第99話 愚者の行進
キルゾーンが息を吹き返す前に駆け抜け、どこまでも続くように見える灰色の大地を、この方角が帝都の方であれと祈りながら走り続けた。あの銃とよばれる技術の轟きが届いてくる度に、わたしは何度も何度も振り返った。
ヴァルターは死なない。そう理解していても、あの小さいけれど、記憶にこびりつく煙の臭いと共に発生するあの音を、次も、その次も求め続けた。彼の生存記録は刻まれ続け、そしてわたしが前に進む度小さくなっていく。
わたしがここで足を止めれば、同じ音量で知らせ続けてくれるだろうか。濁る視界を晴らそうと目を擦ると、左目が全く見えなくなった。腕に揺らされた茶色の髪がわたしに付き従う理由を忘れてしまったように抜け落ちる。
わたしの身体はもう。続きの髪の毛を編むことすら満足にできないのだ。だから、止まることは出来ない。もう、進み続けるしかない。わたしは死に向かっている。この銃声のあるなしに関わらず、わたしは、残りの人生を生きるために死に向かわなければならない。まるで、人生の縮図だ。それが、ここまで痛く苦しく、そして寂しいものだとは、知らなかった。そして、たったひとつの喜びに全てを賭けることが幸福であることも知らなかった。イムが、教えてくれた。だから、一生懸命、生きる。
背後から圧縮爆弾でも聞いたことがないほどの爆音がわたしの背を叩いた。空間が剥がれていたことに気づき、咄嗟に展開して飛んできた衝撃を受け流す。振り向いた汚染地域にあったのは、灰色の大地がそのまま盛り上がったような、巨大なきのこのような雲だった。
胸の芯から体の力が抜けるようなこの感覚は得意では無い。こんな時に、こんな感傷的になるべきではない。足を止める理由を作ってはならない。
わたしはそのきのこ雲を無視し、聞こえなくなった銃声を探すような真似はせずに、ただただ歩く。引き摺るような足音を自覚する度につよくつよく踏み込んだ。次第に風の音は耳に入らなくなり、心臓の音だけがわたしを鳴らした。その音は、何かから離れることもないのに、わたしから雫が零れるたびに段々と小さくなっている気がした。
鉄条が見える。その先の帝国の草原も。山が全くない、地平線まで続く、冬に色を奪われた小麦色の草原が。そこに白い倉庫のような建物があれば、それは帝国側の管理局で間違いないだろう。これが死後に見る景色ではないことを祈りながら更に歩を進める。除染は、もういいだろう。意味がない。
ここからは、飲まず食わずで昼も夜も進み続ける。理由は二つある。ひとつは、止まる暇はないという事だ。帝都に着けばイムが助かるというのは、幻想だ。そうであってほしいという幻想だ。本当はクリュサオルのことなんか何も分かってないかもしれないし、もう滅びているかもしれない。だから、もしも絶望しかなかったときのために早く着いて、早く代案を探さなければならない。
もうひとつは、食料も水も無いこと。わたしはもう、どちらを摂取しても同じものを吐き出すだろうから、防護服を失ったイムの分だ。管理局に助けを乞うてもいいだろうが、事情を話して「分かったすぐに帝都に向かえ」とはならないだろう。それに、汚染されたわたしには、この空間越しでしかイムと接触することは許されず、水を飲ませる手段が無い。だから、とにかく早く帝都に到着し、女帝にイムを預けて、離れた場所で空間を解かなければならない。イムの顔だって見たいけど、それはダメだ。
心が折れないかどうかの心配なんかしていない。もうここまできて折れることは無いだろうし、どこか、あっけらかんとした自分を自覚している。
『完璧な文章など存在しないように、完璧な絶望など存在しない』
責任者がわたし達に伝えた。どこかの時代の作家の言葉が、わたしに相対的な希望を与えていた。完璧な絶望など無い。まだ、イムが生きていること、わたしが生きていることがその言葉に実感を持たせ、追い風になってわたしを押した。
もう、腕の感覚は無い。何の識別情報の無い無垢の箱の重さは、腕では感じ取れない。足腰を押す重さが、この箱の中にあるものがイムであることを訴え続けているが、わたしの足の神経が死ねばそれも届かなくなる。足がまだ生きていることは幸運なことだ。イムを亀の甲羅のように背負って這い続けるようになれば、速度が落ちてしまう。
死ぬつもりは無くても身体は少しづつ死んでいく。身体中の骨が全て突然異物と判定されたのか、全身を神経痛の冷たい痛みが襲っている。皮膚はもう何も感じないが、それはいつの間にか剥脱しても分からないということで、腕と共に突然機能不全に陥ってもおかしくない。
いっそのこと何も感じなければ楽になれるだろうが、それではしっかり歩けるか不安だ。足の感覚が無い状態で歩き続けなければならないことなんてなったことが無いので分からない。顎を殴られて平衡感覚を失った時を想像するが、その状態で歩こうだなんて思う事ではない。
だから、早く早く歩かなければならない。こうやって物事を考えていれば、いつの間にか無意識に鉄条を消し飛ばし、管理局はわたしの背中を遠くから見ていた。
