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ストラトス・シーク  作者: 宇城 紫
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/7 正体

 頭が混乱している。

 

 自分の名前に実感を抱けない事が、これほどしんどいとは思ってもいなかった。顔の整形手術をした人は、鏡に映った自分の顔を自分自身だと認識出来なくなる事があるらしいが、気分は正しくそれだった。


《セルゲイ・ヴァレンチノヴィチ・ソルヤノフ》――これは、本当に俺の名前なのだろうか。あの女が誰かと勘違いして、呼び間違えたのかもしれない。もしかすれば、瓜二つの赤の他人がいるのかもしれない。……いや、分かっている。全部戯言だ。下らない現実逃避だ。


 女は間違いなく俺を呼んでいた。

 これは、俺の名前で間違いない。


「はぁ……」


 思わずため息が零れる。自分自身について明確な情報を知れたというのに、諸手を挙げて喜べないとは。


 不意に乾いた土の匂いが鼻腔を擽る。


 得体の知れない匂いに、俺は辺りを見回した。この部屋で、さっき同じ匂いを嗅がなかったか? さっきは恐怖が勝り気に留めなかったが、ダイニングルームで土の匂いがするのは変だ。立ち並ぶ花は全て造花で、花瓶の中に土は入っていない。


 どこかに外へと出られる道があるのかもしれない。

 微かな期待に胸を膨らませる。


「お待たせ……ってどうかしたの?」


 女が厨房から戻ってくる。両手には大皿を携えていた。

 この部屋に厨房がある事を知っていた女だ。記憶が曖昧な俺よりも、何か知っているかもしれない。俺は女に訊ねる。


「外の匂いがしなかったか?」


「外?」


「荒野というか、砂漠というか、そういう乾燥した土の匂いだ」


 女は難しい顔で黙り込んだ。

 そして、ゆっくりと首を横に振る。


「ううん、嗅いでない。役に立てなくてごめん……ほら、ギャレーって料理の匂いがこもっちゃうからさ」


「そうか」


「でもちょっと変だよ。ここ、外につながる道はないし」


 俺は曖昧に頷いた。

 外への道がないのは残念だが、だとすればあの土の匂いはなんだったのだ。……俺の気のせいなのか?


 女は両手の大皿をテーブルに置くと、一方を俺に差し出した。


「きっと疲れているんだよ。見張りを頼んだお礼もかねて、どうぞ。簡単なまかない料理だけど、味には自信があるんだから」


「……あぁ、ありがとう」


 差し出された皿を受け取ったはいいが、どうも食欲が湧かない。


 ここにきて、女に対し最初に覚えた違和感が、再び頭をもたげている。作った料理を分けてくれるなんて、優しい女ではないか。なのに何かがおかしい。でも、何がおかしいのかはっきりしない。


 未知の料理――でもない。ただのコンソメスープだ。


 ……そうか。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「食べないの?」


「どうも、腹が減ってなくてな。なんなら、全部食ってくれて構わないぞ」


「もう、シェフの料理を食べないなんて、貴方って相変わらず贅沢な人ね」


 女の言葉に、引っかかりを覚える。


「お前、今なんて?」


「え? 贅沢な人ね?」


「違う、その前だ」


 目を丸くしながら、女は答えた。


「シェフの料理を食べないなんて、だよ」


――何の前触れもなく唐突に、全てが繋がった。


 違和感の理由が分かった。脳裏をよぎった不安も理解した。朧気な記憶が訴えかけているものの意味も判明した。忘れる事が出来たのが奇跡だと思えるぐらいに、強烈な印象をもっていた女だった。


 流れ込んでくる映像の波。

 厨房で腕を振るう女の姿。


 目の前で微笑む、同じ姿の別人。


()()()()()……?」


「誰って……今更何を言ってるの? 美人シェフのシシィだよ」


「違う」


 俺は断言する。


 この女が俺に料理を手渡すなんて、絶対にないのだ。俺と協力しあう事も、俺に助力を乞う事も、女は選びはしない。俺にしおらしく頭を下げるくらいならば、死んだ方がましだと言うに決まっている。


 再び砂塵の匂いが鼻をかすめた。


「その女の名前はミッシェル。――ミッシェル・リーヴズ。シシィはただの愛称だ」


 女は目を見開く。


 シシィ――二度と聞きたくもない、()()()()()()()()()()()


 クリーム色の髪こそ似ていたものの、面影は似ても似つかない二人だった。小麦色の肌をしたミッシェルと、真雪色の肌をした忌まわしい女。太陽のような笑みを浮かべるミッシェルと、氷のような冷笑を浮かべる忌まわしい女。愛称だけが同じで、それ以外は百八十度真逆の二人だった。


 忌まわしい妻と、同じ愛称で呼ばれていたミッシェル。


 二度と聞く事は無いだろうと思っていたのに、偶然聞こえてきたその名前。聞き流せばよかったのに、一体誰の事なのだろうと、俺はつい興味を持ってしまった。それが間違いだったのだと気付いたのは、ずっと後になってからだ。


 ミッシェルという女は、正直そりが合わない女だった。


 いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれると、ミッシェルは心から信じていた。大人になったらお姫様になる、という子供の頃の夢を、今なお失わずに持ち続けている。恋愛と結婚に蜂蜜のかかった角砂糖よりも甘い幻想を抱き、そして疑わない。子供以上に純粋な、或いは幼稚な女だった。


 愛称が俺の妻と同じだと知った時、ミッシェルは俺が結婚しているという事実に驚いた。次に、俺の結婚が政略結婚だと教えたら、愕然と目を見開き、ミッシェルは何故か激昂した。張り手を食らわなかっただけ運がよかったと思えるほどの、激情だった。お姫様のような結婚に憧れるミッシェルには、愛も情もない俺の結婚は理解出来なかったのだろう。顔を赤くし、こぶしを握り、怒りに震えていた。


 それ以来、ミッシェルは俺を射殺さんばかりの鋭い目つきに睨みつけてくるようになった。妻を愛さぬ悪人。愛してもいないのに結婚した外道。よく語彙が尽きないものだ、と思うほどに様々で悪態を聞いた気がする。訂正したい点も釈明したい点もいくつかあったが、感情的なミッシェルとの対話が煩わしく思え、最終的に面倒臭さが勝り、結局最後まで訂正も釈明もしなかった。


 決定的な仲違いは、きっとどう足掻いても埋まる事のない溝だっただろう。俺とミッシェルとでは、価値観があまりにも違い過ぎた。親の仇もかくやという敵意を向けられても、俺にはどうしようもなかったのだ。


 だから、非常事態だからといって、ミッシェルが優しく微笑みかけてくるなどありえない。それが例え、俺を殺すための演技だとしても。


 ……愛称を本名だといった女。


「お前は、誰なんだ?」

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