第20話 F.Ⅳ ギンピーギンピー
「領域魔術とは、実存する空間をベースにして自身の心象世界を投影した魔術のこと。この魔術は三つの要素で説明出来る。
一つ、連れ込まれた標的は異物として領域内の生物に攻撃され、攻撃は帯域時間が経てば経つほど苛烈になる。
二つ、領域の範囲はベースとなった空間に一存する。
三つ、領域は術者が自身の意思で閉じるか、魔力供給が絶たれると消滅する。
……つまり、もし領域に連れ込まれた時は術者を殺すか、範囲外まで逃げるしか無い。フィアはまだ魔術に目覚めてないから殺すのは難しいね。術者が身を晒しているなら戦ってもいいけど……姿が見えないなら、とにかく逃げて、時間を稼いで、私が行くまで生き延びて」
泉に落ちた水滴から波紋が生まれ、凪いだ水面が揺れるように、領域に落ちた私という水滴が樹海を揺らした。何の気配も感じなかった森の隅々に敵意が満ちて、私を見つめている。
「あなた、ヴィッツにしては白い肌ね。共和国の方かしら? いや、それにしては瞳の色が特殊ね。もっと東、塩の国や東方の海街でよく見る色……」
耳をすましても声の出処は分からない。密閉空間でよく見られる反響だ。声の反響は大きい。ベースとなった空間がそこまで広くないことが分かる。
太陽の輝く空と全貌の見えない樹海はどこまでも続いているように見えるが、あれはハリボテだ。領域魔術にはベースとなる空間が必要。つまり、あの空にも天井はあるし、樹海の果ても存在する。王都の地下でベースになる空間であげられるのは地下水道か、自然に出来た空洞……
「でも、今となれば塩の国と東方の海街は帝国の植民地。四十年前の大戦前に起こった虐殺と搾取は、産まれた子に必ずヴィッツの特徴が出たと言われる程悲惨だったそうじゃない。そのおかげで今や純血は途絶えたと言うわ。ふふ……じゃあ、もし、純血の生き残りがいたとしたら、それはレア物よねぇ」
最初の落下時間から考えて、地下水道の可能性は低い。自然に出来た空洞だとしたら、全く予想の出来ない形に広がった領域で術者を探さなければならない。
嗜虐的な声に戸惑ったふりをして周りを見る。私の体ほど太い根に支えられた苔まみれの樹木、人より背の高いシダ植物、ヤシのような葉をした木に、高い位置に枝葉のある白い木、それらの木にこれでもかと絡みついた蔦。見たこともない人の目の形が刻まれた木、虎の口のようにも見える真っ赤な食虫植物らしきもの。映る景色は人の心に歪んだ熱帯雨林のみでそこに人の姿は見えない。
「ふふふ……かわいい。怖がらなくてもいいのよ。そのままじっとしてれば、私の子ども達があなたを捕まえるわ。そうすれば、私のコレクションにしてあげる」
考える。私なら……。私なら、領域魔術に引き込んだ標的から目を離さない。身を隠しながら、顔だけ出して、ずっとバレないように監視する。そう、あんな感じの、背の高い枝に乗って。女は油断している。たぶん、読み合いは無い……
先生の教えを思い出す。殴る時は、防御魔術をいい感じに肩に集めて、当たりそうと思ったら、魔力を押し出すように勢いよく動かす。不思議な教え方だったけど、私には十分に理解出来た。それの応用で、さっき落ちた時に拾った石を握り締めて、石を打ち出すように……思いっきり右腕を振った。
「おぉ」
私の投げた石は空中で爆発したように見えた。速度が早すぎたのがいけなかったのか、石はまるで空気の壁に当たって自壊したかのように見えたのだ。粉々になった石はシャワーのようにバラけて襲いかかり、目標付近にあった樹木たちは大穴を開けながら倒れた。軋むような音を上げながら倒れた木々は、ほかの木々を巻き込んでドミノ倒しのように森林を荒らす。倒れる木々のひとつから逃げる人影が見えた。
「あっぶな! お前、やっぱり身体強化系か。ハハ、惜しかったわね。あとちょっとズレてたら死んでたかも。一族揃って運が悪いのかしら、今のが最後のチャンスだったのに。残念。もう、容赦しないから」
