明日の約束
以前投稿していたもののリメイク版です。ほぼ同じ内容。中盤くらいが少し違うだけとなっております。
静まり返った部屋に着信を知らせる機械音が鳴り響く。俺は、人によって音を変えるという面倒くさいことをしているわけではない。だから、どの音も同じのはずだ。けれど、画面を見る前から、相手が誰なのかわかった気がした。
―大池瑞希―
ディスプレイに映る文字が俺の予想が正しかったことを証明する。
「…もしもし?」
「あ、翔くん。あのさ…今から行ってもいい?」
突然の言葉。けれど、それは「いつも」のことだった。
元気のない彼女の声。それでも、『どうかした?』と問う権利を俺は持っていない。また彼と何かあったのだろうと想像するだけだ。
「いいよ。いつもみたいに鍵をかけないでおくから、勝手に入ってきて」
「翔くん。いつも思うけど、それ不用心だよ。インターフォン鳴らすから、鍵かけておいて」
心配そうに言う彼女。
『そう思うなら、早く来てよ』
俺はまた、言えない言葉を飲み込んだ。
「嫌だよ。面倒くさいじゃん」
「…翔くんは本当に面倒くさがりだよね」
「今更だろ?それより、暗いから気を付けてね」
「ありがとう。それじゃあ、今から行くね」
切られた電話。もう相手と繋がっていないことを知らせる単調的な音。それがやけに耳につく。
いつからだろう。こんな夜に、君が俺のもとに来るようになったのは。
いつからだろう。俺が彼の代わりになったのは。
大学を卒業して2年。仕事にも少しずつ慣れてきた頃開かれた大学時代の友達との同窓会。俺はそこで、瑞希と再会した。同じゼミの仲間。飲み友達。そして、秘かに想いを寄せていた彼女。けれど、瑞希には年上の彼氏がいたから、仲のいい友達の域を超えることはできなかった。
2年ぶりに会った彼女は、長い黒髪が似合う大人の女性になっていた。
瑞希と会わなかった2年間、誰とも付き合わなかったわけじゃない。けれど、久しぶりに会った瑞希に俺の胸は馬鹿みたいに音を立てた。
好きだと伝えることすらできなかった恋。それを叶えるチャンスだと思った。けれど、人生はそう甘くはない。瑞希は、大学の時に付き合っていた彼氏と今も続いているようだった。
幸か不幸か。その同窓会をきっかけに、俺たちは大学時代のような仲に戻った。就職が決まったタイミングが違ったため、詳しい話はできていなかったので知らなかったが、実は、職場が近く、住んでいるアパートもそれほど遠くないらしい。そのおかげで、俺と瑞希は仕事終わりに、愚痴を言いながら酒を一緒に飲むようになった。それが半年前。
そして、瑞希が俺の部屋に入ってきたのが、3か月前だ。酔った瑞希の駄々に屈し、俺は瑞希を部屋に招き入れた。そして聞かされたのは、彼氏の愚痴。「ほかに付き合っている人がいるみたい」「最近冷たい」視線を落としながら、力なく発せられたのはそんな言葉だった。その肩を落とす様子に、彼を好きだという気持ちが伝わってくるようで、俺は再び思いを告げる前に失恋をしたのだ。
けれど学生時代と違うのは、そのあと俺が瑞希を抱いたことだろう。
瑞希の口から「抱いて」という言葉が飛び出した。「忘れたい」と。酔っぱらいの戯言。ただ心が弱っていただけのこと。けれど俺の理性は瞬く間に崩れ去り、瑞希に手を伸ばしていた。
自分から仕掛けたくせに、瑞希は、ぎゅっと目をつぶり、ただ耐えるようにしていた。俺は、ただ、彼の代わりになった。
それでもいいと思った。瑞希に触れられるなら、瑞希が頼ってくれるなら、それでも。
「お邪魔します」
その声と同時に、聞こえた鍵を閉める音。鍵を閉めない俺の代わりに鍵を閉めてくれる。それが嬉しくて、でも同時に、不安を覚える。こんな関係がいつまで続くのか、と。
早く終わらせたほうがいい。ずっと続けばいい。2つの矛盾した思いを抱え、答えを出せないままもう3か月。彼女に答えを委ねるのは、卑怯だろうか。
「大丈夫だった?」
「うん。だってすぐ近くだもん」
俺のアパートは瑞希のアパートから、徒歩10分もあれば着く位置にある。それでも、こんな暗い夜を女性が一人で歩くのは危ない。それでも彼女はここに来るのだ。
俺は、キッチンに行き、コーヒーを入れた。砂糖とミルクを入れたカップを渡すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「わ~、ありがとう」
