第23話 F.I ネームレス
かつて、ただの一室で対峙した刺客。平穏の崩壊。一本剣の死神。あの時、ユウメが止めた男は、その身に魔力を宿して再び彼女の前へと立ち塞がる。
雨が更に強く、弱ったユウメの体を打つ。降り荒ぶ豪雨が、瀑布のように風に荒れた石畳に跳ね返り、霧のように視界を狭める。それへと薄まるネームレスの姿。
だというのに、その気迫、圧力。その剣気。死してなお一切の翳り無し。漆のように黒く、全てを切り、命を刈り取る死神の影は全く薄まることなく未だ顕在にあり。
ユウメは思った。彼の背丈は、私を少し上回る程度である。彼とはそれほど背丈の差が無いはずだ。なのに。――大きい。
剣と一体化した偉丈夫の沈黙は、生物の枠を外れた圧を放っていた。ユウメには、彼がただの人ではなく、大いなるものの一端にすら見えた。山々に隠れる月がその場に現れたかのようだったのだ。
勝てるか? この男に。生きて、またイムに会えるのか。浮かばないのだ、勝利のイメージが。
ズグロと対峙した時すら明確に浮かんだ勝利のイメージ。そして、浮かばなかった敗北のイメージ。だめだ。あの男の刃が自身の首を通過するイメージが、克明に浮かび上がる。
これに、立ち向かったのか。リサは。たった一本の小さなナイフで。護るべきものを護る背中、何も出来ない私たち二人を庇った背中は、どれほど高潔なものだろうか。
勝利を諦めろ。
私がしてきた人の真似事。その統計的な行動指標の全てに死が結びついた。私がわたしに、神に許しを乞えという。強さを求めるならば、自分がまともだというのなら。
吐いた息が、白い。
「強く、大きく育ったな。見えるぞ、君の背負ったものが」
「お前は変わってない。カルラカーナを殺した時から、なにも」
「あぁ。その様相、修羅の瀬戸際か。……気が変わった」
神の影が揺らぐ、漆黒の鎌から、友好を願い、手を取り合おうとする手に。
「その傷、立っているのが異常な状態だ。君だって分かっているだろう? そこから俺に勝とうなど、不可能だ。あえて言わせてもらおう、“抵抗”するな。それは無駄だ。そして、私の手をとれ。教えてやる、修羅の道の、歩みを」
「…………」
「手をとれば、その娘を見逃してやる」
「勧誘って、こと?」
「そうだ。君なら、俺の上にいける。その能力が十全にある」
「断ったら」
暗雲に光が走る。死神の剣を、白く照らした。遅れて、空を引裂く雷鳴が轟いた。しかし、その自然ですら彼を引き立たせるものでしかない。
「君と、その娘が死ぬ」
拒否権の無い勧誘。断る理由など二人の命に比べれば些細なもの。ユウメが、差し出されたその手へと震える足を進める。
「ユウ……メさん!」
少しずつ離れる背中にフィアは手を伸ばした。爆風を食らい、更に蟻に食い破られた体では立ち上がることも出来ない。それでも、絶対に止めなければ、ユウメが二度と戻ってこないことも察していた。しかし、伸ばされた手は、彼女を引き止めるには至らなかった。
「そうだ。来い。この手をとれ」
ユウメはチェイサーの選択が脳裏に過ぎった。友達も、師匠も、先輩も、残された弟も殺す。この空間魔術は、この力は、護る為に、護る為に手に入れたのに。殺す為に、使われるのなら、いっそのこと、彼らが悲しまぬように、敵として。
修羅と死神が対峙する。
「君なら、選んでくれると思っていた。さぁ、手を」
しかし、その手をとる者はいない。
護る為に。誓った。護るべきものは、背後にいる。魅せる時だ、リサの意志は死なない。彼女を継ぎ、あの高潔な背中を生徒に魅せる時。震える心、同調する体を整える。わたしはわたしを自覚する。敗北を意味する意志――ひとつとして無し。
「……? どうした」
「勧誘する時は」
「あぁ」
「――態度ってものがあるだろ」
特異点 空間圧縮
「斬るさ、お前は! 目の前に空間が出来たのなら!」
有無を言わさぬ開戦の合図。ネームレスの太刀筋は、ユウメを両断するものから、目の前に現れた不審な空間へと流れる。ロックス・メトロすら防いだ城壁を超える防御を誇った空間が柔らかに両断される。
だが、ユウメはそれを想定していた。この男なら斬ると。魔術を超える技術。それを当然にやると確信していた。切断された空間は圧縮された殺人立方体であり渦巻く空気が、その暴力を解放する。