私の投石は開戦の合図となった。ギンピーギンピーの合図で領域の排除システムが動き出したのだ。森全体が震えるような羽音が響く。少しずつ大きくなる音、こちらに近づいてきている。私の足元に影ができて、思わず見上げたそれは、蝉だった。空を飛ぶ、家ほどの大きさの巨大な蝉。全貌は見えていない、腰が抜ける前に体が勝手に走り出したから。
鬱蒼とした森に足を取られないように走る。絡み合う蔓や草葉を掻き分けながら進むのは大変で、汗が浮かんだ。だが、ほぼ冷や汗だ。あのサイズの蝉に至近距離で鳴かれたらたまったものではないし、今も後ろで羽音を鳴らしながら追ってきていると思うと怖気が走る。
走りながら、適当に石を拾った。勇気を振り絞って後ろを向きながら本気の投石をする。分裂した石が森を破壊するが、すぐ後ろに蝉は居なかった。あの大きさで当たっていないことは無いですよね。と思っていると、死んだ巨大蝉が飛行時の速度のまま突撃してくる。慌てて、背の低いハスの様なものの群生に飛び込んで避けた。
数メートル転がって起き上がり、全身に違和感。
「……? 痛い……? 痛い痛い痛い!」
あの植物に触れた全身に激しい、酸をかけられたかのような痛みが走る。あまりの痛みに赤く腫れた肌を擦るが、更に痛みが増して半狂乱になりながら声にならない声を叫ぶ。両腕、両足、首元、肌の晒していた部分全てに死んだ方がマシだと思う程、熱と痛みを感じて、痛みに慣れている思考はどこか冷静になりながら、この状況は不味いと思った。あまりの痛みに感電したように全身が痙攣して動けない。
「あらあら、本当に運が悪いのね。それ、自殺植物よ。飛び込んだ先が毒草の群生だなんて、想像したくないわ。死んだ方がマシね」
悶絶しながらも立ち上がるが、明確に死が足音を立てて近づいてきているのが聞こえる。死ぬわけにはいかない。私にはやるべき事があるんだ。こんなところで……だが、その奮い立たせた心をくじくように、震えるような羽音が響く。
「じゃあね。いい悲鳴だったわ」
二匹目の、巨大な蝉。いや、二匹どころではない。最初に見た赤い目の光は、全てこいつらの光なのか。天を覆い尽くす数十匹の蝉。悪魔のような羽音を響かせながら、その腹を震わせようとしている。
「趣味、悪すぎ……」
全身が破裂するような絶唱に、私は意識を手放した。
「ふふ、よし。まだ生きてる。こんなレアもの。殺すなんてもったいない。ペットにして毎日鳴かせてやる」
領域の風景や特性は、術者の心象に左右される。自殺植物や、標的を無力化するための蝉は、ギンピーギンピーの残虐さと悪辣さを鮮明に表していた。彼女は舌なめずりをしながら倒れてピクリとも動かないフィアの元へと向かう、弱者を甚振る強者故の慢心。あの痛みと衝撃では目が覚めても動けないとタカをくくっていた。フィアの身体に辿り着いたギンピーギンピーは倒れて動かないフィアの身体を蹴る。無防備にくの字に曲がるフィアを見て口角が上がる。戦闘は終わり、あとは甚振るだけ、ご褒美の時間だと確信していた。革で出来た赤い手袋は自殺植物の毒棘も通さない。フィアの衣服を剥ぎ取ろうとするが、上等な服を着ているのかなかなか破れない。
「私の奴隷が……こんな上等な服着ていいわけが無いでしょ!」
皇女から渡されたであろう衣服を思いっきり引きちぎる。若い女の柔肌を求めていたギンピーギンピーはフィアの背中を見て目を見開いた。
「なに……これ……」
鞭で打たれた傷どころでは無い。抉られたように削られた肉と溶かされた後のある表皮、一部だけ色の違う皮、目を覆うほどおぞましい大量の切り傷の後。自身の奴隷でさえ到底受けないような拷問の後に彼女は呆気に取られた。そして、それが勝負の分け目だった。
意識を持っていかれるその瞬間を待っていたフィアは、一瞬で彼女の背後に周り、その首に腕を回した。ギンピーギンピーは己と同じ体格の少女から生み出されているとは思えないほどの力に瞠目しながらも、領域生物に指示を出した。
ギンピーギンピーの細い首を腕全体で絞め落とす。使えるものは何でも使う。それが自分自身の忌々しい過去を晒すものであっても。それが、覚悟であった。
「がっ……あ、は……はな……せ!」
