」
「私の首、何の傷だと思った?」
「……首吊り」
正直に答えると、彼女は首を隠していた手を外す。やはり、見間違いなどではなく。化粧で広げた肌色に、赤黒い条痕がある。落ち着いて見れば、その痕は自殺での首吊りで見られる顎下からうなじに斜めに上がるものではなく、平行に締められたものだ。自ら締めたのではなく、締められたのだろう。
「私は、終わらせようとしたのではない。戦い続けている。そう、知って欲しかった」
力強く、悲しくそう言う。
「歩ける道はひとつしかなかった。大通りは、歩けない。夜の裏路地しか」
「お金が無かったから?」
「お金も、魔術も、両親も、家も、服も……名誉も。力と呼べるものは何も無く、弱者である私は、強者に搾取されるしか無い……」
この時代では、石ころのように転がっている。
「――でも、まだ意志は残っている」
だから、人生を諦めたと察されるのは心外だったか。
「おばあちゃんに、会ったことは無い。でも、あの人がどう人生を歩んできたかぐらいは、知っておきたい。搾取をされ続けても」
「……わたしは持って生まれた方だと思う。魔術も両親も、才能も。フクロウちゃんと比べれば、恵まれた方で、あなたの気持ちは分からない。けれど、尊敬しているよ。心からね」
「……ありがとう」
「家が無いって言っていたけど、帝国の冬、よく耐えられたね。死ぬほど寒いのに」
「この子がまだ私の肩に居なかった頃、子猫に抱き着いて過ごしていた。猫の方も、私に抱きついていたから暖かかったよ」
なんでもないお話を続けながら、行きでも帰りでも無い道を歩く。
「ユウメさんは、どうしてこの道を歩いていたの?」
「イムが風邪引いて、それでりんご買って来いって。でも、今の時間って大通りの人、多いでしょ」
「そうだね。まともに歩けないくらい……皇女様も風になるんだね」
「そりゃあ、あるんじゃないかな。同じ人間なんだし」
「完璧超人だと思っていたよ。傍から見れば、彼女は全てを持っている。力も知恵も強い心も運も才能も、文字通り、すべてを」
それが、世間一般の評価らしい。わたししか知らないイムは、世論とは近くも、遠くもない位置にいる。わたししか知らないイムの存在を自覚することは、少しばかりの優越感だった。
「……そうでもないかもね。強そうにしている人に限って、本当は弱いんだから」
「私しか知らない彼女」
「えっ、何」
「今、そんな顔していたから」
「まあ、そうだね」
フクロウちゃんとモリフクロウが同じ顔になった。
「呆れる。恥ずかしがりもしないんだ。……でも、強そうにしている人ってのは、同感。もしかしたら、世の中には強い人なんていないのかもね。強くあろうとしている人か、心が死んでいる人か。それを勝手に強いと解釈しているのかもしれない」
強くあろうとしている人と、心が死んだ人。何かを目指して心の薪を燃やしている人が、強くあろうとしている人で。燃やすものも無くなってしまったのが、心が死んだ人だろうか。でも、この考えだと、強くあろうとした人はいつか燃え尽きて、必ず心が死んでしまう。
わたしからイムへの想いは終わりは遠いけれど、フクロウちゃんの本への想いは、近いうちに終わりが来るものだ。彼女は、その目的を達した時に、どうするのか。
もう隠そうとしない、首の条痕が、強く、強く視界に染み付いた。
「ねえ、……本当に、買い物に来たんだよね」
わたしは決して大通りにつながらない道を歩き続ける。
「そうだよ。さっきの大柄の男って、帝国の人だよね」
「なんで、分かったの?」
「同僚に一日百本ぐらい煙草を吸う人がいるの。そのひとは、帝国のやつしか吸わないから。うちの国は、品がいいからって。でも、王国の人は絶対に帝国の煙草なんて吸わない」
「勘が、いいんだね。同僚って、特務の?」
「そう。私は、特務機関」
たどりついた場所、私の知らない、暗い石材の飾り気のない平屋。
「どうして……」
フクロウちゃんは、知っているようだ。この場所を。
「空間魔術は、空間の固定と、自由落下を切り替えることができる」
すれ違う時に、取り付けていた。念の為、というか、ほぼ、確信を持っていたが。
「私は特務機関。帝国の闇を、執行する兵器」
