第41話 リボンでたくさんの髪
私は、久しぶりに沈む深海少女の中で、海月のように海に背を預け、冷たくも、暖かくもない海色の空の光を見ていた。
徹夜による睡眠不足のせいか、落ちそうになる瞼と格闘して、見上げていた空に、リボンがたくさんついた鋼色の髪が流れてきた。
クレッテがたゆたう実験物の観察の為に、回遊しながら記録用紙と格闘していたのだ。
「うー、書きにくいです!」
自然と笑みが溢れる。クレッテは、この領域に最初に招待された時は、息を止めて慌てて海面に上がろうとしたのだが、この領域に海面が無いのだと知って絶望の表情を浮かべていた。
だが、今は我が物顔で呼吸をして、文句を言ってくる。私の領域はギンピーギンピーの領域と違い、この“海”は模倣に過ぎない。
彼女の毒草などの領域生物は“本物”だ。魔力因子が完全に近く変質していた。だが、私の深海は、魔力因子が粘力を持って、色がついただけだ。
海のようで、海では無い。だから、呼吸も、声も出せる。泳げるだけの、いわば低重力のような空間だ。
「あ! フィアちゃん、まずいですよ!」
今回の実験物であり、領域の攻撃対象である鋼鉄の輪が、水圧に耐えられずにギチギチと音を鳴らし出した。それを見た私はバタバタと不格好に泳ぐクレッテを捕まえて、領域魔術を解除する。
視界が明るい実験室の天井へと変わり、海の浮力を失った私達は床へと落下する。
「痛い!」と叫ぶクレッテの上に落下して、彼女から潰れたカエルのような音がした。謝罪する横で、耳が痛くなる衝撃音を立てながら、鋼鉄の輪が落下する。
「大丈夫そうですかね」
「見た目は変わってないけど、どうだろう」
今回は、この鋼鉄の輪の強度を確かめるための実験だ。水圧の負荷と、領域解除による急激な圧力変動にも耐えうるかという内容だった。
「これに耐えられる物体はなかなか存在しないと思うのですが……魔力を流してみます!」
そして、これはただの鋼鉄の輪ではなく、特殊な魔術を内包した道具だ。クレッテが鋼鉄の輪に手を当てる。魔力を流し始めた途端、滝のような勢いで鋼鉄の輪が魔力を吸い取り始めた。
「おっ、大丈夫そうですね」
「実験は成功だね。よし、クレッテちゃん、手を離して」
少し身動ぎをしたクレッテは、青い顔をしてフィアを見た。
「は、離せないです」
「えっ」
彼女をそれから強引に剥がした時には、魔力が尽きて気絶していた。一瞬で魔力を吸い取り、気絶させる。要望通りのものができた。
「効力も、問題ないみたいだね……」
私は完全に気を失ったクレッテの頬をつつきながら、彼女が気絶から覚めるのを待って、腕章にちょうどいい大きさの鋼鉄の輪をお悩み相談部へと運んだ。
どすん、と机の上に置くと木製の机がその重さに耐えるように軋んだ。この机には、毎度申し訳なく思う。先生は、その想像に易い重量物を見て顔を引き攣らせた。
「これが、例の?」
そうですよ、と日頃に比べれば元気が無くなったクレッテが言う。依頼を受けた本人である私がそれに続いた。
「この『吸い取りくん』は意図的に魔力を流し込むか、大量の魔力が触れると動き出し、触れている人の魔力が無くなるまで吸い尽くします。先生に言われた通り、強度にも気をつけました。結果として、尋常ではない頑丈さになりました。先生の空間ほどではありませんが、それに近いと思います。代償として、重さはとんでもないことになりましたが……」
「依頼したの昨日の朝だったと思うんだけど……」
「先生が頼ってくれたので、頑張りました」
先生はあまり、いや、全く人を頼らない。自分一人でやるタイプというよりは、他人に自分の面倒を背負わせたくない、というタイプだと思う。
そんな先生が、私個人の力を頼ってくれて、少し認められたようで嬉しかったから、張り切ってしまった。
「なんて健気なんだ……ありがとう。この恩はいつか返すよ」
感極まったような表情を浮かべる先生が、吸い取るくんを持ち上げる。
腕に装着する予定で製作したけど、それにしては太くしすぎたかな。だが、魔力回路の性質上、これ以上の最適化は難しい、それに、見た目も最悪だった。半袖ブラウス、夏仕様の制服とは全く合わない。油くさい工服とプリンを合わせるようなものだった。
先生の長い手足を無駄にするようで申し訳なかったが、当の彼女は満足気である。
「いいね、これ。訓練にもなるし。吸い取れる限界はどれぐらいなの?」
「クレッテの全魔力で、まだ十分の一しか溜まってないので、一般魔術師十人分ぐらいが限界ですかね。気になるなら、一度流してみても良いですよ」