「どういたしまして」
いつだって、瑞希が家に来るのは突然だ。それでも、ほかの子と会う約束を破ってまでも、俺は瑞希を優先させる。バカみたいだと思いながらも瑞希からの電話を断ることが俺にはできない。
「暖かくなってきたけど、外は冷えただろ?お風呂、温かくしてあるから、入ってくる?」
俺の言葉に、瑞希は俯き、小さく頷いた。そこにはどこか、困ったような表情。当たり前のように風呂をすすめる俺。それに困りながらも頷く彼女。俺と瑞希の関係は何と言うのだろうか。
カーテンを閉め、電気を消した。部屋が暗闇に覆われる。俺は、瑞希をベッドの上に寝かせ、まだ乾ききっていない彼女の長い髪に触れた。瑞希はいつものように固く目を閉じている。
それはいつものことだった。俺が彼の代わりになるのはいつものこと。けれど、俺は、彼女に触れる手を止めた。なんだかひどく胸が苦しくなったのだ。
いつだって俺の瞳に映るのは、暗い部屋の中で目を閉じている瑞希だ。これからもずっと、夜の間だけ目を閉じたままの瑞希を見ていく。そんなこと、3か月前のあの日からわかっていたことだった。わかっていたことなのに、今更苦しくなるなんて、俺はなんてバカなんだろう。
「…翔くん?」
「瑞希。俺は、瑞希の…彼氏じゃないよ」
俺の言葉に瑞希は目を開けた。大きく、澄んだ瞳。さっきも見たはずなのに、なぜか久しぶりに見たような気がした。
「俺は、瑞希の彼氏の代わりなんかじゃないよ」
なんで、こんな言い方しかできないのだろう。責めるような言い方。瑞希だけが悪いみたいだ。けれど本当に悪いのは俺だ。俺がすべきことは、瑞希の手を取ることではなかった。伸びてきた手を拒み、『大丈夫だよ』と声をかけてあげることだった。だって、瑞希はただ逃げていただけだ。彼氏とうまくいかなくて、大好きな彼氏にほかの女の影が見えて、焦っていただけ。
瑞希が彼を好きなことなんて、俺が一番知っていたはずだ。だって俺はずっと瑞希を見てきたのだから。大学時代も飲むようになった今も。
泣いている瑞希の背中を叩き、『ちゃんと話し合えよ』と押してあげればよかったんだ。
けれど俺にはそれができなかった。笑う顔も、怒る顔も、全部、自分のものにしたかった。長い髪も、柔らかい胸も、全部、全部、俺だけのものにしたかった。
俺はだめな人間で、好きな人からやっと伸ばされた腕を振り払うことなんてできなかった。その手を取ったところで彼女が手に入るはずがないと知っていながらも、俺は、目に見える距離だけでもゼロにしたかった。
でも、やっぱり違うのだ。触れるだけでは何も手に入らない。身体が手に入っても、俺の欲しいものは何一つ手に入らない。
「…今まで、ごめん」
「え?」
「本当に、ごめん」
「…翔…くん…?」
「瑞希が逃げてるだけだってわかってたのに。ごめん。……それでも、ずっと、好きだったから。大学の時から、ずっと。だから、…瑞希に触れたかった」
「翔くん…」
「本当に、ごめん。俺がすべきなのは、友だちとして背中を押すことだったのに、最低なことしてごめん」
頭を下げた俺に、瑞希は絞り出すように「違う」と言った。顔を上げれば、目に涙を溜めた瑞希がそこにいた。
「違うの。…彼の代わりなんかじゃない」
「嘘言うなよ」
「嘘なんかじゃないよ」
何を言っているんだろうと思った。いつだって、現実を見ないように頑なに目を閉じていたくせに。
「嘘じゃない。彼とはもう別れたの」
「今までそんなこと…」
「うん。言ってなかった。だって、言ったら…翔くん、離れていくでしょう?」
そう言う瑞希の顔がひどく悲しげで俺は、何も言うことができなかった。けれど反応を期待していなかったのか、瑞希は弱弱しい声で言葉を続けた。
「翔くんとまた会うようになって、一緒にいられる時間が楽しく思えたの。大学時代に戻れた気がした。逆に彼と一緒にいる時間は苦しくなった」
「…」
「私ね、大学に入る少し前から彼と付き合い始めてて、今までずっと彼といたんだ。…だから、彼の傍にいるのが当たり前なんだと思ってた。彼がほかの子に手を出しても、彼は私のもとに帰ってくるから、私は何も言わずにただ、彼の隣にいなくちゃいけないんだって」
「瑞希…」
心配する俺の声に瑞希は微苦笑を浮かべ首を振る。
