9話、触らぬ神に崇りなし
「フィリナさん!!」
倒れこむ様子を見た私は、声をかけるが、フィリナさんはピクリとも動かない。
「……」
ルドルフおじさんが、フィリナさんのそばに近寄ると、フィリナさんのことを軽々とその両腕に抱きかかえてしまった。
それは、かつてアリシャおばさんを抱きかかえて見せた時と同じ、お姫様抱っこだ。
「りん、悪いが変わってくれるか?」
「えっ?」
私は一瞬、フィリナさんのことをお姫様抱っこしなくちゃいけないのかと思ったが、ルドルフおじさんの視線の先にあるものに気がついて、慌ててベッドを下りた。
「すまないな」
ルドルフおじさんはそう言うと、抱きかかえたフィリナさんを、さっきまで私が使っていたベッドに下ろして、仰向けに寝かせた。
フィリナさんのおでこには、大きなたんこぶが出来ていた。私は思わず、さすって上げようかと思って、手を伸ばしたが、ルドルフおじさんに止められた。
「りん、フィリナのことを心配してくれているなら触ってやるな。触られると痛がるだろうからな」
「……」
ルドルフおじさんの言うことは、もっともなことだった。私だって、怪我をしたところを他の人に触れられたくはない。せっかく痛いのを我慢してるのに、触られて痛みが増したら、すごく嫌な気分になるからだ。
「フィリナさん……」
私は、フィリナさんの手を取ると、優しく握りしめた。
「りん、大丈夫だよ……。すぐに気がつくさ」
「……」
ルドルフおじさんは、私が握りしめたフィリナさんの手を見つめながら、優しく微笑む。ルドルフおじさんのその言葉に安心した私は、一つうなずいていた。
「……あの、ルドルフさん」
「……なんだい?」
私は、いつも一緒にいる、アリシャおばさんの姿が見えないことに不安を覚えて、ルドルフおじさんに尋ねていた。
「ああ、アリシャか……。アリシャならまだ書庫にいるよ」
「そ、そうですか……」
アリシャおばさんの居場所を知ることができて、私はすごく安心したはずなのだが、なぜかその半分、すごくガッカリしているという感じのある、変な気分だった。
私は、なぜこんな気持ちでいるのか理解できず、誰ともなく首をかしげていた。
「りん、どうかした?」
「えっ、だ、大丈夫です……」
ルドルフおじさんの声に、私は笑顔を作って答えるが、その声に張りがないことは、自分でもよく分かった。
なぜ、こんなに元気がなくなってしまったのか、私にはその答えを見つけることが出来ずに俯く。
「……りん、私には、りんがどうして元気がなさそうにしているのか、分かっているよ」
「えっ?」
ルドルフおじさんの言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「りんは、アリシャのことをどう思ってる?」
「?」
ルドルフおじさんの、その言葉の意味が分からず、私は首をかしげた。
「深く考える必要はない。単純に好きだとか嫌いだとかでもいい」
「……アリシャさんを好きか嫌いかと言われば……、好きですよ。すごく親切ですごく優しくて、まるでお母さんがそばにいる……!」
そこまで言ったところで、私は口を閉ざした。気がついたのだ。私の自分の気持ち……アリシャおばさんのことをどう思っているのかを……。
本当に、僅かな時間しか一緒にいなかったはずなのに、私はアリシャおばさんに、母の面影を重ねてみていたのだ。
「……元気がなかった理由は『りんがアリシャのことを母親のように思っていた』ということにある。りんはアリシャが心配してくれていないのかと思って、気持ちが沈んでいたんだよ」
「……」
ルドルフおじさんの説明に、私は口を閉ざしたまま俯いた。
本当は、そんなわけないって笑い飛ばしながら、自分の気持ちを隠すように反論したかったけど、それを言葉にはできなかった。
なぜだかよく分からないけど、アリシャおばさんに対する自分の気持ちにだけは、嘘をつきたくなかった。
「りん……、アリシャはりんのことを心配していないわけではないよ」
「……」
「神暦文字の解読中にりんが突然倒れて、一番驚いたのはアリシャだからね」