十年前のネームレスには、魔力が無かった。防御魔術の無いあの時の彼なら、空間の移動だけで刈り取れる命だった。 しかし今は、どういう訳か、防御魔術を展開している。つまり、彼を殺すには、特異点による空気爆弾か接近戦での物理攻撃の二択。
あの剣技の前に、接近戦は不利だと悟ったユウメは、圧縮空気による即殺を狙ったのだ。だが、これで決まらない場合、嫌でも接近戦に持ち込むしかない。あの時のリサのように。
「そう来なくては……!」
無傷。修羅と死神、両者ともあの爆発で傷は受けていなかった。自身の空間で凌いだユウメと、剣以外の、何らかの方法で凌いだネームレス。
魔術だ。ユウメは思った。あの黒い虫、クリュサオルが騒々しく蠢いている。彼に魔力を与えているのは、あの虫だ。
――特異点
二度目の必殺を撃とうとした時、気付く。魔力が異常に減っている。二度撃てるはずだった空間圧縮が、たった一発で全体魔力の七割を持っていった。
――雨だ。水は空気よりも圧縮に圧力を必要とする。雨を含んだ空気を圧縮したため、想定以上に魔力を必要としたのだ。
ここで再び撃てば、限界を迎える。
――特異点 空間圧縮
ならば、限界を超えるのみ。削れる。魔力以外の削れてはいけないものが。視界が赤く染まり、頬に生温い何かが伝った。
「あんたは確かに、私にとっての希望だった。でも、私は! 母さんの仇と、リサねぇの仇。そんな奴の手を取るほど、落ちぶれてない!」
ネームレスが剣を構える。その剣に鞘はなく、そして、鍔もない。その剣を収めることなく、打ち合うことも無く、ただ、切り続ける。幾多の剣豪を切り払ったその剣と一体となり、自身の全質量をその足に込めて踏み込んだ。
「斬る」
「殺す」
解放
ユウメには、圧縮爆弾が何らかの理由によりネームレスに通用しないことは分かっている。狙うのであれば、接近戦。無双の剣を掻い潜り、残った右腕で必殺を叩き込むしかない。
だが、あの剣を前に、踏み込み、体を捻り、打ち込む余裕があるのか。
ある。
「下か!」
地下から迫り来る暴力にネームレスは身構えた。ギンピーギンピーが潜ったのは、この下。領域魔術には、そのベースとなる空間が必要。下水道か、地下空間。ネームレスに近づく合間に、地下で空間を動かしてその大きさを測っていた。巨大な地下空間。地上からその地下まで落下する時間は、一秒。
地に足つかぬ剣では、このユウメ・エクテレウの空間は切れない。その自信があったのだ。爆発で狙うのは、ネームレス本人ではなく、その地面。
噴火する様に捲れ上がった地面が、地下空間への口を開く。ひしゃげた舗装路を盾に、下から襲い来る礫を粉微塵に切り飛ばす、ネームレス。
やはり、その剣の鋭さは地上に比べて、目に見えて劣っている。七転八倒しながら、溺れるように振り回すしかないのだ。ユウメは、自身の足元に空間の床を作り、下から襲い来る爆風と礫を遮りながら、ネームレスへと肉薄した。
中空に設置した空間を踏み込み、捻り。打ち出された拳。
殺れる。
「寄越せ、アァ レウェ」
クリュサオル達が蠢き、ネームレスの肉体を纏う。ただ、落下だけが許されたはずのネームレスが、中空に踏み込んだ。
これは、この魔術は。
誘われた。
ユウメの脳裏に走馬灯が浮かぶ前に、その一閃は放たれる。浮かぶユウメの足元に、鮮血が飛び散った。
「まだ……まだだ……!」
刃が通過した場所は腹部、横凪に放たれた死神の鎌は命を掠め取るには至らない。だが、皮一枚、内蔵を掠めたその剣で終わる程、無双の剣は甘くない。
振り下ろされる、光を置き去りにする袈裟斬り。
ひらりと、揺れる煙のように躱し。
返す逆袈裟も、躱す。あの時、十年前、魔力のゆらぎを見て空間の上書きから逃れたネームレスのように、ひらりひらりと。鼻先を掠った剣先が、ユウメの茶髪を舞わせる。彼女は、四度目の一閃が来る前に、足元の空間を消して落下。死の射程圏から逃げ延びた。足のついた、地下空間には、膝まで水が溜まっていた。
「剣筋が読まれるか、いい目をしている。なぜ剣を握らなかった?」
雷光が、大通りに突如として出現した大穴を照らす。同じく、ネームレスも地下空間の水底に足をつけた。
母の命を奪ったものを、握るものがどこにいるか。だが、そんななけなしの論理観念がこの男に通じないことは分かっている。重要なのは、その魔術。
