第27話 選択の結果は猫をも殺すか
早朝の大通りは人通りが少ない。転がったゴミや馬の糞便を片付ける清掃員がひたむきに仕事をしている。多くの国と人が恐れる病の温床を掃除する彼らには多額の報酬が技術防疫機構から支払われるらしい。
そう、わたしは早起きをした。この異常現象は何かに準じて起こる訳ではない。野営している時に、ダインがわたしの馬に寝ているわたしを蹴らせたことがあったらしい、寝ていたので分からないが。わたしは、カッツィに顔の上で寝られても起きないだろうし、夢の中で殺されてもそのまま我が物顔で居座るだろう。だから、これは異常現象なのだ。イムがずっと夢に出てくるのは。イムがわたしに幻覚を見せているのでは無いかとも思った。しかし、そんなことをする意味は彼女に無いだろう。それに、わたしと一緒に他愛もない話をする夢を見せるのは、尚更意味が分からない。だから、独りで散歩している。護衛のことも全部夢の中に忘れてきた。
意味が分からないのは、あの手記もだった。別のことを考えようとすれば、必ずあの支離滅裂の手記に行き着く。考えられる可能性と疑念は多い。ただ単に、カフェが虫に負けた可能性。暗殺集団が様々な証拠になり得る手記を残すとは考えにくい、あの場には狙撃手もいたはずなのだ。だから、ヴァルターのみが虫に負けていて、不和を産むために偽装した可能性とどちらも負けている可能性がある。後ろ二つはイムの瞳が否定し、カフェが使った精神魔術の存在が残った可能性を肯定した。
「カフェが裏切り者……」
だとすれば、女帝からの粛清は避けられない。悲しさと寂しさがあった。暗雲を為すようなため息が出た。だが、信じられない。黒い虫に操られていると、イムもヴァルターも現実もわたしの論理的な部分だって是正するが、到底信じられなかった。人が、それもあのカフェが虫に負ける。信じられない。彼女が自分の意志で一連の行動をしていると言われた方がまだ信用出来る。それも、だいぶおかしいが。
それに、防御魔術を無視する精神魔術を持っているというのに、なぜわたし達を殺さないのか。黒い虫の一派ならわたしとイムを狙うはずだ。どうやっても、流れが繋がらない。全くの不可解だ。それに、カフェが殺害を選ぶのは決まって最終手段で、交渉から教育の段階を踏んでからであり、無差別に殺害することは絶対にない。情報を集積すれば、彼女のやっていることは以前の彼女と比べて全くのあべこべなのだ。
イムが総じて出した結論は、とにかく接触を避けること。黒い虫と最近競り負けたのかもしれないし、何か別の目的があるかもしれない。中身がなんなのか分からない缶詰のようなものだから、とにかく触るな近づくなとした。
そして、ヴァルターはひと月の間にリサが王都でやった事を調べてくれた。彼女が最後にいた場所は、ピューピル魔術学園。わたしとイムが入学する予定の場所だった。不思議だ。イムが王都来たことと、リサが学園に潜入していたことは何の繋がりも無いはずなのに、わたしを取り巻く事態は学園に収束した。まるで、そこが問題の発端だったかのよう、渦の中心に近づいているかのようだった。
今日はあまり天気が良くない。わたしのため息みたいな重みを感じさせる暗雲が王都を覆っている。赤い手との戦闘の日もこんな天気だった。こういう日は大抵、良くないことが起きる。
「おはよう。ユウメ」
体中にぶわりと撫でられるような怖気が走る。闇が形を成すように、虚無の気配から現れたのは、白い軍服に映える烏羽色の長髪、副隊長、いや、今はカフェ代理隊長。悪い事が起きると分かっているなら外には出ない方がいいと、太陽から逃げる冷気が嘲笑っているかのようだった。
この人、わたしの姿を確認する前から名前を呼んでいた。待ち構えていたのか。どこからどう見ても、いつものカフェであり、黒い虫の片鱗など欠片も見えない。イムなら、今わたしが抱えている感情を恐怖と名付けるだろう。
「オハヨウ、カフェ……」
「……?」
目を見たら死ぬかもしれない。そのあまりにも信じ難い事実がわたしの身を固くした。蛇に睨まれた蛙が平常であるなら、その蛙の本を読むべきだ。
「こんな朝早くに珍しい……すごい汗ね。どうしたの、何かあった?」
早朝の肌寒い時間に汗をかく軍服の女ほど不審なものは無い。しかもこれは一般的に脂汗、冷や汗と呼ばれる危機による悪寒からの汗であり、これはもうバレているのではないか、こんなにタイミングよく接触するのはもうそういうことなのではないか、いや、もしかしたらカマかけかもしれない、と言った思考が、更に焦りを巻き起こした。
