第30話 カッツィの優雅な一日
カッツィの朝は早いはずだった。炊事洗濯、朝イチバンの至高の紅茶を淹れるには太陽よりも早く体を起こさなくてはならない。しかし、まぁまぁ真面目な部類のカッツィはこの日、人生で初めてその仕事をサボり、ふて寝した。
断じて、騒がしい二人と成長盛りの少女が学園に入学してしまって寂しかったとかではなく。
断じて、暇を持て余した付き人に仕事を奪われて暇になったとかではなく。
冬季闘技大会の優勝。そこまでは良かった。ズグロは消息を絶ち、一緒に参戦していたフィアも療養のため辞退。特に苦戦もなく、あっさりと優勝の金と杯は掴むことが出来た。優勝の報酬としてもうひとつ。英雄とのタイマン。それが問題だった。
対戦の相手は、『次期英雄』と呼ばれる三英五騎士のひとり、ラスト・リンクス。
次期英雄という大層なネームを付けられているのは理由がある。王国、帝国、諸外国の国々には時として、例外的な強さを持った魔術師が生まれる。かつて獣国を滅ぼした王国の二人の英雄や、帝国の帝国序列 一位。諸外国軍の炎神など。ラスト・リンクスはそれに連なる怪物だった。
カッツィは何度も反省した戦闘が浮かんできた。もう十分に反省して出来うる対策は全て考え尽くしたというのに、敗北という二文字、無限に湧き出る悔しさがあの日を思い出す。
あの時の闘技場の空気感は素晴らしかった。満席の観覧席と湧き上がる人々、熱気の籠った声に温められた空気が自身の毛を撫で、心地の良い高揚感を与えてくれた。真っ赤に変わった貫頭衣が祝福さえしているようだった。コンディションは最高のうちの最高、敗北の二文字は過ぎたあの日に置いてきたはずだったのだ。
『さぁ! 遂にやってきたぞ。来る日も来る日も乗り越えた、あの戦の日々。盗んだ金で飯を食う日も、送り出した息子の骨を見る日も全てはこの方が終わらせた! 新時代の英雄、そして、王国の希望!
『次期英雄』ラスト・リンクス!!』
迎えたのは、万雷の拍手だった。彼は実況の口述の通り、数十年前の戦争に参画している。歳は確実に三十を超え、四十の後半でもおかしくないはず。だというのに、中性的な見た目、若々しい顔つきは十代後半でも十分に通じるほどの見目だ。
だが、理解る。この拍手の音。この喝采に人の声は混じらず、全員がただ胸に溜まる、声にならぬ声を拍手で表している。圧倒的な、正に英雄的人望、そして、それに見合う強者ゆえの圧。この場において、挑戦者は間違いなく自分だった。
「手加減してじっくりやるのと、がっつりやって終わらせちゃうの、どっちがいいか」
その声は中性的で女性の柔らかな音色も、男性のよく通る低音も混じっている。喝采の中でも、鋭く飛ぶ矢のように澄んでいた。カリスマ。リーダーシップ。それを感じざるにはいられない。
「早計ですね。主導権を握るのは、ワタクシです」
「ボクに勝つ気でいる訳だ」
「負ける気の獣人を見たことが?」
「そうだね。……まぁ、期待はしてるよ。少しね」
彼の言葉にはどの感情も籠っていない。なんの色も無いその言葉は明らかな社交辞令。いや社交辞令と分かるなら社交辞令ですらない。世辞だった。
獣人の変質は、人の身ゆえの不利を捨て、心身共に獣本来の凶暴さを取り戻す。地に足ついた四本の足が体を支えているというのに、どこか浮き足立った気分だった。
「いいでしょう。手懐けてみなさい、皇女の猛獣を」
「なるほど。なら、キミと同じ姿の方が、面白いかな? 『変身:獣』」
そして、完膚なきまでに敗北した。力の差がハッキリと、人と飼い猫ほどまで離れると、人は猫を傷つけないように無力化できるように、カッツィは無傷のまま敗北した。
だが、どうにか針の穴を通すような鋭い突きを一発だけ当てることが出来た。まともに当たったのは一発だけ、次期英雄を少し驚かせただけで戦いは終わった。
いっそ清々しい気分だった。清々しい気分でふて寝していた。
カッツィは王国と帝国の国境線ギリギリにある、王国領の街でイムと出会った。そこで色々あり、街のスラムの悪党を従えていたカッツィが皇女のメイドになることが決まった。皇女に負けたあの日から、カッツィは一度も負けなかった。
ズグロ相手に、辛勝ではあるかもしれないが勝てる程の力を持つカッツィが、初めて手も足も出せずに負けた。
寂しくないとは言ったが、いつも愚痴を言う相手がいないとなるとそれはそれで、静かな空間に胸がつかえた。
