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第2章(7)

「もし祈りにそんな力があるのなら、私は迷わずに祈ってみるわ。そしてこの岩にお願いするの。どうか彼を振り落とさずに支えてやってくださいって」


「祈りねえ」


フィルは考え深げに一言ぽつんと呟いた。


 ラベルトが岩の頂上に着いたのは、それから更に一時間後のことであった。ルイスはずっと顔を上げて見ていたので、首が少し痛み渋い顔をしていた。しかし、ラベルトが頂上にたどり着くのを見届けると、満面の笑みを浮かべて腕を振り上げた。


「やったあ。ラベルトさんちゃんと登り切ったよ。すごい、すごい」


「ああ、ほんとよかったわ」


クリスティーナもようやく安心しきって、ほっとした表情を浮かべた。


「あとはあそこにいるのが、本当に雷鳴の鳥かどうかってことと、無事に降りてこられるかどうかってことか」


 フィルはまだ何も終わっていないんだとばかりに腕を組んで頂上を見上げていた。ラベルトは上に着くと地上のルイス達に大きく手を振り、自分の無事を知らせていた。その後彼の姿はルイス達の視界からはずれ、岩の頂上だけが寒々と彼らを見下ろしていた。ラベルトが頂上で何をしているのかわからなくなってから、しばしの時が流れた。


「ラベルトさん。ほんとに大丈夫なのかな」


ルイスが心配そうに上を見上げると、クリスティーナは大きくうなずいた。


「彼の姿が見えないってことは、きっとあれは雷鳴の鳥だったのよ。そうして彼は今、絵を描いているのよ。だから私達、邪魔をしちゃいけないわ。ゆっくりここで待ってましょう」


彼女は岩の側に寄っかかりながら微笑んだ。


「あっ、そうか。クリスティーナの言う通りだね。だって雷鳴の鳥じゃなかったから、ラベルトさんすぐに降りて来るはずだもんね。少し休んだとしても、こんなに長い間休まないよね」


ルイスはクリスティーナの言葉に安堵したのか、力が抜けたように彼女の隣に座りこんだ。


「なるほどな。だとしたら、俺も少し休ませてもらうかな。絵描きの仕事っていうのはやたらに時間がかかりそうだもんな」


フィルは大きな伸びをすると、近くの岩場に身を横たえてルイスに言った。


「ラベルトが下に降り出したら、起してくれよ。それまではおまえが見張り役だ。俺はそれまで寝かせてもらうよ」


「おい、おい」


ルイスが声をかける間もなく、フィルはすやすやと寝息をたて始めた。


「あっ。勝手に決めて勝手に寝るなよ。僕達だって気が気じゃなかったのだから」


ルイスがふてくされて文句を言っていると、クリスティーナは笑って彼に言った。


「きっと私達以上に気を張って見ていたのよ。それに私達にできることといったら、これくらいのことしかできないんじゃないかしら。寝かせておいてあげましょう」


「うーん。まあ、そうだな」


ルイスはしかたなさそうに肩をすくめ、フィルを見た。いつもむっつりした表情を浮かべているフィルであったが、その時の彼の顔はとても穏やかで幸せそうだとルイスは思った。僕達は一応信頼されているってことか。なんとなくこそばゆいものを感じつつも、ルイスは岩に背をもたせかけ、山の上空の風を自然に受け止めていた。



 全てが無事に終わりを告げたのは、日がだいぶ傾き始めた午後も遅い時間のことであった。ラベルトは登る時も慎重であったが、降りる時は降りる時で更に慎重に事を運び、危険なことなく無事に地上に降り立つことができた。何時間ぶりかに戻って来たラベルトの姿は、ルイスにとってまばゆいものに感じられた。


「雷鳴の鳥は本当にいたんですね」


ルイスは勢い込んで、ラベルトに訊いた。


「そう、いたよ。この羽の持ち主は本当にいた。私はようやくこの目で見た」


彼はささやくように語ると、おもむろに持っていった紙を取り出し、三人の前に広げた。そこには鉛筆で描かれた大きな鳥が、こちらに首をかしげながら見つめている様が生きているように写しとられていた。ぴくりと動き出しそうなその絵に、ルイスは吸いこまれそうな気がした。


ラベルトはその他にも何枚も、いろんな鳥の動きを描写していた。風を受けて飛び立とうとしているところや、木の上に止まり獲物の様子を窺っている様子や、羽をついばむ姿やありとあらゆる角度から克明に紙の上にとめていた。ルイスはその絵を見て、ラベルトが夢中になってスケッチをしている様子が手にとるようにわかった。 絵を描くのがとても好きなんだ。そんな彼の声が、絵から聞こえてきそうだとルイスは思った。どうしてそんなに絵が好きなのに、絵が描けなくなってしまったのだろう。


なぜ絵描きを辞めようと思ったのだろう。今は満足そうな幸せな表情を浮かべているラベルトを見てルイスは思った。岩を登る前に、彼は自分が画家なのかどうかわからないと言っていた。でもこの絵を見れば誰だって言う。本当に絵が、心から好きな画家の絵だって。こんなにも描きたいと思っている人が、なんで遠くまで来てしまったんだろう。いったいどんな想いで、彼は歩いてきたのか。ルイスはそれを考えると、とても切ない気持ちで胸がいっぱいになった。ルイスはうつむきながらラベルトに話しかけた。


「僕はラベルトさんが、頂上で雷鳴の鳥を見たことを信じるよ。だってこの紙に描かれている鳥はどうみたって生きているもの。誰がなんって言ったって、この鳥は存在している。もちろん、そう思えるのは、ラベルトさんが生きている雷鳴の鳥を描いたからかもしれないけれど。僕はそれだけじゃないと思う。ラベルトさんの腕のうまさがここまでさせているんだと思う。それにラベルトさんの絵の情熱があったからだと僕は思う。この世に存在しない摩訶不思議なものじゃなくても、ラベルトさんの絵はきっととても素敵だから、もう迷わなくていいよ。ラベルトさんは画家なんだから」


ルイスはさっと顔をあげた。そのとたん、目から一粒の涙がこぼれ落ちた。そんなルイスの姿にラベルトは声をかすかに震わせると


「ありがとう」


と、そっと呟いた。ラベルトは深いため息とともにゆっくりと瞳を閉じた。その両目からは突如堰を切ったように涙が溢れ出した。


ひび割れていた心にようやく温かいぬくもりが染み込み、今まで辛かった気持ちをすべて涙に変えるかのように、彼はしばらくの間泣いていた。人目も気にせず泣き続けるラベルトの姿に、クリスティーナは胸をつかれた。ずっとひとつのことを思い続けるとは、どんなに大変で、どんなに苦しいことなのか。彼女はそれを思うと針が突き刺さったように心が痛んだ。その痛みを分かつかのように、しまいには彼女もラベルトと一緒になって泣き出していた。フィルはそんな彼らの様子をじっと黙って見つめていた。けれども彼の頬にも、時折光り輝くものが流れ落ちていった。

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