「カフェこそどうしたの?!」
「隊長、スレイヴの居場所が分かったんだけど、会えなかった。ごめんなさいね。でも、生きてることを伝えようと思って。心配だったでしょう」
「た、隊長には会いました! 元気そう、では無かったけど……」
「そう、良かった……彼は、笑えていた?」
「え?」
「彼、仕方なかったとしても実の娘を手に掛けたのだから。苦しいでしょう。きっと、もう二度と笑えなくなるほど辛いと思う。だから、会えたら背中でも叩いてあげようと思ってね」
そう言った彼女の目は、いつもと全く変わらなかった。慈母のように優しく弧を描いている。やっぱり、カフェはカフェだ。そう思わされた。カフェがあんな残酷なことをするわけが無い。そう思わされた。
純粋に人を心配していた彼女を怖がるのは失礼だと恥じる。どっちみち、人は死ぬのだから、怯えなくてもいいだろう。そう思うと、今までの人生でここまで慌てたことは無かったなと冷静になれた。
「大丈夫。わたしがみんなの代わりに叩いたから!」
「ふふ、サージェを連れてこなくて良かった。彼が居る時はユウメは素直じゃないからね」
悪戯っぽく彼女は笑った。わたしはその名を聞いて苦い顔をせずにはいられず、その表情を見た彼女は笑いながら「ごめんごめん」と平謝りした。
「すこし、歩こうか。部下の悩みを聞くのも、上司の役目だからね」
答えを聞く前にカフェは背を向けて歩き出した。
置いて行かれる前にその横に並ぶ。
「悩みですか、別に、悩みなんて……」
「人が何も考えずに普段と違う行動をとることなんて無いよ。ましてやユウメがちゃんと朝に起きるなんて有り得ないことでしょ?」
「うーん、たしかに」
相談の機会をときたま設けてくれるのは有難いことでもあった。頼りになる大人の女性に聞きたいことなど山ほどあったからだ。
数個の悩みのあるうちの最上段、早起きという異常行動の要因でもあるイムとの間にあったことを相談するのは論外である。数年経った後にこの話題を出されてイジられたら発狂せずにはいられない。言語はある意味、即死の精神魔術になりえる。
なら、思い切ってクリュサオルのことを聞いてみるか。これも、止めておいた方がいいだろう。やぶ蛇、蜂の巣を突く行為になりかねない。
「うーん……あっ!」
「なにか誤魔化しは思いついた?」
彼女は浅知恵の誤魔化しをあっさりと見破る。しかし、まだ聞く姿勢を崩さない。聞かれたくないことだと察してくれたのか、これが、大人の女性の余裕だった。
「条件魔術を受けたの。『選択』ていう魔術なんだけど、対象の未来の重要な選択を現在で選ばせ、その選択した結果が未来でも選ばれる魔術で」
「厄介な選択?」
「はい……最初は、ダインを追うか、学園に入学するか、って選択だったんです。でも、その後はサージェもカルベラもカッツィも……ダインも。そしてカフェも殺すって選択でした」
「私殺されちゃうの?」
「頑張って殺すよ」
「ふふ、こわいこわい。でも、あまり深刻に考えなくてもいいかもよ」
「どうして?」
「術者が死んでいる場合、条件魔術は無効になる場合がある。死後も続く魔術はなかなか珍しいからね。条件魔術の魔力を調達する源がない。君の魔力因子の色と、条件魔術の色は違うわけだから。そのうえ、“殺す”という選択をしただけで実際に殺すとは限らない」
わたしがカフェを“殺す”という選択をしても実際に殺しきれるかは分からない。条件魔術は嫌いだ。法律の穴を探っているみたいで面倒だから。
「選べなかったらペナルティってタイプの魔術かしら。……よく、選んだじゃない。がんばったね」
カフェは、そう言ってわたしの背中を軽く叩いた。
「いや、選べなかったよ。勝てたのは、たまたま。運が良かった」
「運も実力のうちだよ」
「やっぱり、褒めて伸ばしてくれた方がいいね。カルベラはいっつも殴ってくるから。カフェは、選べる? 迷わずに」
「迷わない」
「どうして?」
彼女は簡単には答えなかった。ちょっとした沈黙がふたりの間に挟まった。
「言いにくいなら、いいですけど」
「………………みんなのためにね」
「それ、答えになってなくない?」
彼女は、苦々しく笑った。
「答えに迷うくらいだから、難しいね。それにしても、面白い魔術。そうだ、選択ということは、天秤の反対側に乗っていたのは誰だったの」
「ほぼ全ての選択で、イム……」
「へぇ! 」
