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ストラトス・シーク  作者: 宇城 紫
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/6 名前

 部屋を埋め尽くす円形テーブルの物陰に、何か潜んでいるのではないか? 下らない妄想が頭の中でぐるぐると渦をなしている。ドアを目指し歩き続けるには、大変な努力が必要だった。豊かな想像力という己の内にある強敵と、俺は戦い続けなければならなかった。


 部屋の中に入ってからは、不快な視線も、纏わりつくような嫌悪感も、一切感じなくなっていたが、それでも恐怖が完全になくなる事はない。早鐘を打つ心臓に落ち着けと念じながら、俺は奥へと進んでいく。


「っ……」


 今、テーブルクロスが視界の端で揺れなかったか? ……いや、違う、気のせいだ。なんてことはない、目の錯覚に決まっている。きっと未知の恐怖に晒されたせいで、少し神経が過敏になってしまっているだけに違いない。室内には、俺しかいない筈だ。


 俺は何とかドアの前までたどり着いた。後ろを振り返り、俺が入ってきたドアを確認する。――開けられた様子はない。小さく安堵の息を零し、俺はこれから出ていくドアを見た。


 ドアには、テーブルが立て掛けられている。意図的に置かれたというよりも、倒れた弾みで転がり、ドアに引っかかってしまったようだった。俺はテーブルを脇によせ、心してドアを開けた。


 どさり、と何かが倒れてくる。


「いたたた……なに? 壁が急に…………え、え? ドア、なんで……?」


 女、だった。


 クリーム色の髪に、小麦色の肌をした女だ。頭をしたたかぶつけたのか、摩りながら身を起こす。女の第一印象は「若くはないが若作りは上手い」だった。歳は三十半ばか、四十手前ぐらいだろう。まるで少女が好むような、薄桃色のファンシーなワンピースを身に纏っている。何故かこの女が薄桃色のワンピースを着ているという事が、痛々しく思えて仕方がなかった。


 俺は頭を振り、女の顔を観察する。

 どこか見覚えがあるような気がする。だが、どこでだったのかが思い出せない。もしや敵だろうか? 俺はナイフを握る左手に力を込める。


「――げ、死に急ぎ屋(ロシアンボーイ)……」


 思い切り顔をしかめて、女は呟いた。声には隠しようのない嫌悪が滲んでいる。

 酷い言われようだ。だが、俺がナイフを握っている事に気付き、女は手のひらを返したように頭を下げた。


「あ、あの、いつもの、悪ふざけのつもり、だったんだけど……こんな非常事態に、ちゃかしてる場合じゃなかったね。ごめんなさい……」


 顔色を窺うように見上げてくる女に、俺は一瞬眉をひそめる。何かおかしい。喉に魚の小骨が刺さったような、確かな違和感。――この女は、こんなにも殊勝な奴だったか? 朧気な記憶が、何かを訴えかけている気がする。


 しかし、抜き身のナイフを持った男に見おろされているのだから、怯えるのも当然か。胸がざわめくような不安が脳裏をよぎるが、気のせいだろうと俺は思考を打ち切った。


「気にしていない。だからとりあえず立て。話しにくい」


「あ、うん。はい」


 女は素直に立ち上がる。服は埃で汚れていたが、目立つ怪我はないようだった。


「なんでドアに凭れかかっていたんだ?」


「その……逃げてきたのはよかったんだけど、ドアが開かなくて……反対側のドアに行くか考えたんだけど、動いて見つかっちゃったら嫌だなぁって思って……」


 成程、得心がいった。ドアに立て掛けるような形で引っかかっていた机が邪魔で、女の細腕ではドアが開けられなかったのか。


 だとしても、ここに留まる理由にはならない気がするが。


「別の場所に行けばいいだろうに」


「だ、だって、どこ行っても危ないなら、せめて親しみのある場所にいたかったんだもん……」


「この部屋がか?」


「ううん、違うよ。部屋じゃなくてギャレー。厨房だよ」


 厨房だって? こんな場所に? ここはパーティー会場ではなくて、ダイニングルームだとでもいうのか? 内装を思い出し、俺は思わず渋い顔になった。青緑色のナツメ球といい、真っ白な廊下や謎のモザイクタイルといい、建物全体もう少しどうにかならなかったのだろうか。