いくら悔しくても、寂しくても。それでも、世界は動く、人は起きて顔を洗い、仕事のために朝日を浴びる。物事はいつだって単純である。カッツィはふて寝をやめて、体を起こした。
カッツィの朝は早い。今日も一日気合を入れるため、キンと冷えた紅茶を淹れる。いつも用意していたイムとユウメのカップは今日から留守番をしてもらう。彼女たちがここに帰ってくるまで、少しの間だけ。共和国産の茶葉と、沢山の氷。沸騰したお湯と氷、茶葉を正しい量から一グラムもズレないように計量する。沸騰したお湯に茶葉を入れて数分間、茶葉の味を抽出。そして、それと氷を混ぜ合わせれば一日の始まりにピッタリな紅茶の出来上がりだ。
カップに注いだ紅茶をもって、あるものを探す。しかし、いつもあるはずの場所にそれは無かった。王国の情勢と至近の情報。天気予報の書かれた朝刊。カッツィは彼女らが学園内でクリュサオルの情報を集めている間、ヴァルターと共にズグロ一派や黒い虫の動向を掴むために動いていた。朝刊に載るかもしれない手がかりを掴むため、毎日欠かさず読み込んでいたのだが、それが見当たらない。
「チャーリー、今日の朝刊は」
付き人の筆頭、穏やかな老紳士のチャーリーは老骨に鞭を打って朝早くから身体を鍛えていた。いつもカッツィの部屋の前に朝刊を置いてくれるのは彼の役目だった。
「はて、アランに取って置いておけと言ったはずですが。少々お待ちください、聞いてまいりましょう」
彼の部屋でしばらく紅茶を飲んでいると、チャーリーと共に体格のいい青年とその腰ほどの身長の少年が入ってきた。体格のいい方がアラン。小さい方はミドル。ミドルの手にはぐちゃぐちゃになった新聞紙があり、その中で小さな子猫が寝ている。
「ごめんなさい、この子拾ってきたんですけど、寒そうだったから……勝手に使っちゃいました」
どうやら拾ってきた子猫を温めるために、置いてあった新聞紙を使ってしまったようだった。
「すいません。しっかり言い聞かせておきます」
アランがミドルの頭を下げさせながら謝った。
「部屋の前に置いておけと言った私にも原因はあります。それにしても、何故毛布を使わなかったのですか」
「ここのホテル、高そうな布しか無かったから……」
イムの付き人には、カッツィの傘下にあったスラムの子供も含まれていた。ミドルもその一人。カッツィは眠っている子猫を覗いた。目も開いていない小さな命が新聞紙の中で手足を動かしていた。
「同類を助けてもらったことですし、それで帳消しにしましょう」
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げるミドルの横でチャーリーが数枚の硬貨を手に乗せてカッツィに見せた。
「隣の喫茶店なら朝刊も置いてあるでしょう。お詫びにこれでコーヒーでも飲んでください」
「……いえ、それはその子のミルクに使ってください」
「左様ですか、分かりました」
カッツィは小さい子猫を撫でて喫茶店へと向かった。
「彼に繋がるものはないか……」
喫茶店には物静かな数人しかおらず、カッツィの紙を捲る音と、渋い年季の入った時計のような店主の出す音しか聞こえない。
獣人を敬遠することない、人道的な店主にコーヒーと朝刊を見る権利を数枚の硬貨で交換してもらったが、めぼしい情報は無かった。
もう一度読み返すために朝刊を広げた時、喫茶店のドアが開く。カッツィは興味なさげに朝刊を読み込んでいたが、彼は店主に何も言わず、ズンズンと進み、カッツィの横に立った。
「姉御!」
カウンターに座っていたカッツィが顔を上げると、横に立っていた者を見て驚愕した。あの、夜の王都で戦った巨体の人狼。しかし、今はカッツィよりも小さい。F.III クラフティだった。
「お前……! どの面下げて」
カッツィの黒い毛が逆立ち、立ち上がったはずみで椅子が倒れた。それを見てクラフティは慌てて両手を彼女の前に掲げる。
「まっ、待ってくださいよ姉御! 俺はあの稼業から足を洗ったんです。ほら、手袋が無いですし、体も小さくなっているでしょう!」
確かに、あの赤い手の象徴である真紅の手袋はつけておらず、人間の手に毛が生えたようなクラフティ本体のそれだった。しかし、だからといってカッツィが納得するわけがない。皇族の召使いとして、更に、ゴミ山でギャングの頂点を取ったものとして、仲間を捨て足抜けしたものを信用することなどするはずが無かった。
「違ぇよボケ! あんな戦い方と獣の矜恃を馬鹿にするような事をのさばっておいて、どの面下げてワタシの前に立ってんだって言ってんだよ!」
