第1章(1)
「影の都はまだまだなのかい」
ルイスは額の汗をぬぐいながら、フィルに訊いた。
「ああ、まだまだ全然先だ。都を二つ三つ通って行かなくちゃいけないからまだまだだ」
「ずっとこんな砂漠が続くのかい」
「いや、もうじき終わるさ。ほら、あそこに緑の木々が見えるだろう。あそこが太陽の都の入り口だ」
フィルは前方を指さした。そこには熱気にゆらめく砂丘は見えたが、草木はどこにも見当たらなかった。
「ほんとかい」
ルイスは戸惑いながらフィルに訊き返した。
「ああ、ほんとさ。飲み水も少なくなってきたから、もう少し急ぐか。だからって、おまえ倒れるなよ。倒れたら放っていくからな。とてもじゃないけどおまえの面倒まではみきれないからな」
ルイスは腹が立ったが、どこまでも続く暑い砂漠の風に吹かれていると、彼の言い分にも納得がいった。口の中はからからに乾き、薄っすらとした砂の味がした。歩きすぎた足は、足首の辺りがひどく痛み出し、ふくらはぎが棒のように感じられた。前を行くフィルはさっそうと歩いていたが、確実に彼の歩みも遅くなっていった。疲れているのはお互い様か。ルイスはそう思うと、後は何も訊かず、ひたすら重い足を運び続けた。
その後どれくらい二人は歩いたであろうか。気がつくとぽつん、ぽつんと緑の木々が姿を現し出し、味気ない砂漠に少しだけ色どりが加わるようになっていった。ルイスはあと少し行けばこの砂漠から出られると思うと、小躍りしたいくらい嬉しかった。
しばらく行くと前方に何かの神殿跡のような白い石柱が見えてきた。かつては巨大な屋根を支えていたであろう、その柱は今では砂に埋もれ、半分ほどの高さしか見えなかった。その古びた石柱のそばに差しかかった時、ルイスは他の遺物の残骸に足下をすくわれひざをついてしまった。見ると少し行ったところに、白い布が落ちていてそれはちょうど柱の真下に落ちていた。
布は石とは対照的な真新しい白さをたたえていたので、見る者の興味を引いた。ルイスもその誘惑に勝てず、白い布をよく見ようと近づいていった。すると突然布がもそりと動き出し、二本の足がひょっこりと現れた。彼はびっくりしてフィルを呼び止め、すぐさま柱へと駆け寄った。布だと思ったものは、風をよけるための白いマントで、その下には白い肌をした金髪の少女が倒れていた。彼女は気を失っていたらしく、目をしばたたきながら呆然とした様子で辺りを見渡していた。
「大丈夫ですか」
ルイスは柔らかな巻き毛をなでつけてる彼女に声をかけた。少女は人がいるとは思わなかったのか、ひどく驚いた様子で顔を上げた。その少女の瞳は光り輝く海のような、果てのない美しい青い瞳をしていた。どこまでも落ちていきそうな深みのあるその瞳に、ルイスは思わず息を呑んだ。
「いったいなんなんだ」
そこへフィルが怪訝そうにルイスの下へとやってきた。
「この子が、倒れていたんだ」
「ふーん、それでおまえはどうするつもりだ」
「どうするって放っていくわけにはいかないだろう。こんなところで気絶していたら、死んでしまうよ」
「なら、そいつは気づいたから、もう用は済んだな。さっ、行くぞ」
「ちょっと待てよ」
ルイスは彼の腕を引っつかんだ。
「なんだよ」
フィルはむっとして、ルイスを見た。
「一人にしてまた倒れたらどうするんだ」
「その時はそいつが生きるに値しなかっただけのことだろ」
「よく平気でそんなことが言えるな」
ルイスは怒りを露わにフィルを睨みつけた。
「じゃあおまえはどうするっていうんだ」
フィルは急に言葉を荒立て、ルイスを激しく睨みつけた。
「おまえが奴を背負っていくって言うのか。自分の体だって思うように運べないくせに。俺だってそうさ。この砂漠を突っ切る体力しかもう残ってない。自分で歩くしかないだろ」
「それはそうかもしれないけど、待ってあげるぐらいはいいんじゃないか」
「日が暮れる前にたどり着かなくちゃいけないんだぞ。夜になるとここはとんでもなく寒くなる。俺は慣れているから平気だけどおまえは死ぬぞ」
フィルはそこまで言うと冷ややかな視線をルイスに送った。ルイスはフィルの凍るような目つきに一瞬不安を覚えたが、思い直して彼女の上にかがみこんだ。
「心配することはありません。僕がきちんとあなたを連れて行きます」
