第2話 ふたりで最強
一人の男がいた。夜が降りたように暗い、砦の地下である。その男の周りには腐臭を放つ黒ずんだ脳が六つ、転がっている。
腐敗したようにも見える長い黒髪を振り回しながら男は叫ぶ。涎を撒き散らしながら呂律の回っていない口調で狂ったように。彼は事実、狂っていた。その双眸から正気の色は窺えず、眼窩は黒く落ち込み、頬は痩せこけていた。
「宙は瞑られ、真言は降った。このジェメロ、確かに聞き届けました。必ずや、必ずやあの無知蒙昧な背信者共の脳を、貴方様に捧げましょうぞ」
「おい! うるせぇぞ旦那! あんたの言った通り真っ正面から特務の連中が来やがったぜ」
叫びが途切れた時、床扉が開かれ粗暴な声が響いた。ジェメロと協力している賊徒の頭だ。
ジェメロの双眸には、確かな意思が宿った。
「あぁ、想定通りだ。問題ない、なにもいずれも、私が行う」
ジェメロは自身の獲物を持ち、地上へ向かい歩き出した。なぜ真正面から向かって来たのか、なぜたった二人だけで来たのか、彼はそれは全てを宙との交信で知り得ていた。
地上へ出るとそこには、真っ白な軍服を着た年若い男女が広場の中心に立っていた。砦の塁壁の上には、客が囲む闘技場のように賊徒達が弓を構えて男女を狙っている。
男が言った。
「アンタが魂狩りだな、我々は特務機関だ。アンタを始末するようにと任務を下された」
女が続ける。
「投降するのであれば、悪いようにはしない。死ぬのが少し遅くなるかもよ」
ジェメロはこの言葉を聞いて投降しようとは思わなかった。彼は女の方に狙いを定め、右手の獲物を胸の前に構える。そして、返答代わりの魔術を発動させる。
産まれた時から脳に魔術が宿っている者もいれば、死地での土壇場で目覚める者もいる。 ジェメロは後者だった。神から、与えられたのだ。
「宙よ、今暫くお待ちを、背信者の処刑」
ジェメロの固有魔術『背信者の処刑』。背信者とは、神に背を向けたものであるが故に、それは標的の背後に瞬間的に移動する能力。発動と同時にそこにあることを許された魔術。
そしてこれが軍兵六名の心臓を貫いたタネでもあった。剣を前方に突き出すように構えたままこの能力を使うとすれば、相手の人体は剣に上書きされ、まるで相手の身体を剣で貫いたかのような事になるのだ。彼の初撃が外れた事はただの一度もない。ジェメロは確実なる勝利と共に移動先で目を開けた。
次の光景は女の背後から心臓を貫いた光景になるはずだった。ジェメロの視界は黒一色で埋まっていた。
「排除執行する」
その黒一色が女の拳だと気づくのはジェメロの顔面に雷が落ちる程の衝撃が走った後だった。
「背信者の処刑!」
ジェメロは賊徒の死体の上に瞬間移動する。この能力は背面であれば死体でも可能であるという証拠を彼らに見せてしまった。
「ごふぁっ……何故だ……何故……あああ!」
尋常ではない痛みが遅れて彼を襲う。手を傷口に当てると顔面があるはずの場所に触感が無かった。顔の肉が半分消し飛んでいたのだ。鼻に詰まった血を吐き出しながら、生理現象によって涙が滲む目で睨みつけながらジェメロは疑問に思う、 何故、魔術を知り得、そして背面に飛ぶことを見破られているのか。
「何故だ……何故……私の魔術を理解している」
ジェメロは不遜にも堂々とした呆れ顔のユウメを見た。
「おじさん、普通の魔術師とやった事ないでしょ。貴重な経験させてあげるよ」
そう言うと女はその場で拳を腰だめに構えた。そのまま突き出したとして、到底当たる距離では無い。だが、視界が暗転し、秒針の動く音がした時、拳はジェメロの腹にあった。
「ぐっ……おおぉ……」
そして秒針の音と共に、ダインの横に戻っている。
「何だその魔術は、私と同じ……!?」
ユウメが行っているのは、ダインと彼女の魔術を組み合わせたものである。
ユウメが使う魔術は空間魔術。空間魔術とは、実体のある見えない箱を自身の魔力を使って形作る能力。
ダインの『魔間交換』は魔力があるもの同士を入れ替える魔術。
つまり、作成した空間とユウメを交換し、また交換すれば今のようなことが起きる
ユウメが目を細める。ジェメロが消えた。
予測はできる。移動先は背後では無い、真正面か真横か。どっちでも構わなかった。ふたりにとって、これは恐れることでは無かったのだ。彼女は右手に飛んだ彼の驚いた顔に再び拳を打ち込んだ。
「うっぐぁ……何故だ、な、何なんだこいつらはアァァ!」
彼は全壊した顔面を携えて狂乱したように、出鱈目に人間大のハンマーを振り回す。そのハンマーはユウメに当たる前に何かに当たって止まった。壁を打ったように、ぴたりと。彼女の作った空間に当たったのだ。
「チィィ、こいつはダメか! ならば」
ジェメロはダインの横に飛ぶ。ジェメロは上書きするつもりで飛んでいるのにもかかわらず、ズレた位置に飛ばされ、しまいには反撃を食らう。反撃がないだろうとたかをくくって標的を変えたのが、彼の最後の選択だった。
