プロローグ
頬を掠める微かな感触。これは……指だろうか。誰かに、頬を撫でられている、のか? 頬、額、瞼、鼻梁――そして、唇。慈しむように滑る指の優しさに、陶酔してしまいそうになる。
これは夢だ。
誰かに頬を撫でられるなんて、夢以外に考えられない。久しぶりに感じる他人の温もりに、ささくれ立っていた心が和らいでいくのが分かる。撫でられる頬のこそばゆさが心地良い。
どれだけ恋い焦がれても、誰も与えてくれなかったのだ。一欠片の同情も。だからだろうか。この指の温もりが愛おしい。手放したくないほどに愛しい。誰にも渡したくない。時間の許す限り傍に居てくれ。夢から覚めればいつも通りに戻るから、もう少しだけこのままで居させてくれ。
しかし願いは届かず、終わりは唐突に訪れる。
頬を撫でる指の動きが止まる。躊躇いがちに頭をそっと撫でると、気配は音もなく遠ざかり始めた。微かな空気の流れが頬に当たる。
――不意に、荒野の砂塵の匂いが鼻腔を擽った。
郷愁によく似た懐かしさと、先進的な未来への恐怖を同時に味わうような、錯綜的な感覚に陥る。形のない影が這いずりながら叫喚し、硝子が砕け散る音で奏でられた旋律が飽和する。
耳の奥で、頭の中を掻き回すような不協和音が鳴り響く。鋭い痛みが胸を貫き、呼応するように身体は脂汗を流しだす。喉を抑えつけられる苦しさに、目の端に涙が浮かんだ。この痛みは本物か? それとも夢の続きなのか? それさえも分からなかった。
しかし、こうやって痛みに呻いている間にも気配は遠ざかり、闇に溶けて消えていく。
どうして離れていってしまうんだ!
焦燥が心の奥底から湧き上がる。見失ってしまえばもう会えず、二度と取り返しのつかない事になってしまう。不安と恐怖が交互に頭をもたげて、絶望へと駆り立てる。
あの温もりを、失いたくはない。
母の首に縋る子供のように、幻影すらない虚空へと必死に腕を伸ばす。
もう少しで届くと確信した瞬間――俺の意識は覚醒した。