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第15話 雨と箱

 皇女として、医者として。私はユウメの心を診断できる。人を殺すことへの躊躇が動物を獣人として殺すときに全く見られないこと。心が読めないこと。きっと彼女は心が動いていない。周囲の真似事をして、感情を持っているふりをしている。彼女が見ているのは記号だ。殺人は強い忌避感と罪悪感が生じるが馴れた一部の軍人ならば無視できる。特務ならば尚更で、動物も顔色を変えずに殺すだろう。彼女もそれなのなら、なぜ、人を殺すことに躊躇を見せるのだろうか。つまるところ、人を殺すという「記号」を見て彼女は躊躇し、動物を殺すという「記号」を見て彼女は躊躇しない。人が人の形を殺すことに大きく躊躇していると彼女は勘違いしているのだろう。心が無いから、彼女自身には分からないのだ。

私は、彼女の心が空間に囲まれているようだと思った。なめらかな空っぽの空間で、注ぎ込まれる感情の通路はその空間によって麻酔されている。彼女の心は中身に何も無い。積もることもない。空が無い。彼女は機械的に生存有利を選び続けているだけで、それ故に、彼女の心は機能していない。心が読めない理由もそれで説明できる。戦いすぎて物理的に脳が壊れたのかもしれないし、生まれた時からそうなのかもしれない。空っぽの箱庭と色彩の詰まった箱庭が共感し合えるはずが無いのだ。空っぽは、空っぽどうしでしか。


 カッツィは聞き耳を立てていた。猫には、複雑な重なり合った音から欲しい音を選別する力がある。ユウメとズグロの会話を離れた馬車内から盗み聞くなど些事であった。


 我々は切羽詰まっている。ユウメの壊れかけの箱が薪の炎で焼き尽くされ跡形も無くなってしまう。そうなれば、傍に置く人間として物理的にも政治的にも危険すぎる。


「というわけで、作戦会議よ。カッツィ」


「どういうわけか知りませんが」


 ズグロの最悪のコンタクトから翌日、私はカッツィをホテルの一室に閉じ込めて治療の計画を立てようとしている。休息を与えたユウメは自分のことをやっているだろう。まずは、私たちの状況をしっかり把握しなければならない。


「まずは状況を確認しましょう」


「何の話をしているんですか」


 事件の発端は、帝都で起きた事件だ。特務機関隊長のスレイブ・エクテレウが、隊員であり実の娘であるリサ・エクテレウを殺害した。リサはユウメにとって姉同然の存在であり、父的な存在が犯人となれば、心身的なショックは計り知れないだろう。普通であれば。


「ユウメは恨みの感情を持っていると思っていたけど、あれは恨みというより道にあるゴミを端に寄せるような感情に近いのかも。麻酔された皮膚を切られたら、何も感じないまま不快であるように。外部からの圧力をプリミティブな不快として受け取り、不快の正体を知ろうとしている」


「ユウメさんの話ですか?」


 喜びも悲しみも、周囲の人間と同じ反応を示せばある程度は取り繕える。無意識に、周りとの反応の差異を埋めていったのだろう。誰もがすることだ。だから、彼女がやっていることは全て人間観察の統計で、自分の存在を実感せず、鏡のように存在する罪を自覚できない。


 彼女の肉の塊を内側からゆっくりと指圧する何かが、彼女には分からない。姉の仇を取るという統計的に多くの人間が選ぶであろう選択をし、不快に燻る何かを燃やし尽くすことで、自己の存在証明をしようとしている。


「姫様はユウメさんのことが好きなんですか?」


 ズグロはこの名前の無い不快とやらで勝手に通じ合い、迷子の子供を連れ去ろうとしている。ただ、気になることはある。ズグロは何故、私ではなくユウメを気にかけているのか。私を攫うことが目的ではないのか。危険を冒してまで伝えることだったのか。


「姫様はユウメさんのことが好きなんですか?」


「……困っている人がいるなら助けるのは当然でしょう」


「姫様はユウメさんのことが好きなんですよね」


「……」


「ワタクシは好きですよ」


「えっ!?」


「友人として」


 私は帝国の皇女であるが、猫には関係が無いらしい。私はもちろん、ユウメが好きだ。友人として。思考が覗けないのは不思議だ、興味がある。じっと見つめていると不思議そうにするのは悪くない。性格は難があるが、努力家なところは良い。あの暗く染まった瞳も、彼女のなびく髪も、仕草も、自然と目に入る。