「お前、その魔術は……」
「難しいな。この魔術は、いくら魔力を込めても、薄氷のように割れるんだ」
「空間魔術……!」
初めてだった。同じ、属性魔術である、空間魔術師同士の対峙。
「薄氷って言う割には、思いっきり踏んでたけどね。五年はかかったよ。私。踏めるようになるまで」
会話に興じるふりをして、切られた腹部を空間を糸状に変形させ縫合する。中身が溢れてしまわぬように。 全身から溢れ出る血液が、地底湖を赤く染めていく。
「くくっ、才があったのだな。十年だ。黄泉返ってから、十年丸々かかったよ」
ユウメは目を見開いた。
十……年……? 黄泉返ったのが? 殺されたあとすぐに黄泉返ったのか。
「どうやって……」
『特務に裏切り者がいる』
なら、裏切り者とその虫は、クリュサオルは、十年前から暗躍していたのか? 私たちの知らぬうちに、人の中で、ズルズルと。
「剣を極めておけばと後悔した。虎がその身のみで狩るのは、他が余分だからだ。虎がその牙さえあれば十分なように、俺には剣だけで十分だと。この魔術は余分だと考えていたが。違ったよ、良かった、この魔術を鍛えていて。手数はやはり正義である。君の二度の必殺を防げたんだ。十年など、安いものよ」
「十年、何してたの?」
「言っただろう。鍛錬だよ。いや、そうか、気になるか。この虫が」
ネームレスは体に纏う黒い虫を握ってユウメに見せた。おぞましい。見た目だけでは無い。その虫の何かが、体に怖気を走らせている。この世のものでは無いものに会ったような、思考が逃走一色に染る、恐怖そのもの。
「きもちわる」
「ははっ、そうだろうな。こいつらは、人類の天敵だ。蛇に睨まれたカエルの気持ちがわかるだろう」
「なんなのそいつ」
「嫌だ。と言いたいところだが、同じ空間魔術師のよしみだ。教えてやろう。これは、宙の主の友達だ。クリュサオルと呼んでい…………」
ネームレスの口が閉じられる。自分で閉じたというより、誰かに閉じられたように見えた。
しばらくして、ネームレスは口を開いた。
「これ以上は企業秘密らしい」
「虫に主導権握られて、哀れだね」
「戦えるのなら、なんでもいいさ」
ネームレスは会話は終わりだと言うように、剣を構える。
「傷は埋まったか? さぁ、仕合うぞ」
「バレてたんだ。変なやつ。まぁ、楽しかったよ。同じ空間魔術師で話せたのは初めてだし」
「そうか、ならば。最後に聞こう。なぜ、俺の手を取らなかった。俺の差し出された手を見た君には、間違いなく逡巡があった。君の、何がそうさせたんだ?」
差し出された手。
「二度も親の仇を取れるチャンス。逃すわけないじゃんって、言いたいけど」
あの時、頭に浮かんだのは、イムの困った笑顔。
「アンタの手を取ったら、イムは困るでしょ。……私はさ、あんまり性格良くないの。学園生活を楽しみにしてるイムの前で、うっかり『めんどくさそう』って言っちゃうぐらいには、考え無しで、クソ野郎」
ズグロとの交戦で傷付き、療養中だった時。暇だろうからと、ベットの横に座って話し相手になってくれた時に、うっかり言ってしまったことを覚えている。あの時の、困ったように笑うイムを忘れられない。
彼女に、どれだけ、笑えない時期があったのだろうと、今更考えた。ずっと、あの顔だけが引っかかっていた。なぜ気になったのかも分からぬまま、壁を壊して、やっと分かった。人の心を読めるが故に、傷付き、閉ざされたこころ。そんな彼女が深く、深く傷ついた心を開いて人との関わりを楽しみに出来るようになった彼女に。 彼女にそんな表情をさせた、考えなしの自分が、すごく、すごく、死にたいくらい、嫌になった。これが罪悪感だと初めて実感したのだ。
「でも、そんな私でも。出来ることはある。イムが笑えるように、学園で楽しく過ごせるように。護る。私の強さは人を殺すためが本道じゃない。誰に何を言われようが、未来を勝手に決められようが、これは、この強さは
――護る為の強さだ」
ネームレスは刮目する。燃え尽きたはずの、ユウメの魔力が、再び燃え上がる。その燃料は、もう無いはずだった。
“薪”
魔力が無いなら、この誓いを。薪を。
「――勝ちに行く」
「ふっ、ズグロが買うわけだ。来い。俺と君。
――最後の勝負だ」