絶対に離さない。彼女は手足を振って暴れるが、ギチギチと音が鳴るほど締まった腕は逃がすことなく着実に死に向かわせている。毒草の痛みなどもはや感じない。あの時受けた屈辱に比べれば、この程度の痛みなど耐えられて当然なのだ。
彼女の身体から徐々に抵抗が失われる。締め付けた腕に更に力が篭もる。だが……今更、人を手にかける事に恐怖を覚えた。ダメだ、ここで逃がせば先生や皇女様に負担がかかる。この手を弛める訳にはいかない。
その逡巡。突然、私の首に刃が刺さった。背後から、虫の歯軋りが聞こえる。この意識の空白が、死というやつだろうか。今覚えても、それは遅かった。時間切れ……刺さったのは刃のような百足の牙で、腕が硬直した瞬間に、ギンピーギンピーが抜け出してしまった。
領域への帯域時間が増すほど、攻撃は苛烈になる。蝉は百足へと変化したのだ。さらに攻撃的な生物へと。百足は術者から殺すなと指示を受けているのか、私の首を切り飛ばすことなくそのまま樹木へと投げつけた。
「ああアアアアア! 痛い! 痛い痛い痛い痛い痛いィ!」
ギンピーギンピーの悲鳴が聞こえる、私の腕に刺さっていた毒草の棘が首に刺さったのだろう。叩きつけられた木がシルクに感じるほど柔らかな気持ちだった。
その気持ちをバネに立ち上がろうとするが右足が上手く動かない。投げつけられた衝撃で骨が折れたのか、膝が曲がらない。どうにか立ち上がるが、体のどこからも痛みは感じない。私はこの現象をよく知っている、死の二歩手前だ。首に手を当てながらもがき苦しむ女に声をかける。
「ねぇ、痛い? 何で私が痛くないか、分かる?」
「あぁ!? イカレ女が……気色の悪い、何笑ってんだ! ……お前っ」
「痛み止め、持ってるの。ほら、あげる」
私は領域に入ってから、ずっと握り締めていた左手の中身を投げる。放物線を描きながら飛んでいくのはただの石。と、もうひとつ。私が領域に呑まれる前に手を伸ばしたのは先生の手を掴むためじゃない。先生の空間を掴むため。圧縮した空間、必殺の殺人立方体。意図を理解した先生は、私にひとつ空間を渡してくれた。ギンピーギンピーにバレないように、手のひらだけ防御魔術を消して握りしめていたのだ。
投げられたそれは、見えないが、きっと石と同じ軌道を描いているだろう。その空間は受け取らなくてもいい、ただ、防御魔術に触れるだけで、起爆は完了する。
コロコロと、彼女の足元に石が転がった。
そして、世界はひっくり返る。
断絶が起こった。自らが赤い雷撃となりどこかに走っている。音もなくただ静かに決まった道を走っていると思えば、気まぐれに絶叫を齎す。それが、目の奥で走る微かな意識の連続体だと気づく同時に私はまだ死んでいない真実に気づいたのだ。
気を失っていた……爆風に吹き飛ばされて目が覚めた、気絶していたのは何分か何秒か。空を見ると、透き通るような青空が広がっていた。ダメだ……領域が解除されていない。まだしぶとくもあの女は生き残っている。
「動け……私の体、あと、少しだから」
とても歩けるような状態では無いが、痛みの無くなった身体に鞭を打って立ち上がる。足を引きずりながら爆心地を見てもそこには何も無い。対角線上には、百足の骸が、逆さになった葛籠のように積み重なっていた。起爆した瞬間に領域生物を呼び寄せて肉壁にしたのか、赤い手と言われるだけはあるようだ。
「おい」
声がした方を向くと、変わり果てたギンピーギンピーがこちらを見ていた。右半身に壊滅的なダメージを負っている、礫にやられたのか、血塗れで、皮の剥がれた顔面と上半身、極めつけは肘から先の無い腕。
「先生なら、いい面になったな。て言うかな」
「やってくれたなぁ……ふぅ……ふぅ、殺してやる……はぁ……お前も! お前の主人も、ユウメとかいう女も! ぶっ殺してやる、犯して、拷問して、皮をはいで、何十年もかけて殺してやる! 自分で死を選ぶまで、永遠に切り刻み続けてやる! はぁっ……死ねぇッ!」