「姫様はユウメさんをどうしたいのでしょうか」


 だが、それは関係ない。私が助ける対象が虫であろうと犬であろうと猫であろうと、やるべきと思ったことをやるだけだ。


「助けたい」


 最初はただ思考が気になって護衛について来てもらっただけだが、私の中で彼女は護衛ではなく、患者となった。ユウメに入れ込んでいると言われれば、私は否定することは出来ないだろう。


「そうでしょう。こういうのは詳しくないので、獣人であるワタクシは大人しく単純な答えを出します。あなたが薪になれば良いのです。釘を打ち据えられたというのならば、あなたがそれを抜いて、傷を埋めてあげればいい」


「全然単純じゃない、比喩的よ。どういうこと?」


「姫様がユウメさんにとっての無視出来ない存在になるのです。要はユウメさんが姫様にゾッコンになれば勝ちです」


「なるほど。猫だけあって楽観的ね。私が意外と内向的であることが考慮されていない」


「そこは、私が補助いたします。忠誠に誓って」


「……その忠誠に賭けるわ」


 そうとなれば作戦会議だ。決心が固まった私に隙はなく、とても有意義な時間になった。



 ペラペラと本をめくる音だけが聞こえる。『寄生虫』『人間』『魔力生物』『洗脳』どの資料を見てもクリュサオルとやらに繋がる情報は無い。王都の図書館は規模も大きく、百五十万の蔵書を誇るというのに。やはり、完全な新種か、進化か。もしくは、秘匿されていたのか。


 ズグロもあれ以降消息が掴めず、代理隊長からも連絡は無い。残された手は、王都でのリサの足取りを掴むぐらいだ。


 今日は、イムから好きにしていいと言われている。休みということだろうか、護衛に休みがあるとは思わなかった。何か行動しないと落ち着かず、念の為本拠地からなるべく離れずに資料を漁りに来た。有意義な情報は得られず、休日を無駄にしただけみたいだ。陽もそろそろ落ちてくるから帰ることにした。


 ズグロの言っていた赤い手と呼ばれる集団は知っている。彼らはかつてこの世の全ての場所で猛威を奮っていた、暗殺、暗殺だけだ。暗殺する集団が『有名』になるほどだ。だが、私の母であるカルラカーナが殺された事件に絡んでいたとして、当時の特務機関が殲滅した。


 なかなか手こずった様だが、特務機関の任務に失敗という概念は無い。赤い手は完膚なきまでに叩き潰された。はずだ。だが、ズグロの警告通りに、赤い手の亡霊が私たちを狙っているのだとしたら。厄介なことになるだろう。まぁ、構わない。


「ユウメ」


 気づけばホテルまで戻って来ている。自室の部屋のドアノブに手を掛けると横から私を呼ぶ声が聞こえた。


「どうしたの、イム」


「一緒に夕食でもどうかなと思って。美味しいお店知っているのよ。最近疲れているみたいだし、一緒にどう」


「そんなことないけど……うん、分かった」


 彼女は、貴族であることを隠そうともしないドレスだった。そういう雰囲気の店に行くということだろう。


 私も入学用に相応しい礼服を持ってきてはいる。だが、護衛としていつもの軍服で行くべきだろうか、一応アレも変な目では見られないはずだ。


「一応言っとくけど、軍服はダメだからね」


「えっ、なんで」


「真っ先に仮想敵国に上げられる帝国の軍服、しかも珍しい特務のやつ着て、まともに相手されるわけないでしょ」


 そうか、そういう配慮もしなくてはいけないのか。他国の貴族、要人に対しては、軍人として慎重に動かなければならない。これから入学となると、そういう相手も多くなってくる。一々こんなことまで考えるとはなかなか面倒。


「はい、じゃあ部屋に入って、着替えて!」


「うわわ、押さないでよ」


 私の部屋にはカッツィがドレスを用意して待っていた。相変わらず表情の見えない顔で、もみくちゃにされながら普段着を剥ぎ取られ、気づけば姿見に写る私は令嬢のような雰囲気を纏わされていた。


 黒を基調として、名前の知らない金と白の花が大きく描かれている。空気の通りの良いドレスで、足にスリットが入っているため動きにくさはあまり感じない。


「おぉ。良い。かわいい」


「ありがとう。……ジロジロ見ないでよ。そういう趣味なの」


 ドレスのスリットは腰下から足元までを大胆に露出させている。日頃露出することは無い場所なので、肌に風が当たって神経が過敏になったようにも感じる。視線にも敏感になったのか、イムがジロジロと見ていることに気づいたので指摘すると、勢い良く視線を逸らした。


