/11 悪夢
随分と嫌な夢を見た。
一体何年前の事だろう。今更思い出すだなんてらしくないほどに、昔の話だ。
結婚後、あの女――シンシアは一言一句違える事なく家庭内別居を始めた。俺が家にいる時間は少なかったが、それでも同じ屋根の下で暮らす家族がいるのに、ろくに顔を合わせないというのは不思議な生活だった。人がいる気配だけは感じていたが、生活そのものは独り暮らしと何ら変わりなかった気がする。
幸か不幸か、運よく一晩で孕んだらしい息子にも殆どあった事はない。気付いたら生まれていた。それだけだ。親子の会話は、年に一度、誕生日のプレゼントを催促しにくる時だけだった。
妻も息子も嫌いではない。憎んでもいないし、恨みもない。
しかし、愛してもいない。
一番適切な言葉を選ぶならば、忌々しい。妻と息子はそんな存在だった。
俺にとって妻は、黙々と金を浪費してくれる便利なシステムに過ぎなかった。貯まる一方で使う暇も目的もなかった金を、湯水のごとく使い捨ててくれる消費係。
そして妻にとって俺は、都合のいい金蔓に過ぎなかっただろう。
忌々しい思い出だけを残してくれた、女と子供。
――実に素敵な結婚生活だった。
闇の中で目を覚ました俺は、そんな下らない事を思い出しながら上体を起こした。
柔らかなベッドに、垂れ下がった天蓋の布。布の隙間から覗く、シンプルだが高級感の漂う室内の情景。薄暗い中でもはっきりと分かる豪華な内装。……見覚えがある。
ここは、ほんの数十分――もしくは数時間前に目を覚ました、あの寝室ではないか?
「……は?」
俺は呆然と辺りを見回した。何処を見ても間違いない。あの寝室だ。咄嗟に胸元を摩る。――そこにあるはずの傷がなかった。
俺は死んだのではなかったのか……?
胸を貫かれた衝撃。痛みよりも激しく鋭い熱。失血による身体が軽くなるような感覚。流石に忘れはしないし、間違えもしない。俺は確かに殺された。
なのに――生きている。
完全に致命傷だったはずなのに。
死んでも天国へは行けないと分かってはいたが、まさか地獄へも行けないとは思ってもいなかった。それとも、此処こそが地獄なのか? 俺はもうとっくの昔に死んでいて、地獄を歩き回っていたのか? 早鐘を打つ心臓が、俺の妄想だとしたら……
俺は頭を振る。
考えるのは止そう。俺は生きている。そこを疑っていては何も出来ない。
もっと他の事を考えよう。例えば――あの偽物のミッシェルの事を。恐ろしく強い女だった。地獄に住む悪魔が実在しているならば、きっとあんな感じだろう。最後にガラス片を突き刺したのを覚えているが、どうだろう。あの程度の傷では倒せないような気がする――人間の俺と違って。
ベッドの縁に腰掛け、俺は大きく息を吐き出した。
死にかけたはずなのに、生きている。……いや、違う。死んだはずなのに、生き返っている。全く訳が分からない。死んだ人間が生き返るはずなどないのだ。偽ミッシェルとの戦いは夢だったかもしれない、なんて馬鹿馬鹿しい事を考えてしまう。いっそ全てが白昼夢だったらよかったのに。
「……まぁ、夢は夢で悪夢だったな。あんな忌々しい女の記憶なんて」
そんな事を思い出すぐらいなら、もっと有用性の高い記憶を思い出したかった。
俺は両手の手袋を外す。人差し指と小指の布だけない、謎の手袋だ。着け心地が良かったので全く気にしていなかったが、偽ミッシェルと戦った時にナイフを落とさずに済んだのはこの手袋の功績が大きい。俺は手袋を脇に置いて、ぼうっと手を眺めた。
俺には妻がいた。既婚者だった。自分が結婚している姿が全く想像出来ないといつか笑い捨てたような気がするが、こうやって思い出しても実感は湧いてこなかった。
結婚式を挙げた記憶はない。だが、体裁だけは保ちたいと結婚指輪を買わされた記憶はある。シンプルなデザインで、なおかつ見栄の張れる高級品を、というのが妻の要望だった。最終的にどこかの有名ブランド品を選んだらしいが、詳しい話は知らない。指輪は郵送で送られてきた。プラチナに小粒のダイヤモンドが散りばめられた一品で、美しさに感嘆の息を漏らしたが、何より驚いたのは指輪と共に送られてきた領収書の方だった。明らかに年収を上回る金額で、俺は言葉を失うしかなかった。
