15話、夢と現と幻と……(1)
執事のトラードおじさんに案内されながら、私は、慎重に、キュナの領主代行がいる部屋へと向かって進んでいた。
なぜ慎重かというと、この屋敷には何か危険があるようで、飾られている調度品に触れないようにと、トラードおじさんに注意を受けていたからだった。
しかし、一緒にいた祐太さんは、とくに気にする様子もなく、廊下に飾られてあった花瓶や大皿を手当たり次第に、触れたり、持ち上げたりして、私を驚かせた。
危険でもあるのかなと思ったのだが、何も起こらないその様子に、私は首をかしげた。もしかしたら、トラードおじさんの忠告は、泥棒よけのための、ハッタリだったのかもしれない。
そんな考えが、頭の中を支配し始めた時、近くの壁にかけられた絵画に、目が止まった。
その絵画は女性の肖像画が描かれている、とくに変哲もない絵だったが、私は、描かれたその女性の顔に釘付けになっていた。
そっくりなのだ。自分の顔に……。
私は思わず、その絵画に手を伸ばしていた。
「……!?」
その絵画に触れた瞬間、私の視界がぐにゃりと歪んだ。
驚いて、左右を見渡すと、祐太さんは近くに置いてある花瓶を持ったままの姿で、トラードおじさんは困った表情を浮かべた状態で、固まってしまっていた。
「祐太さん!! トラードさん!!」
私は、二人に声をかけてみるも、二人とも、何の反応も示さない。それどころか、身動き一つしない。
まるで、私一人だけが、時の流れに取り残されたような状態だ。突然の状況の変化に、私は、言葉に詰まり、俯いた。
「!?」
視線を落とすと、私の足が、床に吸い込まれるように沈んでいた。いや、足だけではない、徐々にではあるが、膝、腰と、私の身体自体が、床に沈んで行っている。
それは、気付かないうちに、底なし沼に足を踏み入れてしまったかのようだった。
「わ、わ、わ、ちょ、ちょ、ちょ」
もがけばもがくほどに、沈む速度が上がり、私の身体を容赦なく引きずり込んでいく。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
怖くなった私は、身体を強張らせて、ぎゅっと目を閉じた。
その時、トラードおじさんのあの言葉『調度品には、決してお触れにならないように……』が、エコーがかかったかのように反響しながら、頭の中にぐるぐると流れ始めた。
……だって、あの絵がすごく気になったんだもん。祐太さんは平気な顔して、調度品に触ってたし、私も平気かなって思って……、それで……。
私は、同じ言葉を何度も繰り返す、トラードおじさんの声に向かって文句を垂れていた。文句を言われたからではないだろうが、頭の中に聞こえ続けた声は、徐々に小さくなって消えていく。
「……」
トラードおじさんの声が聞こえなくなり、完全無明の世界が、私の頭の中を支配した。
真っ暗で何も見えない……。
何も見えないのは、当然かもしれない。私は、床に吸い込まれる自分の姿が怖くなり、目を閉じたのだ。
目を閉じたときには、私の身体はのど元まで沈んでいた。時間的に考えれば、もう、頭まで完全に沈んでいてもおかしくはない。
……ふぅ……。
私は、一度、大きく深呼吸してみた。とくに違和感もなく、呼吸は出来ている。
息ができないところにはいないみたいなのだが、どうにも怖くて、目を開ける勇気が出てこない。もしかしたら、まだ完全に沈んでいないだけで、辛うじて顔が床に残っているだけかもしれない。
……………………。
あまりにその不気味な自分の姿を想像して、私は不安で心が押しつぶされそうな感覚に陥る。
しかし、目を開けてみなければ、今、自分がどのような状態にあるのか分からない。
臆病者の私は、なけなしの勇気を振り絞り、ゆっくりと、その目蓋を押し開けた。
……え……。
目を開けたそこは、今までに見たこともない、街の中だった。石畳の道路に、レンガ造りの家々が立ち並ぶ街並み。
辺りをぐるりと見渡せば、後方奥に、大きなお城が見て取れる。
……サルクトア城……?