よし、と意気込んでユウメは魔力を流し始める。十秒、二十秒、三十秒数えたところでユウメの隣に座ったイムが待ったをかけた。
「そろそろ限界でしょう」
「まだいけるって」
先生の負けん気が出てしまったのか、吸い取りくんに対抗して魔力を流し続ける。そして、海の力にも耐え抜いた吸い取り君がぴきぴきと、限界を伝える信号を発し始めた。
「違う、限界なのは、そっちの方よ」
「えぇ!?」
吸い取るくんは象牙色に徐々に徐々に染まっていき、最終的には砂のように崩れ去った。
「ご、ごめん」
先生が私たちに謝るが、要望通りに作れなかった私たちに責任がある。それはそれとして徹夜で作った道具が一瞬で砂になるのは、ちょっと悲しい。私は悲しい空気になる前に話を切り出した。
「まだ十分吸収できるはずなのに……魔力は後どのくらい残ってそうですか」
「いや、もう一割ぐらいしかないよ。……ゴメンね? フィア、今度何か買ってくるから……」
「大丈夫です、時間がかかったのは設計で、同じものなら簡単に作れます」
「流石」と褒めてくれる先生。しかし、一割といっても……魔術師一人分の総魔力だ。特務機関という人間兵器を私は測りかねていた。これは、反省しなければならない。
「私の家臣なだけあるわね」
「ふふふ、でしょ?」
脳内で改善した設計図を描いている前で、ふたりの距離が近くなった。
最近、二人の間で何かあったのかもしれない。先生は、ほんの少し前までは皇女様の一動作で一喜一憂する幼さがあったのに、今は落ち着き、堂々と好意を受け止めているように見える。だが、どこか、散りつつある花のような儚さを持ったことは、少し心配だ。
皇女様も、先生に対しては、どこか一線引いているように見えたのに今となってはラインを踏み越えて白昼から堂々言い寄るようになった。
二人のその性質と人の目をあまり気にしない性質が嚙み合って、教室だろうと相談室であろうと二人だけの空間を見るようになった。
先生も皇女様もあの対抗戦以来、憧れと尊敬の的になってしまっている。二人とも背が高く、惹き付けるような男らしさがあるので、女性からも男性からも人気がある。
二人の計画は私も聞いていたのだ。こうやって人気を集めることが目的なのは知っているが、お互いに、言い寄ってくる男女を部屋に入ってきた虫を殺すような目で見るので、誰も近づけず二人揃って高嶺の花のようになってしまった。
そして、誰も干渉できない二人だけの空間が完成してしまっている。私も、邪魔はしたくないのだけれど、気まずい。
「うーん、でも、こうなってしまっては失敗ですよね」
クレッテは何も気にしなかった。机の上に出来た砂の山を触りながら呟く。
「いや、改良ができるならお願いしたいけど。これでもいいよ。条件魔術が止められるなら、ふたつでもみっつでもつけてやる」
皇女様と腰をぴったりくっつけた先生が言う。今回の吸い取りくんは、条件魔術発動時に噴出する魔力を吸い取り、先生を気絶させることによって、殺す選択から逃げるためだった。
確かに、大量につければ、その分容量は増えるが……
「これ、ひとつ十キロはありますよ……」
ひとつつけるだけでも、想像し易い不自由さだ。
「両手両足に二個ずつ着ける」
「冗談ですよね!? 片手で二十キロ、合計八十キロですよ。かなり負担になると思うんです」
「念には念をいれる。それなら絶対一回分の条件魔術を抑えられるし、二、三回連続で起きても大丈夫でしょ。もう誰も傷つけない。そのためなら、負担なんて、なんてことでもないよ」
覚悟があった。私は、先生にかなり憧れている。あの灼熱で魅せた背中、剣の死神と相対した背中を見て惹かれたうちの一人に、私は入っている。
「分かりました。出来るだけ軽くするように、がんばって作ります。ただ、これは大量の魔力が動くと反応しちゃうので、空間爆弾を作る際には、本当に『ゆっくり』圧縮してくださいね」
「大丈夫。問題ない」
「わかりました。へへ、次は死ぬ程強くしてみますから、一緒に頑張りましょう、先生」
返事を期待したが、彼女はそうせずに、苦い顔を浮かべていた。時々、先生は、私に先生と呼ばれると、この顔をする。学園に入学してからだろうか、もしかして、先生と呼ばれるのはあまり好きではないのかな。
「フィア、大丈夫だと思うけど、変な大人になったらダメだよ」
脈絡なく言われた。
「え? は、はい」
「大丈夫です! フィアちゃんがグレたら私が更生します!」
クレッテが私の頭を軽く叩きながら言った。