『カッツィ……帝国じゃ誰が見てるか分からないからその喋り方は止めてね』
カッツィの温まった頭にかつて言われたイムの言葉が刺さった。
「それは、謝ります」
クラフティは意外にも真剣な顔つきになった。獣顔の真剣な顔つきは一般人間には分からないが、カッツィには分かった。そして、彼は頭をタイルに擦り付けながら朝っぱらとは思えない声量で叫び始める。
「俺は! 自分に自信がなかったんだっ! 昔から体が小さくて、力も弱かった。仲間にイジられたさ、死にたくなるくらい! だから、故郷から離れて、あの機械でかさまししてたんだ……でも、あんたは俺の顎を、本来の俺を認めてくれた」
雨の降っていた夜。液体になったクラフティの欠片が、カッツィの一言を聞いていた。『立派な顎を持っているというのに』あの言葉を聞いていたのかと、カッツィは頭を抱えた。
「あんたの下でなら、俺は自分に自信が持てるかもしれねぇんだ! 謝るよ! 悪かったと思ってる。これは嘘じゃない。クラフティって仲間につけられた名前も捨てろって言うんなら捨てる! 頼む、あんたの下で働かせてくれ」
カッツィは困った。既に怒りは彼が喋っている間に冷えていた。獣人は、大体の感情は尻尾に出る。言動としっぽの動きに乖離があれば嘘をついていることにはなるが、彼の尻尾は力無くへたっていて、緊張の感情が強いことが分かる。
クラフティは演技も上手かった。演技に慣れているのなら、この場面で緊張はしないだろう。つまり、彼は嘘をついておらず、真摯に実直にカッツィに挑んでいる。
だからこそ、困った。働かせるにも胴元のイムに聞かなければ、給料が出ない。無理だ、どうかんがえても。警戒心の強いイムがこの犬の存在を許すわけが無い。カッツィは困っていた。
「あのぉ、お客さん……他の方の迷惑になりますので……」
店主が二人の間に立った。彼の名はボリコフティ。年齢は67歳。戦後珍しい、兵役上がりの長寿である。老後の暇つぶしにと立ち上げた喫茶店の危機に、震えながらも立ち上がった。返事のないカッツィから拒否の空気を感じ取ったのか、クラフティは顔を上げて大口を開けた。
「俺はあんたが良いって言ってくれるまでここから動かねぇ!」
「えぇ!?」
驚いた店主は犬が頭を下げた相手に助けの目線を送った。カッツィは店主から潤んだ瞳を向けられて、さらに困った。
「………」
彼女はゴミを見る目で犬を見下した。裏切り者を心の底から迎え入れることは出来ない。書面上では味方でも、心は裏切り者として動かすしかないのだ。カッツィは、誰であろうとそのような扱いをしたくなかった。残った砦はただのプライドである。
「…………………」
彼女は、歯茎から血が出るほど噛み締めて、ラスト・リンクスに負けた時並の悔しい表情で、どうにか蚊の鳴くような声を絞り出した。
「分かりましたよ、いいでしょう……」
「ハハ! 姉御なら分かってくれると思ってたぜぇ!」
クラフティは我が意を得たりと言った感じでいきり立った。店主はほっとしてカウンターに戻ろうとしたが、新たに喫茶店に入店してきた人物を見て腰を抜かした。
「あぁ、ごめん。でもボクが来たら店に泊が付くと思うからそれで許してよ」
喫茶店に来たのは、若々しい中性的な見た目、しかし、本能が若輩者では無いと言っている。次期英雄 ラスト・リンクス。王国の兵器である。彼は腰を抜かした店主を椅子に座らせて、満面の笑みでカッツィに近づく。カッツィは、アーモンドの目が真ん丸になるほど見開いて一連の流れを見ていた。
「なぜ、あなたが」
「ボクに一撃いれるのは驚かされたからね。それは期待していなかった。興味が湧く」
彼らは戦争が無いと暇なのか。躊躇なく横に座るラストを尻目に腰を抜かしたクラフティの姿が見えた。
「その子、キミのボーイフレンド「違います」
ラストが言い終わる前に食い気味に否定した。カッツィは店内に溢れるめんどくさい流れ特有の匂いに辟易とした。
「ほら、二人とも奢ってあげるから座りなよ。カッツィ? キミ、言ったよね『手懐けてみなさい』って、ほらボク、挑戦気質だから」
「あ、あの、英雄候補? 本物? 姉御、あんた一体、何者なんだ」
大きな溜息をつきながらカッツィは呟いた。
「……知らねぇよ」
間違いなく、厄介ごとだ。一国の英雄に目をつけられるなんて。だが、最近横に並んだ二人が居なくなって騒がしさに飢えていたのか。不思議と、かつての敵と敵国の英雄が並ぶこの空間、嫌ではなかったのだ。