 女は期待を込めた眼差しで俺を見ている。


「中って、安全……?」


「保証は出来ないが、今の所はな」


「怖い人いない?」


「今の所は」


 俺の答えに、女は安堵の溜め息を零した。


 半歩下がって道を開けてやると、女は嬉しさと不安を織り交ぜたような表情で俺を見上げる。そして、恐る恐る室内へと足を踏み入れた。


 女が横を通り過ぎ、室内に入ったのを見届けると、俺はドアから頭を突き出した。真っ白い廊下に、人の気配はない。纏わりつくような視線を感じない事に、胸をほっと撫で下ろす。


 女を置いて、先へ進むか?


 映画や小説ではこういう時に出会った相手は必ず仲間で、最後まで一緒に行動するのが定石だが、そもそもあの女は本当に味方なのか? どうやら俺を知っているようだったが、それも罠かもしれない。あの女がセバスィクプの親衛隊とやらの可能性だって、無きにしも非ずだ。


「……」


 俺は悩んだ末、ここに留まる事を選んだ。


 あの女は敵かもしれないというのに、我ながら馬鹿な選択だと思う。それでも万に一つ、あの女が本当に味方であるならばと考えると、見捨てる事は出来なかった。自分の甘さに思わず自嘲する。


 ドアを閉め、室内へと戻る。

 反対側のドアが開いた様子はない。後ろを振り返る度にドアを確認してしまうとは、情けないかぎりだ。俺は女の姿を探し、室内を見回すが、どこにも見当たらない。代わりに柱の奥から、ばたんばたん、と戸棚を開閉するような音が聞こえてくる。柱の影を覗き込むと、そこには厨房へつながるドアがあった。動線を完全に無視した造りになっているように思えるのだが、不便ではないのだろうか。


 女は生き生きとした顔で、厨房の戸棚や冷蔵庫を探っていた。


――やはり、どこか見覚えがある。厨房に立つ女の姿が、妙にしっくりと馴染むのだ。だが、あと一歩が思い出せない。


 頭を悩ませている内に、一通り探り終わったのか、女がおずおずと声をかけてきた。


「ねぇ、ミスター・ソルヤノフ?」


 俺は驚愕し、目を見開く。

 動揺を悟られないように、努めて平静に答えた。


「なんだ?」


「あのね、ギャレーに少しだけ食材があったの。食べられそうで、その、お腹すいたなって……」


 恐れ入った。この状況下で空腹を感じられるとは、肝が据わった女だ。俺だって人の事を言えた口ではないけれども、身を隠すならともかく、料理をしようだなんて緊張感が無さすぎやしないか。


「そうか……」


「やっぱり駄目かな? ご飯の恨みは大きいって言うし、まずいかな……?」


 気にすべき所はそこではないと思うが。


「好きにすればいいんじゃないか?」


「そ、そう? じゃあミスター……じゃなくて、セルゲイ・ヴァレンチノヴィチ。見張りをよろしくね」


「へ? あ、あぁ」


 言うや否や、女は厨房へと走っていってしまった。


 一応気を遣っているいるのか、戸棚を開閉する音が先程よりも少しだけ静かになっていた。調理の音を聞きながら、俺は思考を巡らせる。


「ミスター・ソルヤノフと、セルゲイ・ヴァレンチノヴィチ……」


 俺の、名前。


 ミスターの後に続いたソルヤノフは、恐らくファミリーネームだ。セルゲイ・ヴァレンチノヴィチ……セルゲイがファーストネームだと考えていいのだろうか? では、ヴァレンチノヴィチはミドルネームなのか? 


 それに、女の呼び方。最初は《ミスター・ソルヤノフ》。二度目はミスターと言いかけたのに、《セルゲイ・ヴァレンチノヴィチ》と言い直した。何故言い直す必要があったのだろう。ミスターでは駄目だったのか? まるで不可解だ。


 ただ一つ分かったのは自分の名前。


 俺は、セルゲイ・ヴァレンチノヴィチ・ソルヤノフ。


 全く実感が湧かなかった。

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