フィアが返事をする前に、領域生物の波が彼女の身体を食い潰す。百足から進化した軍隊蟻は、小さな弾丸と化して、夥しい数で彼女を蹂躙する。彼女は身体を隅々まで蟻に覆われ、食われ、血を流しながら思う。ただただ寒い、血液と共に自身の今までが流れ出る。自分の血液に出来た海に沈む。光も奪われ、深海に沈んでいくように沈む。冬の海は寒い。
凍えるほど寒いのだ。だが、私の魂は、巡る真っ赤な血は、烈火のごとく燃えている。
ギンピーギンピーは彼女を刺激してしまった。彼女の中で眠る虎の尾を。何重にも重なった稲穂の実を。踏んでしまったのなら、あれらは起き上がるのだ。
魔術師が最も真理に近づく瞬間は
命を賭した其の一瞬。
私が戦う理由は、私のような女の子を増やさないため。少しでも、酷い目に会う子が減るように、戦い続ける。それは先生や皇女様も例外では無い。私には、まだ立ち上がる理由がある。
固有魔術の覚醒で雷撃のように迸る無限加速の思考が起こる。ギンピーギンピーの領域魔術には対領域障壁が設定されていない。これは闘技場で見せた私の実力から身体強化系の魔術だと読んでいたためだろう。領域の情報を書き換え、経過した帯域時間はそのままに、支配者をギンピーギンピーから私へと強制移行する。
波のように荒れ狂う軍隊蟻が、電源が切れたように急停止した。噛み付いていた肉を離し、自らの主人に牙を剥いていた事実を悔いて、領域の異物へと矛先を向ける。
私が領域にとっての異物では無くなったのだ。それと同時に領域の様相が変化する。暑く燦々と輝く太陽と、照らされた熱帯雨林が、どんどんと上方へ浮いて行く。そう錯覚した。私たちが沈んでいるのだ、光の届かない暗い海、冷たい深海へと。
「なっ……これは、領域の、乗っ取り!?」
ギンピーギンピーも領域の乗っ取りに気づいた。慌てて情報に応戦するが、対領域障壁は既に設定を完了している。今となれば、領域の異物はギンピーギンピー。領域生物は異物の排除を開始する。
「沈みましょう? 『深海少女』」
心象の海に赤い血の糸を引きながら、冷たく暗い深海で私は静かに呟いた。
目覚めた領域魔術は、死へのイメージか、はたまた故郷の一景か、深海へと沈み続ける心象風景を生み出した。あっという間に見えなくなった青い空を見上げながら、フィアは沈み続ける。この領域に心象生物は存在しない、あの軍隊蟻も、沈むうちにいつの間にか消えていった。深海において、異物の排除は生物の役目ではなく、それは積み重なった水、自然の圧倒的なパワー、水圧によって行われる。
ギンピーギンピーの領域、熱帯雨林では帯域時間によって生物が攻撃的に進化していた。この深海でもそれは適応され、時間が経てば経つほど、深く、深くに沈んで行き、異物に対して水圧が増していく。
軍隊蟻程の攻撃的な生物は領域にとっての必殺。つまり、帯域時間を引き継いだ深海は、人体にとって必殺の水圧まで一瞬で沈むことになる。
ギンピーギンピーは、一言も遺すことを許されずに圧殺された。象に潰された蟻のように、気づけば、浮かぶ赤い玉と化していた。
フィアはそれに一瞥も向けなかった。彼女の存在すら気にもとめなかった。沈み続ける、今はただ、この冷たい海が心地良い。魔力で再現された深海に冷たさはない。フィアは自身から流れる血液に奪われ、下がる体温に気づいていなかった。死のイメージと同化した状況のために、意識が発する危険信号に気づけなかったのだ。
死神の足音に身を任せ、そのままフィアはゆっくりと目を閉じた。
「ごほっ……はっ……ぇ、ごほっ」
呼吸が止まっていた、死の一歩前、いや、片足突っ込んでいた。ここまで黄泉と現世を行ったり来たりすれば、体も慣れてきてしまう。酸素を取り込んだ脳が思考を再開し、ここが雨の降る夜、街路であることを理解する。地上だ、領域じゃない。魔力供給が絶たれた領域から弾き出されたのか、その衝撃で息を吹き返したようだ。あのまま、沈んでいたら、死んでいた。冷たい事実に悪寒を感じる、溢れた涙が雨と共に流れた。
泣いてる場合じゃない……どうにか体を起こして先生の姿をさが……
「ギンピーギンピーは死んだか」
赤い手の男の背後に、血の海に倒れ伏した先生が見えた。
 