「そう。フィアが真っ当な道を歩けるように頼むね……」
何かすごく不当な評価を貰っている気がする。先生は何かを思い出すように頭を抱えた。
「あんな、小さな虫で、人が操れるなんてね」
クリュサオルの話だ。クレッテの前だと言うのに、構わずに情報を出す。少し棒読みで、皇女様もそれを止めずに乗り始める。
「小さなものが大きなものを動かすことに違和感を覚えているなら、それは間違いね。くしゃみや咳でさえ、そして、細胞のひとつでさえ、小さな生物が操っているとも言えるもの」
「何の話ですか? 寄生虫?」
クレッテは何の話か分からない様子だった。
「そう、人を操る虫。そういう虫のこと何か知ってる?」
皇女様はクレッテのことを試そうとしている。クレッテと私が同室なのは偶然だろうし、悪意には敏感な方の私でもこの子からはそれを感じなかった。純粋で、魔術研究一筋の子だが皇女様に『気を付けて』と言われたら、そうするのが賢い選択だ。でも、同室で部活も一緒で常に共に動いていて、怪しさの欠片も感じ取ることができなかった……
「そうですね……操るといっても程度はありますし、ウイルス、原核生物、真核生物のどれにそれが分類されるのか分かりませんから……ひとまず語るなら、人を操る生物……可能性として話すのであれば、そうですね……吸虫とかだと、蟻を操って草の葉先に向かわせます。そして、ハリガネムシは蟷螂を水に飛び込ませます。これはどれも、その虫を『操る』と言える寄生虫です。これと同程度とするのであれば、皇女様が仰られた通り、咳やくしゃみもそうです、人間の脳に感染し行動を誘発させる寄生虫は存在しています。ネコ科の動物を宿主とするトキソプラズマは、人に感染すると恐怖心を薄れさせ、死にやすくすることが出来ますし。寄生虫にその意図がなくとも、たまたま、人間に寄生した嚢虫が、たまたま脳で死に、たまたま人間の精神を破壊し、たまたまその人間の死体を動物が食べる。すると、人間に寄生し、脳に悪影響を及ぼす特徴を持った虫の子孫が生まれます。その道が生存有利の道であれば、その生物が生き残ります。それが進化です。そして、原核生物の枠組みで話すと、人間はミトコンドリアがエネルギーを生み出さなければ生きて行けません。既に、人間は小さな生物に依存しているのです。つまり、ウイルス、原核生物、真核生物、そのどれにとっても、人間を操る術を偶然に見つけ、生存有利が取れるようになれば、大手を振って繁栄するでしょう。そして、それは絶対に起こるとも言い切れます」
クレッテは淀みなく答えた。言い換えれば、予め何を話すか決めていたように。いや、きっと先入観がそう思わせているだけだ。彼女は元からはきはきとしている。
「でも、そういう虫たちには意志がない、繁殖や種の生存のための、進行と方向転換、遺伝子に組み込まれた行動をしているだけ。咳やくしゃみなど、防御反応を引き起こす生物がたまたま適者生存したということ。葉先に登らせるのも蟻を草食動物に食べさせるため。それに、トキソプラズマは人の恐怖心を薄れさせ、死亡率を高める。それも、死体を動物に食べさせるため。そうしたら、生き残れたから。殺したいからじゃない。そう、彼らに意志は無い。人間を操っているのではなく、本能というプログラムに従っているだけ。だけど、私たちが見たものにはね、ただ繁殖のために動くのではない、そう、明らかな意志があった、何かを為そうとする意志が」
クレッテ以外の脳内で浮かぶ映像は、先生の前で、アァ レウェと会話するネームレスの姿だろう。あれは、明らかに、上位生物からの交信だった。
「上位からの命令で動く寄生虫。“寄生”よりも“共生”に近く、そしてどの生物よりも『人間』に近い。誰も知りえない生物の正体を、私たちは突き止めようとしている。たまたまフィアと同じ年で、たまたま同室で、たまたま、同じ天才だったクレッテなら、何か知っていると思ったのだけれど」
皇女様が、クレッテの狭い懐に踏み込んだ。アァ レウェとクリュサオルは、狙っている。先生か皇女様か、または、どちらもか。その意志の通り道にふたりの死を捧げようとしている。暗殺集団である赤い手も、アァ レウェの手の内と考えるのが自然だろう。
皇女様は言っていた。次を狙うのなら、不確定要素である私の魔術を観察してから、殺しを確実にするだろうと。
「いえ、分かりません!」
クレッテは、いつも通り元気いっぱいにそう言った。裏表を感じさせないその言葉に、私はなぜだかほっとした。
 