「姫様は具体的な美しいものが好きですからね」


「ちょっと! うるさいよ!」


「そうなの、イム? はは。行こう。おいしいお店、知ってるんでしょ」


 イムは困ったように頬に手を当てると、私の手を引っ張った。


 ドレスを用意してもらったことに、心底感謝する。店内で談笑する紳士淑女たちは、顔には真の笑顔で、その目は自身の位に対する自尊心が煌びやかな金細工の蝋燭照明みたいにギラギラと輝いている。軍服は、ちょっと似合わないだろう。


 イムの紹介ともあって、食事は装飾的でありながらも味がいい。だが、何故彼女は王都の店を知っているのだろうか。聞いてもはぐらかされた。


「で、何の用なの、イム」

 

 食事がひと段落ついたところで、私は匙を置きながら呟いた。他の客との間隔は広く、見通しのいい窓際で食事に集中出来る。だけれど、何となく雰囲気がそうさせなかった。商談のような、面接のような、妙に厳かなのである。いや、正しく彼女にとっての商談なのかもしれない。


 彼女は健康的でありながら美しい、白魚のような手で匙を置いた。再び顔を上げた彼女に少女の面影はなく、皇女としての風格が見える。


「ズグロの話は全部聞いてた。ユウメは、どう思ったの」


「無念を晴らす。ただそれだけ」


 心を読めば分かるはずだ。わざわざ、高い服を着せて、高い食事を用意して、ご機嫌を取ってやりたかったことが、頭を読めば分かることを『わざわざ』口に出させること。一緒に食べた飯が味気なく感じ始める。私の背もたれの軋む音がした。なぜその音を聞いたのかは分からない。


「それが例え私を殺すことになっても」


「……イムは関係ない」


「否定しなかったわね」


 そうだ。関係ない。イムグリーネを、帝国の皇女を殺してでも……恨みを晴らす。私はもう一度あの機会を逃さない。もう一度、あの観覧席に立ったら、私は撃つ。


「全く、呆れたわ。貴女の姉と弟、それと、母君と父君は何を教育したのかしら」


 もう一度私の椅子の音が鳴った。今度は、私が前のめりになったから。


「それ以上続けたらーー」


「続けたら? 何? 帝国第二皇女の私に何をしようって言うのかしら。言ってみなさいよ」


 私が思いのままにテーブルを強く叩いて立ち上がる。だが、この時には既に術中だった。音が無い。叩いた音も、椅子の音も、食器が揺れる音も。声にいたっては、口が上手く動いているのかどうかも分からないのである。


「ほら、言えないじゃない。覚悟も意志も、全く、いや、その土台すらないのよ。でも、その話の前に、あなたの後ろの人達に話をつけた方がいいんじゃない」


 冷たい霞が首元に漂い、撫で付ける、それは殺意であり、ある意味、愛であった。撫で付ける冷気は骨であり、肉であり、赤い手だった。


「動けない? じゃあ、私が動かしてあげる」


 彼女は私の頤を人差し指で垂れる雫を拭うかのようにそっと上にあげた。そして、ゆっくりと私の首を誘導するのだ。


「……! ……!」


 リサだった。カルラカーナだった。死んでいった人間たちだ。犬もいる、猫もいる。その上を這い回る虫もいる。何もかもがいて、何もかもがいなかった。だが、それら何もかもは壁に阻まれているのだ。空間に、空間の壁に擦り付き、私を求めている。


「逃げないで」


 私はイムに縋りついていた。金を無心する乞食のように、光に弄ばれる蛾のように。しかし、そのどれもより酷い。


「受け入れるのよ。……無理じゃないわ」


 逃げ道を探して天井を見ればそこは虚無だった。何も無いよりも恐ろしい虚無がそこにある。あそこは死人がいる場所よりも恐ろしい。私がおかしいと知られてしまった現実だ。


「いい? 罪を知りなさい。そして自らを自覚するの。殺すということは命を奪うということよ。消すでも壊すでもない。奪ったものは、自分の手の内にある。あなたがあれらの命を持っているの」