「……へ?」
左手の薬指。
そこに呪いのようにはめられていた結婚指輪が、ない。くっきりと残る日焼けの後が、かつて指輪があった事を証明していた。どこかで落としたのか? ……手袋をつけていたのに? 最後に指輪を見たのはいつだったか。ここで目を覚ましてから、一度も手袋外していない。つまり、誰かか意図的に外したのか。俺の指から、指輪を。
指輪が好きだったのか、宝石が好きだったのか、どちらにせよ物好きがいたものだ。
俺はもう一度自分の左手を見る。
何度見ても指輪はない。これでいいのだ、と安堵が胸に広がるのを感じる。自由を実感するあの感覚に、少し似ている。失くしたショックなどまるで無い。むしろ、何故もっと早くに指輪を外さなかったのか、と過去の俺へと問いただしたいくらいだ。
妻であった女への愛情? それとも未練? ――まさか。
忌々しいとまで思っている女だ。そんなもの、ある訳がない。
「まぁ、いいか」
失くしたならそれでいい。わざわざ探す気にもならない。手袋をはめなおし、部屋を見回す。薄暗い寝室、垂れ下がった天蓋の布、ドアの隙間から漏れる光。最初に目覚めた時と、何も変わっちゃいない。俺はベッドから立ち上がると、リビングルームへと移動した。
ドアを開けた瞬間、明るさに目が眩む。リビングルームの明かりが、ナツメ球から普通の蛍光灯に変わっている。作務衣の男たちが気を利かせてくれたのだろうか? 事情は不明だが、室内を見回しやすいのはありがたかった。
部屋の真ん中にある痛んだ机の上に、また紙切れが置かれている。一緒に置いてあったマグカップは無くなっていた。俺は紙切れを手に取る。紙には赤いペンで、こう書かれていた。
《命を大切に》
まるで嫌味だ。どうやらこの紙切れをここに置いた奴は、俺が死にかけた事を知っているらしい。余計なお世話だ。存外、俺を助けたのは総統とやらだったりするのかもしれない。……それはないか。
俺は紙切れを机に置いて、ポケットに手を突っ込んだ。最初に目を覚ました時、この机に置かれていた紙切れを、ポケットにしまった気がする。後で確認しなければと思っていたのに、結局確認する事を忘れていた。少しくしゃくしゃになっていたが、紙切れはちゃんとポケットに入っていた。丁寧にしわを広げる。
《who are you?》
まるで子供の落書きのような歪な文字に、俺は思わず笑ってしまう。随分と皮肉な文字が書かれているものだ。書いた奴の性格の悪さが窺い知れる。それとも、まさか本気で訊ねているのか? 本当に俺を知らないから、お前は誰だと訊ねているだけなのか? だとしたら、何故俺を捕らえた。何故殺さなかったのだ。
俺は紙切れを机に置き、溜め息を吐きだした。
小難しい事を考えるのは、もう疲れた。訳が分からなくて、頭が痛くて仕方がない。机の上には、紙切れ以外に見慣れたナイフも置かれていた。作務衣の男から拝借した、あのナイフだ。俺はナイフを手に取り、力なく笑った。
命を大切に? それだけは無理な話というものだ。
命は使い切るものだ。長く生きる為に守り抜くものではない。その結果若くして死んだとしても、それも本望。
ともあれ、ナイフはありがたく受け取らせていただこう。このナイフ、偽ミッシェルとの戦いでは大いに役立ってくれた。ある意味命の恩人といえる。作務衣の男には迷惑をかけるが、返却はもうしばらく無理そうだ。ナイフを左手に持つと、俺は廊下へと向かった。
折角生き長らえた命をあたら溝に捨てるつもりはないが、部屋に閉じこもっているのは性に合わない。自分の名前は判明したが。失った記憶とこの場所については、まだ何も分かっていない。総統とやらが俺を連れてきた理由も。謎のままだ。
それに、仲間も探したい。いや、味方と呼ぶべきか?
例えば金髪の青年。彼は生きているのだろうか。生きているならば、今はどこにいるだろう。それに、本物のミッシェル。こちらは生きている望みは薄そうだが、死体を見ていない以上、希望は捨てずにいようと思う。
俺は開きっぱなしのドアから廊下に出た。




