第17話 憶奪の彗術師
胡散臭い街だ。活気に溢れた表通りの裏には、快楽とその代償を与える紫煙と、その出処であるパチパチと火花を散らしながら燃える。前時代的な松明が所狭しと並んでいる。空に目隠しをかけたような薄暗さとはまた違う、陰鬱さを孕んだ裏通りには、蝿の集った浮浪者がボロ切れのような家の前で雑魚寝している。骨の浮いた少年が、蜥蜴のような顔をしたゴロツキに殴られ、倒れたままピクリとも動かなくなった。
大きな光には必ずそれに伴った影ができる。それが世界のバランスであり、エントロピーの証明。秩序を保つ潜在。ここは、あの太陽に照らされた大通りの影なのだ。
紫煙の独特な甘ったるい匂いと、スラムの、浮浪者の腐った肉の体臭とドブ水のような匂いが混じり合ったものにサージェは眉を寄せた。胡散臭い街。帝国にこんな場所は無い、我が故郷には大いなる光も深淵の闇もない、全てが統一され公正なのだ。だからこそ、こんな場所に自らを連れる隊長代理の正気を疑った。彼女の歩は緩まない、スリを狙う子供を躱し、物乞いの掴む手を払い、人の波をなんともなしに泳ぎながら向かった先には、こじんまりとしたテントがあった。よくある大道芸人集が使っているテントを数人用に小さくしたものだ。継ぎ接ぎの長屋を断ち切るようにポツンと存在する黒いテントは、この異常な場所でありながら一際放たれる異彩から恐れられているのか、人の波はそれを避けるように流れている。
彼女は躊躇なくテントの入口に手をかけた。彼には少し忌避感があったが、外で物乞いの相手をするよりマシかと思い直し、彼もまたその入口という名の布を捲った。
「久しぶり、エコール」
布を捲った先は時間がズレたようにも認識させる、別世界だった。そう錯覚させるほどの有様なのだ。角張ったテントだったはずだが、どういう訳か中はドーム状で、天井には星屑のような光さえ見れる。更に、その星屑が昼と夜を繰り返すように線を引きながら動いているのだ。ドームの円壁に沿うように並べられた木偶のような物体が、鳴子のように来客を知らせ、喧しく鳴っている。紫煙のような匂いは微かにしたが、それも直ぐに消え、それがまた別世界であることを強調するように思えた。
「おやおや、カフェじゃないか。元気だったかい」
老婆のように見える。チェス盤のような木目のテーブルを前にして座る老婆。黒一色のローブを纏っていて姿見が分からない。枝のように乾いた手と、孫娘に声をかけるような嗄れているがどこか無差別に温かみのある声が老婆だという証明だった。
「元気じゃないことくらい知ってるでしょう、帝国はてんやわんやですよ。こちらは……」
代理隊長がサージェを紹介しようと手を向けたが、エコールと呼ばれた老婆は遮るように喋り出す。
「いいよ、初めまして。サージェ。お前は元気かい」
彼はカフェに目を向けた。だが、彼女は苦く笑って頭をふった。このエコールという老婆とは初対面であり、サージェという個人名を知るはずはなかった。その権利を持っているはずもなかったのだ。
「失礼。どこかでお会いしましたか……改めて自己紹介を――」
「このエコール・ミリテルの前でそれは必要ない。全ては星の廻りが廻っているのだからね」
「それは、どういう」
「帝国序列“五位”サージェ。光魔術の使い手は総じてつまらない、概要みたいでね」
彼は眼鏡を外した。これは、彼がユウメと殴り合いをするために変異したクセであり、それが表に出るのは決まってどうカタをつけるか考える時であったのだ。彼は考える。――帝国序列は一般公表されている。魔術という人類の特恵を開拓する者の権威を示す目的からだ。調べれば彼の顔と名前は分かるだろう。だが、魔術を知っているのは、話が別になる。女帝、スレイブ元隊長、カフェ代理隊長。知っているのはこの人物だけでなくてはならない。代理隊長は話していないだろう、この情報の重要性は十分に知っているし、何よりそんな人物では無い。兵器の情報が筒抜けになるようなものだ、機密の漏洩、処分の対象だ。老婆が代理隊長と親密でありながら、堂々とあけすけに話すのは自身の能力に自信があるからに他ならない。だからこそ、尚更、このエコールという老婆が不気味だ。老婆の顔面はローブで隠れているが、脳裏に浮かぶ、濁った眼球のイメージがこちらを隅々まで見据えられている気がしてならないのだ。
「年功を敬ったが、その必要は無いようだな。貴様にも光魔術を教育してやろう。それが必要だ」
「サージェ、ここは私の顔を立ててくれると嬉しいよ。その機会はまた別にあるからさ」
エコールの対面に、チェス盤を挟んで代理隊長が座る。
「先に、紹介すべきだったわね。彼女、エコール・ミリテルは私の先生であり巷で憶奪の彗術師と呼ばれる凄腕の占い師、正確には予測士。今まで外したとこは見たことはない。あなたの魔術を言い当てたのがその証拠。外さないことの証明にはならないけれど」
「それで元隊長の居場所を探ろうと? 些か軽率であるように思えますが」