「本当に彼はいつも帰ってきたよ。それが嬉しくないわけじゃなかった。でもね、それはほかの子に勝ったっていう優越感だけだった。彼が好きだから、彼の隣にいたかったわけじゃなくて、義務感みたいなものだったんだと思う。…翔くんと一緒にいるようになってそう気づいたの。もう、ずいぶん前から、私の彼への気持ちは、愛でも恋でもなかったって」
「…」
「3か月前のあの日、彼の愚痴を聞いてほしくて、この部屋に入った。でも、私が抱かれたのは翔くんだった。彼の代わりじゃない、翔くんに抱かれたの」
「…」
「…だって、翔くんが好きだって気づいたから」
彼女の言葉に、俺の頭は追い付いていかなかった。だが、彼女の顔が苦しそうに歪むのをただ黙ってみていただけだった。
「愚痴を聞いてくれる目が優しくて、時々頭を撫でてくれるたびドキドキした。翔くんの口から出てくる女の人の名前に嫉妬したの。あの日この部屋に入って、翔くんの目を見たら、もう自分をだませなかった。彼のことも、私と翔くんの『友達』っていう関係もどうでもよくなっちゃったの。ただ、翔くんの一番近くに行きたかった」
「…なんで、何にも言わなかったの?」
「言えなかったの。だって、翔くん、面倒ごと嫌いでしょう?」
「…」
「こんな関係が、楽なのかと思ったら言えなかった。こんな関係じゃないと、一緒にいられないと思ったら、…言えなくなってた」
「なんで、今更そんなこと…。いつだって、目を閉じて、俺を見なかったのは瑞希じゃないか」
俯くように下を見た瑞希に、俺は震える声で言った。
「…私を抱く翔くんを見たら、言ってしまいそうだったから、『好き』だって。でも、それは言っちゃいけない言葉だったから…」
「…なんだよ、それ」
「ごめん。言わないつもりだったのに。面倒な人になりたくなんてなかったのに」
小さな声で何度も「ごめん」を言う瑞希を俺は強く抱きしめた。肩が震えている。
「謝らないで。俺も、瑞希が好きだから」
俺の言葉に、瑞希の肩が一瞬上がる。俺は回した腕に力を込めた。瑞希の腕が背中に回った。強く抱きしめられる。
「瑞希」
名前を呼べば、瑞希の顔が上がる。涙で濡れた顔は、どこか幸せそうに笑っていた。
好きだと思った。どうしようもなく、彼女が好きだと。長い髪も、大きな目も。すべて好きだと。
遠回りをした。馬鹿みたいな遠回りだ。俺の意気地がないせいで、彼女を何度泣かせただろう。好きだと伝えていれば、彼女を泣かせることもなかったのかもしれない。けれど、きっとこの遠回りでなければ、俺たちは結ばれていないのかもしれないとも思った。
「瑞希」
「…何?」
身体が繋がるだけじゃ、ダメなんだ。彼女の目に、俺が映らなければ。彼女が呼ぶ名前は俺じゃなければ。隣を歩くのは、俺じゃなければダメなんだ。
「瑞希」
「…翔くん」
「好きだよ」
「…私も。私も好き」
触れるだけじゃなく、『好き』という言葉が聞けなければ、意味がない。
「一つ、わがままを言ってもいい?」
「わがまま?初めてだね」
瑞希が小さく笑う。そういえば、瑞希にわがままなど言ったことはなかった。
「明日、デートに行かない?」
「え?」
「明日の約束がしたいんだ」
瑞希に会うときは、瑞希の都合だった。それも、大抵が俺の家。ただ、身体を繋げるだけ。
「明日、外で会おう。おしゃれして、外でおいしいものを食べよう。普通の恋人みたいに」
「…うん」
泣き出しそうな顔して頷く瑞希をもう一度抱き寄せる。
「約束だよ」
「約束」
たくさん傷ついた。それ以上に、たくさん傷つけた。けれど、そうだったからこそ、気づけたこともある。明日の約束ができるのは、幸せなことなんだと。未来の約束ができるのは、幸せなことなんだと。 だって、明日、一緒にいると互いが信じているということだから。未来も一緒にいると、互いに願えているということだから。
本当は、「ごめん」をもっと言わなければならないのかもしれない。けれど、今は、好きだという気持ちを伝えよう。謝罪の言葉は、これから先、何度だって、伝えられるのだから。 だから、今は、俺にできる、最大限の愛の言葉を、贈るよ。
「瑞希。愛してる」
その言葉に、瑞希は幸せそうに笑った。
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