「でも、連れの方と仲たがいしてまで連れてってもらうのは。私なら本当に大丈夫ですから」
「平気ですよ。僕があなたを背負って行きます。さっ、遠慮しないで」
ルイスは彼女に背中を向けて、さあどうぞと言わんばかりにしゃがみこんだ。少女は少し躊躇して立ち止まっていたが、そのうちルイスの背中に覆いかぶさり、疲れきった身をルイスに預けた。
ルイスはちょっとよろめいたが、ぐっとこらえて彼女を背負った。その様子を見ていたフィルは、そのまま顔を背けると何も言わずに歩き出した。ルイスとフィルの距離はあっというまに広がっていった。彼は追いつくことよりも、少女を支えることだけで精一杯だった。ルイスはだらりとおぶさっている彼女をしっかりとつかみながら、ずっしりと重い一歩、一歩を踏みしめていた。背負っている少女は初めのうちはすみませんと呟いていたが、しばらくすると何も聞こえなくなった。僕がしっかりしなくちゃいけない。でも僕は。彼の脳裏に歩けなくなった自分と、ぐったりとした少女の姿が浮かんできた。
ルイスは頭を振って打ち消そうとしたが、もしフィルの言ったことが単なる意地悪でなくて、本当のことを言っていたのだとしたら、認めなければならないのは僕かもしれない。そんなことを考えているうちに記憶が途絶え途絶えになり、意識が遠のいていくのを感じた。あいつの言うことが正しかったとしても、僕にはできなかったさ。人を置き去りにして行くなんて。ルイスは自分の呟きが頭の中にこだまするのを聞いた。しばらくすると、彼の目の前は左右へ大きく揺れ出し、まばゆい空と砂漠がすごい勢いで一回転すると頭の中が真っ白になってしまった。
その後彼の記憶が戻ったのはフィルの怒った声からだった。
「もういい。後は俺が背負うから。だから無理だって言ったんだ」
ルイスはぽかんとした表情でフィルを見た。辺りはいつのまにか夕暮れが迫っていた。ルイスは砂まみれになった自分と女の子を見て唖然とした。僕はいつ倒れたんだろう。ルイスはしげしげと周りを見渡した。前にはうっそうと茂った森が、長い影を落としていた。空の上には、黒ずんだ鳥達がまばらに飛び、寝床に戻ろうとしていた。フィルは気合いを入れて、崩れ落ちていた少女を背負った。
「太陽の都の入り口は、あの森かい」
ルイスは幻でも見るかのように、大きな森を指さした。
「ああ、そうだ。ようやくこの砂漠から出られるってわけだ」
フィルはしっかりした足取りで歩きながら、思ったよりも機嫌の良さそうな声でそう答えた。ルイスは緊張の糸がほぐれ全身の体の力が抜けていくのを感じた。砂漠を脱出できたこともそうだったが、フィルがもっと自分を非難するのではないかと勘ぐっていただけに彼の明るい声を聞いてほっとしたのだ。
ルイスは、大股で歩いて行くフィルに遅れをとらないように、懸命に歩いた。風や砂に洗われた、フィルの後ろには大きな影がまとわりついていた。ルイスはその影を見ると、思わずため息をついた。こんなもののために、つらい思いをしなくちゃいけないなんて、なんて馬鹿げてるんだろう。そんなに大事なものなんだろうか。ルイスはフィルの影を憎々しげに、睨みつけた。
『逃げちゃいけないよ』
彼の頭に丘の上に住んでいたおばあさんの言葉がよぎった。
『おまえがもし、よその世界へ行くことができたら、迷わず自分の影を探すことだね。どんなことが起きようと、おまえは逃げちゃいけない。影を探すことなんて馬鹿げているかもしれないけれど、あきらめればおまえは大人になれない』
おばあさんは暗い部屋の中で一息つくと、ルイスの臆病風を見ぬくように、力強い声でルイスに言った。
『逃げちゃいけないよ』
おばあさんにそう言われてから、三年の月日が経っていた。その後、あのおばあさんは丘の家からいなくなってしまったが、どこか遠い異国へ行ってしまったんだと言う人もいれば病気で亡くなったに違いないと言う人もいた。ルイスは、どちらも違うような気がしていたが、ただ言えることは、大人になれないというのはどう言うことなのか、今となっては聞くことが出来ないということだった。その謎を解くためにもルイスは影を見つけなくてはいけないような気がしていた。
「逃げてはいけない」
彼はぼそりと呟いた。
先を行くフィルは、いつのまにか、森の茂みの中に消えて行こうとしていた。ルイスはそれを見ると、急いで彼の後に続いた。