ルドルフおじさんは、アリシャおばさんが心配してくれていると言うが、やはり私には、どうにも納得できない。
……心配してくれているのなら、そばにいてくれててもいいはずだと思う……。
そんな私の心を見透かしたように、ルドルフおじさんは困った顔で微笑む。
「りんが倒れた時のアリシャの取り乱し方は尋常ではなかったんだ……」
「えっ?」
「倒れたりんにすがりつくように泣き出してしまってね」
「……」
「あのままにしておくわけにはいかなかったから、私と真田マスターの二人でりんからアリシャを引き離して、テリオルとフィリナの二人にりんをここまで運ばせたんだ」
「そうだったんだ……」
「だから、りん。もう動けるようならアリシャに会ってあげてくれるかい? さっきも言ったけど書庫にいるから、りんが元気になった姿を見せればアリシャもすぐに立ち直ってくれるだろうからね」
ルドルフおじさんの言葉に、私は笑顔でうなずいた。
「あ、ルドルフさん、アリシャさんのことで、ずっと聞きたいと思っていたことがあるんですけど……」
「ん?」
私は、前に話題になった、アリシャおばさんの過去のことについて、ルドルフおじさんに尋ねていた。
あの時は、アリシャおばさんの悲しげな顔に、とてもそれ以上聞くことはできなかったが、アリシャおばさんがいない今なら、それが聞けるような気がして、ルドルフおじさんに尋ねたのだ。
「……アリシャの過去か……」
ルドルフおじさんはそう言って、胸の前で腕を組むと、僅かに俯く。
……聞いちゃいけないことだったのだろうか?
口を閉ざして考え込むルドルフおじさんに、私もそっと俯いた。
「……りん、私が話したことはアリシャには内緒だぞ」
「……」
しばらく考え込んでいたルドルフおじさんだったが、おもむろにそう言った。
その言葉に、私はルドルフおじさんに顔を向けて、一つうなずく。
「アリシャはどうやら、子供の頃に父親から……虐待されていたようだな」
「虐待……、そんな……お父さんからだなんて」
「虐待と言っても……」
私の顔を見ながら話してくれていた、ルドルフおじさんだったが、突然、言葉に詰まると、私から視線を外して俯いた。
その様子に、私は首をかしげそうになるが、ルドルフおじさんは、すぐに顔を上げると言葉を続けた。
「そう、虐待されていて、それが原因で男嫌いになってしまったようだね」
「……」
途中で詰まった、ルドルフおじさんの言葉の続きが、多少なりとも気になったが、それ以上に、アリシャおばさんが、父親から虐待されていたという事実を聞いて、すごく悲しい気持ちになった。
「……そっか、だからアリシャさんはお父さんの話題になると辛そうな表情をしてたんだね」
父親の話題になると、アリシャおばさんの顔色が悪くなる原因を知って、ようやく、それまで抱いていた疑問が氷解した。
「アリシャは、父親という言葉にもひどく反応するから、出来うる限りそれも言わないように心掛けていたよ」
「……」
ルドルフおじさんのその言葉に、私は、前にテリオルさんとの会話の中で、父親について、ルドルフおじさんが、やけに遠回りな言い方をしていたのを思い出した。
すべてはアリシャおばさんのことを想う、ルドルフおじさんの優しさからだったことを知って、私は何だか心が温かくなったような気がした。
「う~ん、お兄ちゃん……」
「?」
ふと、呻くような小さな声が聞こえて、そちらへ顔を向けた。
そこには、先ほどおでこを強打して、気絶したフィリナさんが眠っていた。フィリナさんはどうやら、悪い夢を見ているらしく、苦悶の表情を浮かべている。
私は心配になって、そっとフィリナさんの右手を両手で握りしめた。
「お兄ちゃん……助けてお兄ちゃん」
フィリナさんが、今にも消えてしまいそうな、か細い声で呟く。
「お兄ちゃん……? あれ? フィリナさんのお兄ちゃんって誰だっけ?」
そう言いながら、私はルドルフおじさんの方へ顔を向けた。
ルドルフおじさんは、そんな私を不思議そうに見つめる。
「……テリオルだろう」
「あ、そっか、テリオルさんがお兄さんでした。フィリナさんって、普段、テリオルさんのこと呼び捨てにしてるから、お兄ちゃんって言われてもピンとこないです」
