/2 遭遇
廊下を進み始めて何分たっただろうか。
随分歩いたような気もするし、殆ど進んでいないような気もする。いつまでも変わらない景色に、時間の感覚が麻痺してきた。廊下を照らす青緑色の光に、現実味がないのも原因の一つだろう。
両側の壁には、洒落たドアが一定の間隔で並んでいる。途中で数えるのを止めたが、少なくとも十はあった。右に十部屋、左に十部屋、併せてニ十部屋。廊下の端から数えた訳ではないから、更に倍はあるだろう。
……広い。ホテルと言うのはこうも広い造りなのか。当てもなく歩いていると迷いそうだ。
予想を遥かに上回る長さの廊下に、些かうんざりしながら俺は歩き続ける。
そう言えば……俺は何故「右に進めばいい」と言われた事を覚えていたのだろう。自分の名前は忘れている癖に、他人の影は朧気にだが覚えている。顔も名前も思い出せない上に、友人なのか知人なのかも分からないけれど、会話の一部ははっきりと覚えている。可笑しな話だ。
もしや、大切な人だったのだろうか。
両親か、兄弟か、もしかして妻とか。
「ふっ」
そこまで黙考して、俺は思わず吹き出してしまった。咄嗟に辺りを見回し、人の気配がない事を確認する。
物音は聞こえてこない。
幸いにも誰もいなかったらしい。俺はほっと胸を撫で下ろす。良かった。一人で突然吹き出すという間抜けな姿を、他人に見られずに済んだようだ。
しかし、妻。妻か。……妻は、ない。
自分が結婚している姿が全く想像出来ない。女性の肩を軽く抱き寄せる自分を想像してみるが、その姿のあまりの滑稽さに笑いが堪えきれなかった。現実逃避にも似た思考の海を漂いながら、俺は廊下を進み続ける。青緑色の光がネガティブな感情ばかり刺激し、下らなくとも思考し続けていなければ、不安と焦燥感で立ち止まってしまいそうだった。
正面に、大きなドアが見え始める。長かった廊下がようやく終わった。
ホテルには不釣り合いな、ハンドル型の取っ手が目を引く。その造りは、ホテルと言うより、まるで船のように思えた。鍵は――かかっていない。怪しい雰囲気が漂っていたが、ここしか進める道はない。俺は意を決してドアを開けた。
室内は、異臭が立ち込めていた。血臭さと、嗅いだことのない強烈な悪臭。生ごみを腐らせたら、こんな臭いになるかもしれない。俺は鼻を服の袖で覆い、渋々中に入った。室内は弱々しいながらも、蛍光灯の昼白色の光に照らされている。忌々しい青緑色のナツメ球から解放された事に、少しだけ安堵した。
ドアを閉め、奥へと進んでいく。窓はない。内装もシンプルなもので、大型のソファーが三つと、壁に埋め込まれた巨大なモニターだけだった。一体何の部屋だろうか? 学校なら視聴覚室を彷彿とさせるのだが、あいにくここはホテルだ。視聴覚室なんてないだろう。
それに、ソファーにべったりと付着する黒い染みも気になる。俺は細心の注意を払い、ソファーへと近付いた。
「っ……!」
ソファーを覗き込んで、俺は後悔した。
所々黒く変色した肉の塊――ソファーには、人間の死体が横たわっていた。
死んでからどれだけ経っているのだろう。表面は干乾びているように見える。
しかし何よりも総毛立ったのは、死体の皮が剥がされていた事だ。
頭皮から足の裏まで、全身剥き出しになっている筋肉組織。皮が無くてもはっきりと読み取れる、恐怖に引き攣った表情。彼は生きたまま皮を剥がれたのだろうか。それがどれほどの激痛かは、想像すら出来ない。だからせめて、死んでから剥がれたのだと思いたい。
俺は胸を押さえ、早鐘を打つ心臓が治まるのを待つ。
いや、待とうとした。
無意識の内に身体は反応し、俺はソファーのそばから飛び退く。
次の瞬間、ソファーに大型のナイフが突き刺さる。
見れば、背が高い、ひょろひょろとした男がそこにいた。青い作務衣を着ている。作務衣の男は、血走った眼で俺を見ていた。
一体どこから現れたんだ? 室内に入った時は、人の気配は確かになかったというのに。作務衣の男は、ソファーに刺さったナイフを手に取り、引き抜いた。どうやら友好的な会話が出来る相手ではなさそうだ。
俺は油断せず、男と対峙した。
努めて冷静な声で訊ねる。
「お前は、何者だ?」
作務衣の男は答えた。
「……お前が訊くのか?」
どういう事だ。意味が分からない。この男と俺は知り合いなのか?
「何故ナイフを向ける?」
「それも愚問だ。……らしくないな」
作務衣の男はナイフを振り上げ、俺に切りかかってきた!
俺は必死に避ける。あんなナイフが当たれば、間違いなくお陀仏だ。俺の頭は混乱していた。こいつは犯人の一味なのか? それとも俺と同じ連れてこられた人間なのか? 何故俺を殺そうとするんだ? それも親の仇を見るような目をして。
「お、おい! 馬鹿野郎! 怪我させたら総統になんて言われるか堪ったもんじゃねぇぞ!」
突然の怒声に、俺も作務衣の男も動きを止めた。
ドアの所に、誰か立っている。
屈強な体格をした、迷彩柄のタンクトップを着ている男だった。
どうやら、作務衣の男の連れのようだ。
「馬鹿はお前だ。俺たちが見張りをサボってる間に、こいつが脱走したって事の方がやばい。この事が総統に知られたら、大目玉くらうに決まってるだろ?」
作務衣の男は呆れたように頭を振った。
この二人が犯人の一味であることは、最早間違いない。リビングルームに充満していた血臭さは、この二人にこびりついた臭いだったという訳か。何人殺せばそこまで臭いが染みつくのだか。
迷彩服の男はわずかに首を捻りながら反論する。
「あ、おぉ……そうか……? でも、総統の事だから、もうバレてんじゃねぇか?」
「多分な。だから迅速にこいつを部屋まで連れ戻す。分かったら突っ立ってないで働け」
作務衣の男に言われて、迷彩服の男は不満そうな顔でナイフを取り出し、構える。
二人の男にナイフを向けられているのに、俺は不思議と落ち着いていた。
あんなに混乱していた頭も、今はもう冷静さを取り戻している。犯人の一味――端的に言えば敵である二人に対して、怒りはない。連れ戻すと言っているあたり、殺されはしなさそうだし、自分でも分からないけれど、こいつらには俺を殺す理由があって、俺には殺される理由があるような気がする。
だからといって簡単に殺されてやる気はないので、全力で抵抗させて貰うとしよう。