しかし、光魔術を当てられたのは事実だ。たが、万が一、代理隊長が情報を零したというのもありえない話では無い。師と仰ぐのならなおさらだ。
「「たかだか占いが」」
自然と口を噤んだ。エコールは彼の言葉を先読みした。
「何故、占い師では無く予測士なのか。私が彗術師と呼ばれるのは星を読んでいるからさ、天に廻る星を」
「……ここには偽りの星しかないようだが」
「事象を解析しなさい。雨とはただ一文字で大地からの蒸発した水分が空で徒党を組み雲になり、成長して水になり、降ることを一文字で表したものだ。世界とはつまりそれだ、粒子の絡まり、事象の連なりにすぎない。人が簡単に表す物の更に深くが連なって出来ている。ならばこそ、星を解析するのだ。星の中には星があり、それもまた星で出来ている。その連なりの根源を知れば、自然と全てが分かる」
「星……これは比喩か? 実在するものなのか? 」
「蟻も人の涙が雨に見えただろうね」
「蟻……私が蟻だとしたら、この空間は小さな星に見えたか。……もっと小さく考えれば原子の上に立つ私は他の原子が星に見えたかもしれん。事象の連なり、その根源とは全粒子の動きのことか? それを知ると? 夢物語だな。不可能だ」
「それは『ラプラスの悪魔』と呼ばれていた。それは不可能だ。この星の廻りに動かされる無作為の星を見て、更に見て、更に更に、と繰り返せば永劫に続く計算に私の脳は壊れ、その規則性が無いことが規則だと知り、無意味だと星に慟哭するだろう。もっと杜撰で、簡単な方法がある。注視するのだ。ひとつの星を、たったこれだけでいい。だから、私は予測士に過ぎないのさ」
「計算を絞るということか。そして、確実では無いが、確実に近い未来を知る。それで予測士か。朝刊の天気予報とやっていることは変わらんな。ひとつ気になる……最初に言ったのは何だ、ラプラスの悪魔、造語か?」
「いや実際にあった。言語が統一される前に、使われていた言葉さね……」
「言語の統一? 何を言っている?」
エコールはカフェを一瞥して「喋り過ぎた」と言って、それっきり私の質問に対して固く口を噤んだ。カフェの方を見ても、老婆を見て薄く微笑んでいるだけだった。
言語の統一とは何だ。彼はそもそもの概念が理解出来なかった。なぜならば、言語はバラバラに存在するものではない。全ての人類が同じ言葉を話すのだから。
「エコールのやり方は分かったでしょう。でも、その予測もタダでとは言わない。賭けをする必要がある」
「……そうだね。正確な予測は時として過去の予測に影響を及ぼす。未来を知っている人間が増えることが星の廻りがイカれる原因になるからね。生半可にポンポン教える訳には行かないのさ。だからこその、勝負と代償。私に勝てば予測を教える。負ければ、記憶を貰う」
「なるほど、記憶を奪うから憶奪。天気予報と記憶では割に合わんな」
「問題ないわ。私が挑むもの。ただ、知りたいことがあるならサージェも挑んでみたらいいと思うわ。なかなか面白いわよ」
「そもそも、勝負とは? 何をやるのです」
「何でもある。チェスでもトランプでもじゃんけんでも……この盤上でできるならね。ただ、それだけじゃない。私は予測の力を存分に使わせてもらう」
「未来を読めるのでは勝負の意味が無いだろう」
「疑っていたクセに日和るのかい? 私もそれだと面白くないからね。読むのは思考だけだよ」
サージェは口を覆う。驚愕は制御することが不能であるから驚愕なのだ。――彼女達はチェス盤に駒を並べ始める。もう、既に彼女が来ることを知っていたからチェス盤を置いていたのか。超常の魔術は時として末恐ろしいものを感じるものだ、と思ったが。エコールは防御魔術を展開していない。ここに私という見知らぬ魔術師がいるのにだ。いや、よく見ると本人に魔力の欠片も確認出来ない……まさか、技術なのか、その膨大な計算は。光魔術を言い当てたのもチェス盤を用意していたのも手品では無いとしたら、この駒を並べる老婆は何者なんだ。
そして、思考を読まれるチェス。それは、自身の予測する手と老婆の予測する手を足して、更に思考しなければならないチェス。無限階の思考は彼女達の頭の中で四次元的に広がるだろう。人間業では無い。そのレベルの勝負で負ければ、白痴。この状況で悠々と駒を並べるカフェにも得体の知れない恐怖を感じていた。
「すぐ終わらせるから、外に出ていてくれるかしら。集中したいの」
「……了解しました」
外に出ると、喧騒と悪臭が戻ってきた。最初はテントの中の方がマシかと思っていたが、浮浪者の相手の方が気が楽そうだ。見上げた空は、紫煙で薄暗く濁っていたが、晴れているように見えた。
『すぐ終わらせる』その言葉に嘘偽りはなく、ゴロツキに殴られた少年が意識を取り戻す前にテントの布は捲られた。
「終わったよサージェ。居場所が分かった。いつでも行けるけど、どうする? 挑む?」
既に心は決まっていた。
「えぇ、すぐに終わらせます」
私の魔術がつまらないと言った老婆には教育を施さなければならない。