 でも、私はリサもカルラカーナも殺してない。


「殺したと思っているんでしょう。『私が弱いから死んだ』『私の力が足りないから死んだ』。そうでしょう?」


 ――そうだ…………。でも、ここは寒い。逃げたい。


「受け入れなさい。罪を認めるとか、そんな人間社会上の話では無いわ。その存在を知覚し、背負って生きなさい。奪った命を自覚するの。あなたはずっと、先天的に自分の存在を正しく自覚できていないから、模範的な行動として殺しをしていた。自分こそが生きる理由を持ちなさい。そして、それを罪であるとも受け入れなさい。そうすれば、もっと強くなる」


 強くなる。自分に誓った、護るために強くなるって。それは嘘だったのか。いや違う。断じて違う。誰かを失いたくないから、失ったら、内側から何かに強く押されるのが怖くて、自分がおかしな存在だと知られてしまうのが怖くて。そうだ、嫌だ。私が嫌だと思うからやった。私が殺した。


「私がいる。私ならあなたを受け止められる」


 この壁を消す。そうしなければならない。だが、それは出来ない。私のものでは無いのだ。私のものなら、自分の意志で消すことが出来るはずだ。これは私のものでは無い。


「私が力を貸してあげる」


 イムの防御魔術が私の脳に触れる。


「ユウメは、どう思ったの」


 私は匙を持っていた。そして、それを置く。何も変わっていない。私は椅子に座っているし、空いた食器は整然と並んでいる。辺りには空間も亡霊もない、もちろん、イムも座っている。ひとつだけ変わっていないものは、花の咲いたような紫色の瞳だった。


「……護るために、強くなるから、アイツの言うことは関係ない」


「そうね。よく打ち勝ったわ。ユウメ・エクテレウ」


「あれはなに?」


 私はいつの間にか大粒の涙を零して、泣いていた。なんというか、上手く言えないが胸がつーんとなる感じだ。こんなのは初めてだ。不快ではあるが、爽快感が伴っている。そして、零れる涙を追ってこの姿をイムに見られたくないと感じた。これは分かる。恥ずかしいのだ。


「ごめんなさい。全て幻覚。腫瘍みたいに脳にあった空間を消すために、少し麻酔をしたの。私の想像よ。ここにはご飯以外何も無い。よく頑張ったわね。よしよし」


  彼女はいつの間にか私の横にいた。そして、背中をさする。


「あのままだと死んじゃうかと思っていたの、ユウメが。何の目的か見失って戦うだなんて、首を縄にかけるのと一緒でしょう」


「なんで……そんなこと分かるの」


「私が、そうなったからよ」


  彼女の紫の瞳には、目を見開く私の姿が映った。


「私の魔術の話、知ってるんでしょ。私ね、一時期、全部が嫌になったことがあって、消そうと思った」


「何を」


「心の汚い人間を、全員。私には力があって、その力に救われた人間もいた。フィアとか、チャーリーとか。でも……消していくうちに、何だか楽しくなってきちゃって、異常だと思う? 私の魔術で焼ける『汚れた』人間の悲鳴を、心地よく感じていた。汚い人間を減らすことが目的か、殺すことが目的か分からなくなった」


 言葉に詰まった。それが異常だと、一瞬気づけなかった。彼女の言う通りだ。私もそれに近づいている。彼女が人間の本心に傷つけられ、心の汚い人間を消すという大義名分に縋ったように。


「まぁ、いろいろあって、やめたけど。でも、意外と耳に残るの、人の悲鳴って。滑稽だと思わない。自分で始末しておきながら、始末した人間の悲鳴が忘れられないの。夜眠っていてもその声に起こされたことは何度もある。結構、辛いんだから。自業自得だけどね」


 彼女は優しかった。姉みたいに優しい。


「だから、ユウメ。お願い。私を護って」


 その言葉は、内実は逆だった。彼女は護られる必要の無いぐらい強く、彼女の『護って』と言う言葉は『護られて』と同義だ。


「失礼します、あちらのお客様からです」


 突然、ウェイターが爽やかな色をしたワインを持ってきた。イムはウェイターに不審の目を向ける。どうやら、これは失礼なことらしい。私が視線を向けた方向を見ても、一人の紳士が背を向けて食事をしているだけだ。気をつかってくれたのだろうか、その背に礼をしてグラスを持つと、その下に小さく折りたたまれた紙がある。それを広げると、インクで『ダニとノミ』と書かれていた。


 特務機関の符号である。意味は『狙われている』

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