「……昔は……子供のころはテリオルのことをお兄ちゃんと呼んでいたよ、ここ最近は聞かなくなったから、もしかしたら子供の頃の夢を見ているのかもしれないね」
「子供の頃……。フィリナさんって子供の頃に何か怖い目に遭ったんでしょうか?」
私は、うなされているフィリナさんの方へと、顔を向けた。
フィリナさんは、相変わらず苦悶の表情を浮かべたまま、時折、苦しそうに呻く。
「怖い目か……聞いたこともないがな……」
「そうですか……」
聞いたことはないというルドルフおじさんの呟きに、私は不安な気持ちでフィリナさんを見つめる。
「まあとにかく、起こしてやるか」
ルドルフおじさんはそう言って、フィリナさんの右肩に手を当て、その身体を揺すってみるが、フィリナさんはうんともすんとも言わず、一向に目を覚ます気配を見せない。
私も、ルドルフおじさんに続いて、フィリナさんの身体を揺すってみたが、結果は同じだった。
「目、覚まさんな……」
ルドルフおじさんはそう言って、再び腕を組むと、フィリナさんを見つめる。
「……悪夢を見ているのをほっとくと言うのも可哀想だしな……。ま、見ているかどうかは本当のところ分からんが……。やむなし、最後の手段を使うか」
「……最後の手段?」
私の問いかけに、ルドルフおじさんは右手を上げると、その掌をフィリナさんのおでこ目掛けて振り下ろした。
パチン!!
フィリナさんのおでこにぶつかったそれが、小さな音を立てる。その瞬間……。
「~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!?」
フィリナさんが、おでこを両手で押さえて飛び起きた。フィリナさんはおでこを押さえて、ひたすらに身悶え、ベッドの上をのた打ち回る。
「痛い……痛い~~~~~~~~!!」
ルドルフおじさんの言う最後の手段とは、先ほど散々扉に打ち付けて、たんこぶができているフィリナさんのおでこを、叩いて起こすというものだった。
確かに、ほぼ一発で、フィリナさんの目を覚まさせたのだが、痛い痛いと叫ぶ、半泣きのフィリナさんがあまりに哀れで、私は声もかけられない。
「~~~~~~、い、今、誰か私の頭叩かなかった!!!?」
半泣きのままフィリナさんが、私とルドルフおじさんを、交互に睨みつけるような目で見回す。
「……え、えっと」
「ついさっき、テリオルがお前のおでこを叩いて逃げてったぞ」
私が、フィリナさんに、事情を説明しようとしたら、ルドルフおじさんに遮られた。
しかも、ルドルフおじさんの説明には、明らかな嘘があるのだが、フィリナさんはそれに全く気付かない。
「くぅ~、テリオル~、一度ならず二度までも!!!」
フィリナさんは、先ほどそこの扉で、おでこを打ち付けられたことを思い出したらしく、怒りに打ち震える。すぐにベッドから跳び起きると、ものすごく慎重に扉を開けて、この部屋を出て行った。
扉を開ける様子から、おでこをぶつけた出来事が、心理的外傷になってしまったようだった。
「……あの、ルドルフさん」
「ん?」
「いいんですか? あんな嘘ついて」
私は、ルドルフおじさんのついた嘘に、一抹の不安を覚えて、フィリナさんが開け放った扉を見つめながら呟いた。
「ま、触らぬ神に崇りなしさ」
「いやいやいや!!! その崇り神のおでこを叩いたのはルドルフさんでしょ!!!?」
しれっとした顔で言うルドルフおじさんに、私は声を上げてツッコミを入れていた。
「ふふふ、りんも共犯だからな」
「……え?」
「見て見ぬ振りをしたんだから」
「そ、そんな!!?」
ルドルフおじさんの、優しい口調だが、その釘を刺すような物言いに、私は思わず頭を抱えた。
『ぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~』
開け放たれた扉の向こうから、テリオルさんの断末魔の叫びが聞こえたような気がしたのは、きっと気のせいではないだろう……。
………………テリオルさん、ごめんなさい………………。