そのお城を見て、私は、ふとそう思ったのだが、前に見たサルクトア城との外観が全然違うような気がする。
今見えるお城と、サルクトア城は、確かによく似た形をしている。
しかし、私がアリシャおばさん達とともに来た時のサルクトア城は、灰色のレンガがむき出しの、質素だが、それでも、とても堅強な威圧感を覚えさせられる姿だった。
今、遠目に見えるお城は、どちらかというと華やかで、空色の鮮やかな外観に、思わず感嘆のため息が漏れてしまいそうな、そんな優雅な姿だ。
人の姿に例えるなら、前者はどんな仕事もそつなくこなす、バリバリのキャリアウーマンタイプな女性で、後者は、世間知らずなお嬢様タイプの女性だろうか?
よく分からない例えになってしまったが、とにかく、そのくらいお城の外観が違うのだ。
……あのお城は……サルクトア城じゃないの?
私は、遠くに見えるお城が、サルクトア城じゃなかったらどうしようと、不安に駆られて、俯いた。
「……!?」
俯いた時、ふと、自分の足に目が止まった。
違うのだ。靴が……。
いつも、私が履いている靴は、動きやすさを重視した、白い紐靴だ。だが、今履いている靴は、真っ黒な革靴だった。
私は思わず、自分の着ている服装を見回した。全体的に黒をベースとした、布地の服やズボンを身につけている。だが、それは、私が、朝、アリシャおばさんから借りた服ではない。もちろん、私が、初めてこの妖精世界に来たときに着ていた服とも違う。
「……ど、どういうこと……!!?」
まったく見覚えのない服装になっていることに驚き、私は、大声を上げて叫んでいた……。しかし、その声すらも、私には聞いたことのない声だった。
自分の声だ。聞き間違えようはずがない。だが、叫んだ時に発した私の声は、明らかに、いつもの自分の声ではない。
とても低く、女性の物というよりは、むしろ、男性のように聞こえる、その声色……。
私は、何だかすごく怖くなって、自分の姿を確認するため、鏡を探して、辺りを見回し続けた。
しかし、周りは、レンガ造りの家々が立ち並ぶだけで、自分の姿を映せるような物は何もない。
「……」
どうにもならない、この状況に、私は途方に暮れるが、このまま動かないのでは、何も変わらないし、何も分からない。
私は、とにかく、遠くに見えるお城へ向かって、ゆっくりと歩き出した。不安で、暗く沈んだ心は、その足取りすらも重くさせるものなのか、いつもより速いペースで歩いているつもりだったのだが、なかなか前に進まない。
その時だった……。突然、後ろから誰かがズボンの裾を引っ張ったのだ。
「!」
私は驚いて振り返るも、そこには誰もいない。
「?」
なおもズボンを引っ張られる感覚に、そのまま視線を落としてみれば、そこには、水色の髪をした、幼稚園児くらいの小さな女の子が、私の履いている、ズボンの裾を握りしめて、立っていた。
何か悲しいことでもあったのか、女の子は、その両目に涙をためている。
……あれ? この子は、どこかで……。
私は、目の前に立っている女の子に見覚えがあった。
「たすけて、おにいちゃんが!! おばちゃんが!!」
そう言うと、女の子は、突然、私の左手を強く引いて、走り出す。
「わわっ」
走り出す女の子に引っ張られて、あやうく転倒しそうになるが、何とか持ちこたえると、私も早足で、その子の後を歩き出した。
私と女の子では、歩幅がかなり違うのか、早足で歩けば、前を走る女の子に十分追いつく。
……そうだ、この子は確か、お母さんからメールが来た、あの不思議な夢に出て来た女の子……。
私は女の子の背中を見つめながら、あの不思議な夢の出来事を思い出していた。
……あの時は確か、変な男が出てきて……。
私は、そっと左右に目配せするも、あの夢に出て来た男の姿は見えない。
女の子に視線を戻すと、その背中をじっと見つめる。
……今、この女の子を助けて上げられれば、私は、元の世界に戻れるのかな?
前にフィリナさんが言っていた言葉を思い出し、心の中でそっと呟く。
フィリナさんが言っていた、私が、この妖精世界で果たさなければならない目的。
それは、今、私の手を引いて、目の前を走っている女の子のことを助けてあげることだ。
元の世界に戻るために、やらなければならない目的は、すでに見えている。でもそれは、明確ではない。
女の子を助けること……。これは、漠然とした目的であり、どのように助けてあげればいいのかが分からない。
それ以前に、そもそも、この女の子は『誰』なんだろうか?