「へぇ!って……なんでそんなに嬉しそうなの……」
「運命みたいじゃない。世界か一人かを選ぶ運命。私結構、本を読むんだけどねそういうの好きなんだ」
「意外でもないかな。ダインもそうだったし」
「ロマンス系なんだけどね」
「ロマンス…………?」
「人の恋愛を書いたやつだよ」
「なに、顔真っ赤にして。初めてみた、そんなあなた」
「ち、違う! 違いますから! 」
カフェは慌てるわたしを見て、理由も知らないはずなのに含みのある笑いを浮かべた。
「ふふ、でも良かった。元気になってくれて。最近、思い詰めてたようだから、頼れる人が出来てくれて良かったわ。ユウメはあまり人に頼らないから、頼られる予定の人は不安になるのよ?」
唐突に彼女は安心したような顔色になった。文句でも言ってやろうとしたが、手鼻をくじかれた。わたしの感情を手玉に取るのも、大人の女性の経験故なのか。
「それは、ごめんなさい。イムが話を聞いてくれて、それも、聞き出してくれた形で」
「ふーん」
「なっ! 違いますって!」
「ふふ、怒らない怒らない。好きに振り回されるのもいい経験になるんじゃない。まぁ、問題があるとしたら世界が敵に回ることかしら?」
「じゃあダメじゃん」
「えぇ、そうね。そんな未来が訪れないことを祈るわ。全ての人間に。忠告するとしたら……『敵に回ったと理解した時は、特務を信じろ』」
その時、大通りに差した路地から恫喝するような男の声が聞こえた。早足でそこを覗くと三人の男が一人の獣人を寄ってたかって殴る蹴るの暴行を加えていた。
「厄介事だね、どうする? ユウメ」
「命令してよ……行こう」
鳴らした足音に反応した男達はゆっくりとこちらを振り向いた。倒れて暴行を加えられていたのは、馬の獣人だった。とても、この男たちに殴り合いで負けるような風体には見えない。発達した四肢と巨大な図体、わたしが魔術師じゃなかったら歯向かおうとは思わない。
「ヴィッツの軍人が……こんなところで何してやがる」
そう言ったのは、拳を血に染めて馬獣人に唾を吐いた男だった。彼らは浮浪者というには身なりの良い格好をしていた。信じたくは無いが、教養のある立場の人間に見えた。
「大の大人がよってたかってイジメをしているように見えたんでね。気になっちゃった」
「大した博愛精神だ、独裁主義の虐殺者共が」
「わたし達には秩序がある。何の理由もないイジメっ子と一緒にしないで欲しいな。……才なしが魔術師と殺り合うつもり?」
非術師は魔術師に対してはあまりにも無力。象の前に立つ蟻。ネームレス程の技量でも持っていない限り、その力量差は覆らない。そして、この男たちもそれは知っているようだった。倒れる馬獣人を睨みつけた彼らはわたし達の横を通って、表の街に消えた。 最後に「秩序のために人を殺すのはそんなに上等かよ」という、嫌味のある言葉を残して。ただ、何故かその言葉はわたしの中で何度も響いた。
「イジメるやつが言う言葉じゃないね」
「……軍人崩れだったのかも知れない。再編してるらしいから。とにかく、今はあの馬を」
倒れて気を失ったように見えた馬がいつの間にか体を起こしていた。一連の出来事などなんにも無かったかのように、服に着いた汚れを払っていた。
やっぱり、わざと抵抗しなかったんだ。
「……感謝はしないぞ。むしろ、余計なことをしたな。獣人を助ければ反感を買う」
馬獣人は男だったようだ。馬面では男か女かも分からない。獣人はカッツィのように分かりやすい格好をしていなければ、声色でしか判断できない。
「反感は売り切れるまで買うよ。君、なんで抵抗しなかったの……魔術も使えるようだけど」
馬男にはそれなりの魔力も見えた。象がわざわざ蟻に踏まれていたのだ。とても、理解できない。
「君には関係ない。何をしようが僕の勝手だ」
「そうだ、いい時間だし。三人で朝食を食べに行こう。わたしの奢りで」
唐突にカフェが言った。わたしも馬男も唖然とした。
「は? 何」
「あっ、でも助けるって言ったのはわたしだから、この馬の分はわたしが出す」
「おい! 僕は行くって言ってないぞ! それに金だって持って……」
馬男は服にある全てのポケットに手を突っ込んだが、目当てのものが出てくることは無かった。
「無一文じゃん。かわいそ」
「あいつら……しっかりスっていきやがった……」
「じゃあ、行こうか」
馬は渋るような様子を見せたが、カフェから意地でも連れていくという圧を感じたのか、逡巡を終わらせて後をついてきた。
 