返事を求めずに、扉を開けて後ろ手に閉める。私を迎え入れた扉は、男たちが集まる一室に直結していた。あのすれ違った軍人崩れの前に帝国人らしき男女が六人。長机を囲んで杜撰な椅子に座り、さいころを転がしている。二つ同時に転がったさいころが、四のゾロ目を出した。
来訪者である私の顔を認識した軍人崩れが、立て掛けた長剣を取り、戦慄した顔で言う。
「全員逃げろぉ!」
一瞬で張り詰めた緊張感が、霧散する。軍人崩れと私以外の全員が、頭以外の全てを空間に上書きされ、死んだ。
ゴトゴトと、重量物が床に落ちて、落下に巻き込まれた椅子が倒れる。さいころが血に染まり、出た目が見えなくなった。
「仲間は、これだけ?」
「なぜ、特務が、この国に」
からからに乾いた声で彼は聞く。
「なぜ、どうしてと言うのは、いつだって弱者の役目だね」
私に投擲した長剣が、中空で空間に当たって机に落ち、名も知らぬ軍人崩れが倒れ込む。両手両足の先端から。少しずつ、少しずつ、紙のような薄さの空間が彼の身体を削り飛ばしているからだ。彼は雄たけびを上げる。それは痛みに耐える叫びというより、恐怖に打ち勝とうとする雄たけびだった。
「仲間は、これだけ?」
「はぁっ……はぁっ! そうか、制服! あいつ、奴かぁ!」
飛び散る血液が、私の眼前の空間に飛散する。制服を汚したくは無かった。
「仲間はこれだけ?」
「は、は、は、知っているか。知らないだろうな。俺たちがあいつに何をしたか! ずっとだ、ずっとずっとずぅっと、使ってやった! 泣き叫ぶことを忘れるまで、何度も何度も、貴様が思っているほどあの女は綺麗なもんじゃねぇんだよ! あいつの猫も……」
彼は舌という武器で攻撃を始めた。ただ者ではない気合いだった。手足を切り刻まれ続けても止まらない言葉という暴力を、私は取り上げる。彼は消えた下顎部の存在を触れて確かめようとしたが、その腕も本来の半分の長さしかなかった。
「お前の声を聞いた者、お前の悪行を肯定した者、お前の血に連なる者を例外なく抹殺する。王国なら特務の執行から逃れられると思ったか?」
イムは過去に、悪人では無い人間を自らの手で裁いて、取り返しのつかない罪を負った。絶対に許されることのない。消えない罪。許す人間が消えたのだから、そうなるだろう。
だが、冤罪というそれは、何人もの審問官と歴史が犯してきた罪。それでも、この世の中は死刑を欲している。この世には執行されるべき人間がいて、執行する権利を持つ人間がいる。イムは、それを、間違えた。それだけの話だ。
「幸せの下にはいつだって秩序がある」
私はイムの過ちを否定も肯定もしない。イムが幸福にした人間と、不幸にした人間。比べれば明白で、しかし数で比べることではない。だが、ひとりの恨みは百の幸福に勝ると私は考える。
イムがこの場にいたら、彼らを殺さずに更生させただろうか。そうしただろう。彼女に仕えている以上、彼女のやり方を模倣すべきだろうか。違うだろう。
私は、彼女の経験ではなく歴史に学ぶ。この世と私は、まだ殺人を正当化している。愛すというのは、全てを肯定することではない。
「心から尊敬するよ。本当に」
ただの肉の塊を見ながら、戦い続けたフクロウちゃんを想う。彼女は、正しく諦めてなどいなかった。そう思われることは、彼女にとって最大の侮辱となっただろう。
私は殺人を犯したとは思えないほど綺麗な服で外に出る。血液も傷跡も汚れも、何処にもついていない。
「ユウメさん」
フクロウちゃんが出迎えた、想定と違って慮るような表情。肩のモリフクロウと、目が合った。彼がなぜあんな行動をとったのか、今なら分かる。賢い子だ。
「強者に搾取され続ける人生、搾取されるなら、まともな人間の方がいい」
「違う。違うよ……」
「復讐を搾取してしまったのは謝る」
「命を奪うということは背負うということ……あんなやつの人生、私が背負って死ねば、それで……」
イムが罪を背負ったように。命を奪う。奪った命は、その人間が背負うことになる。何度も何度も、彼は私の夢に現れぽたぽたと恨み言を零すだろう。他の人間達と同じように。
「あと、もうひとつ。これ、あげるから」
私はそれをフクロウちゃんに押し付ける。
「鏡……?」
「フクロウちゃん。身だしなみは大事にね。身体も、心も」
フクロウちゃんは、その役割を持つべきじゃない。
「――綺麗なんだから」
 