コンクリートとモルタルが彩る大地は段々と砂浜に似た色の乾燥した土が降り積もるようになり、更に進むと徐々に湿気を帯びた色が強く、そしてときたま小さな緑が見えるようになってくる。モノクロの写真の世界に閉じ込められれば、心もいつかモノクロになっていくのかもしれない。飢餓の少年が水をごくごく飲み下し、無味のそれが感動を齎すように、白黒のわたしにはその緑は水だった。
顔を上げれば、もう、灰色は無い。緑と黄金だ。管理局まで続く轍を挟んで永遠の緑と太陽が渡した光を搦めとって輝く黄金の枯れ尾花が心を、目を潤した。
この轍を進み続ければ、いつか人間がいる場所に向かうための道に合流し、二つの街を通り、帝都が見えてくる。あと、少しだ。
喉が痛い。息をするのが苦痛なほどだ。何度も何度も飲み下した血液が湿潤と乾燥を繰り返し、喉と食道を傷つけているのかもしれない。息をする度に激痛が走り、血を嚥下しようとすると痛みで吐き出してしまう。咳き込めば体内で棘付きの球が暴れ回っているような痛みが襲い、心臓が一際跳ねたかと思うと、左顔部が爆発した。そんな勘違いが生まれるほどの衝撃に叩かれて、歩行を止めないまま壊れた平衡感覚と共に揺らめくと左耳から微かな高音が聞こえ、数秒後には何も聞こえなくなった。
どうやら、左半身が深刻なようだ。体の外も中も左からやられていっている。いま自分がどんな見た目なのか見当もつかないが、もしかしたら左半身だけ皮が無いのかもしれない。そんなことも想定できるほど、左半身から安心できる情報は渡ってきていない。
だが、丁度いい。洞窟に生きる者の目が退化するのは、目を作り、運用するエネルギーを他に回せるからだ。洞窟の中でも腕の無い個体、足の無い個体、耳の無い個体、目の無い個体、逆に腕の多い個体、足の多い個体……等いろいろ突然変異を経て生まれるらしいが、暗闇で目が意味を持たないからこそ、目を捨てた個体がエネルギーを有効活用し、繁栄する。
わたしの身体は突然変異しているとも言える。歩くために。計らずも、いや、無意識的に計っているのかもしれないが、進み続ける意志に従って肉体が変容している。前に進み続けることを選択するには、何かを捨てなくてはならない。リサが言っていた、運動の第三法則。
ズグロはある意味正しかった。彼は強さの為に全てを燃やせと言った。それは、生物が辿ってきた結果にもっとも近い思想だろう。闘争と競争のための戦争で、どう生き残るかのアンサーだ。
だが、わたしはそうはならなかった。わたしが世界と運命へ向けたアンサーは、ただ好きな人と一緒にいたというものだ。長く永く生き残り、思い人を長く生かすだけの何も産まず歩いただけの話。
進化が起こす競争に、仕組まれた機械仕掛けに、わたしはヴァルターがよくやるように中指を向けてやった。してやったり、といった気分だ。
足から力が抜けそうになったが、気合で耐えた。まだ、半日歩いた程度だ。まだ足には頑張ってもらう。辺りはもう夜の帳が降りているし、人が生きている形跡もない。草原は続いているし、ずっと異世界の轍を歩いているようだ。
空間を動かして飛ぼうとも考えたが、残りの道のりを十割として三割進めたら良い方だろうし、直感が、魔力因子を消費する行動をするなと言っている。
ここまで、考えることが無くなったら、あの大きいススキまで進もう、あの動物が隠れていそうな草むらまで進もう、あの見たこともない白い花まで進もう。と、歩かされ続けた訓練時代の真似事をしてきたが、それも段々と次までの距離が短くなっているような気がしてやめた。
一度でいいから、全ての痛みを忘れられるベッドでイムと一緒に寝たい。その一度で終わりになってしまうのは痛いが、とにかくイムの存在を感じたい。あれもこれも、全てこの汚染のせいだ。わたしの身体に残った汚染が、まわりのものも壊してしまう。
そういえば、わたしが通ってきた道は大丈夫なのだろうか。これから通る道は大丈夫なのだろうか。人間や動物が更に汚染を拡大させることになるのではないだろうか。たぶん、大丈夫ではないだろう。これは、考えない方がいい。進みを鈍らせることは考えない様にしよう。
雨が降り始めた。寒い。運命と名付けられた歯車はわたしのことがとことん嫌いみたいだ。わたしは自分の体温を調節することすらもはやできない。ただでさえ、失血による体温低下が深刻なのに。
ぬかるんだ地面は足を取り、どうにかこいつを転ばしてやろうと水たまりを作り出している。暗闇では水たまりも障害物もよくみえず、足を滑らすたびに体中がばあらばらになろうとする。
だが、わたしは内心ほくそ笑んだ。そこまでしてわたしを折りたいか。そこまでしてお前の負けだと笑いたいか。そこまでして、わたしに殺されないことに安心したいのか。
この雨は祝福だ。運命がわたしを邪魔する度、どれだけわたしが怖いのかと笑いたくなる。
イムはわたしを信じた。信じなかったことは無かった。今も信じ続けている。ならば、それに答え、進み続けることがわたしの燃料となる。更に足を構成するエネルギーは強固になり、絶対に折れない空間が肉体を支え、着実な進行を可能にした。
不壊と化した意志を祝福するように、雨雲が晴れ、朝日と共に世界がきらめいた。