人間は、全身で魔力を循環させている。血液と同じように。ダインの魔術は、体中を無作為にバラすことも可能だった。彼はジェメロの四肢の皮とユウメのそこらじゅうに散りばめた空間と交換したのだ。
ジェメロの体が、不可視の十字架に結び付けられ中空へ磔にされる。神への信仰を体で表すように。
ジェメロの悲鳴が明け方の空に響き渡った。族達も唖然としてその様子を見ている。
「防御魔術も習得してないか。お前、動物の死体をこの砦に埋めていたな。自由に移動できるタネはそれだろう、胸糞悪いことしやがって。ユウメ、こいつ思ったより弱い、捕獲するぞ」
ジェメロが困惑したのは、彼女らに密接した位置へ移動出来なかったからだ。彼女らの周辺には空間魔法で、ユウメとダインを囲うように箱を作っているため、ユウメより魔力が強い人間か、また別の防御魔術を習得している人間だけが突破できる。このように自分の周りを自身の魔術、又は固めた魔力で囲い、相手に干渉させにくくする技術を防御魔術と呼ぶ。
「でも空間で囲ってないとこいつまた逃げるよ。どうせ砦の外まで死体埋めまくってるでしょ」
ジェメロが堂々と彼女達の前に出て来れた理由はそれだった。瞬間移動系統の魔術を持っていることは、軍兵六名を全く同じ方法で殺害していることと、帝都から、姿を見せながらもここまで捕まらずに逃げていることから特定は簡単だった。そんな何時でも逃げれるという自信があるからこそ出てきたんだろう。と、ユウメたちは推定した為、あえて堂々と正面から行った。
「帝都に帰れば完璧に捕縛出来る。フェルマーなら何か持ってるかもしれないが……あまり期待は出来ないだろう。その時はユウメがこいつの面倒を見ろ」
「えぇ! 面倒臭いんだけど。何で。私の睡眠時間が削れるじゃん」
「こいつを捕縛出来たとなれば殺すより良い評価が得られるだろう」
「でも私の睡眠時間には変えられない」
「うるさい寝坊した罰だ、働け」
弟というものは、いつかこうなってしまうものなのだろうか。ユウメは思った。
「俺は衛兵を呼んでくる。その間砦の探索を頼む。周りの賊徒もお前に歯向かうことは無いだろう。そいつの獲物も報告と違うし、少し調査する必要がある」
軍兵達は刃物で貫かれたと言っていたが、彼が持ってるのは鈍器であった。これをどう使っても刃物のような傷はつけられないだろう。
彼女は上の空で呟き続けるジェメロにうんざりとした表情を向けて、彼女は砦へと向かった。
――時間はジェメロが敗北する少し前に遡る。
砦の地下『頭』賊徒の連中からそう呼ばれる男は、安置された六つの脳に向かって声をかける。
「姐さん、首尾は上々ですぜ」
そう言うと、黒い脳の一つから人間の指ほどの黒い線虫が何匹も這い出てくる。それを見た賊徒の頭は、気色の悪さに吐き気を催したのか顔をしかめる。この黒い線虫には、見た目以上の、不快感をもたらす何かがあった。とにかくこの虫に近付くなと、体全体が拒否反応を起こしている。
「あぁ、ご苦労ご苦労、助かったよ。何もかもが上手くいく。怖いくらいだね」
黒い線虫全てが、同じ言葉を、同じ拍子で、音を響かせる。虫さえ見えなければ、大いなる存在に語りかけられているように感じるだろう。賊徒の頭は、とにかくこの虫が苦手なようで、この虫が何か音を起こすたび身震いして耳を覆った。
「……姐さん、一匹だけに喋らせてください。もうジェメロは行きやした。ふりをする必要は無いんですよ」
「あはは。ごめんごめん。怖がる君が面白いんだよ。ジェメロもちゃんと言うことを聞いてくれた。後は上手く捕まってくれるといいんだけどね……こればっかりは神、いや先生のみぞ知るってやつかな」
「はい。奴は一人では何も出来やせん、特務の連中の強さを信じましょう。魂狩りの剣は回収しやした。虫達に魔力痕を食べて貰えれば、ここでやることは終わりです。他の二人も俺も、何時でも飛べます」
そう賊徒の頭が言うと、這いずり回る数十匹の虫達が天井に向かって伸び、虚空に噛みつき始める。
「うん、分かったよ。君の魔術の痕も、この子達に食べてもらうから。もう、行っちゃってもいいよ」
賊徒の頭は、喋る虫に向かって一礼をして魔術を発動した。地下室には一陣の風が吹き、飛ばされた虫達が宙に浮いた。彼の姿はそこにはもう無かった。
「ふむ、そろそろユウメちゃんが来ちゃうかな? 私達も食べたら早く消えよう」
黒い線虫はジェメロの脳にいる線虫に視界を切替える。彼の視界には、こちらを見下ろすユウメの姿が映っていた。
「ユウメちゃん、先生の娘なんだってね。確かにその生意気そうな顔は凄く似ている。でも、その魔力量、先生の足元にも及ばないね。まだまだ成長期かな。早く会って話しがしてみたいな。今会っちゃうと、予定が狂っちゃうからまた今度だね、次に会う時は王都かな、またね、ユウメちゃん」
黒い線虫の独白が終わり、しばらくすると線虫同士が共食いを始めた。お互いがお互いを喰い合い、最後の一匹になると自らの肉体を喰らって消滅した。地下室にはもう、何も残っていなかった。