第三話
僕の部屋は四階の一番奥にあった。
「着いたよ。お疲れ様」
僕はそう言いながら鍵を開け、ドアを開いて美智子を招き入れた。まだ昼間ということもあって、電気を点けなくても部屋の中は充分に明るかった。六畳程度の狭い部屋とお情け程度のキッチン。玄関のすぐ脇に小さなユニットバスがあって、設備はそれで全てだった。部屋の中央には布団だけ外した、出しっ放しのコタツが当時から居座っていた。その周囲を取り巻くように家具が配置されている。
「ふぅん、結構片付いてるね。これなら合格だよ」
美智子は部屋を軽く見回してそう言った。結構どころではないのだが、以前の姿を見ていない人にとっては、結構どまりのレベルと言うことなのだろう。もともと物が多いから、そのせいもあったかもしれない。
荷物を部屋の隅に置いて、ジャケットをカーテンレールに引っ掛けてあったハンガーにかけて、美智子はいそいそとコタツの側に腰を下ろした。
「よし、それじゃあ早速ラーメンをご馳走になろうかな」
僕を見上げて彼女はそういった。
「はいはい、少々お待ちください」
そう言いながら僕はキッチンに立ち、鍋に水を張って火にかけた。さあ、調理開始だ。などと、意気込んでみたところで所詮はインスタントラーメン。沸いた湯の中に麺を沈めてかき回すだけ。僕は油断すると飛び出しそうになるあくびをかみ殺しながら、鍋の中に突っ込んだ箸を動かし続けた。
それ程時間のかかることなく、コタツの上に湯気の立つ丼が二つ並んだ。
「お待ちどうさま」
そう言いながら、僕は湯気の立つ丼を美智子の前に置いた。上にスライスチーズを乗せたスペシャルデラックス版だ。
「おお、美味しそう」
美智子はそう言ってニコニコしながら割り箸を手にとり、二つに割った。その隣のスペースに丼をもう一つ置き、僕も腰を下ろした。
「いただきます」
胸の前で合掌し、軽く会釈をしてから、美智子はラーメンに箸をつけた。ずるずるっと小気味の良い音を立てて麺をすする美智子。旨そうに食べてくれる。
「美味しいね」
「それは何より」
実際のところは、誰が作ったって同じ味になるのだろうけど、その時は素直に嬉しいと感じた。
三十分ほどで昼食は終わった。丼を片付けた後、しばらくは他愛の無い話をしていた。映画のこととか、一人でいるときの休日の過ごし方、好きな旅行先などなど。まだまだ美智子の知らない部分が出てきて、新鮮で楽しかった。いつの間にか眠気もどこかへ去っていた。
やがて美智子は部屋の中の色々なことに興味を持ち始めた。始めに目を向けたのはCDを立てているケースの中身だった。
「何か、古いCDばっかりだね」
並んでいるCDをざっと眺めてから、ちょっと不満そうに美智子は言った。
「別に良いじゃん。好きなんだもの」
「最近ので、お気に入りとか無いの?」
「んー、ゆずの夏色とか」
思いついた曲を適当に口にしてみた。その瞬間、美智子の顔がパッと輝く。
「うんうん、私も好き。いいよね、あれ。・・・新しくは無いけど」
「え?そうなの?」
「そうだよ。CD無いの?」
ずーっと指でCDジャケットの背中を追いかけていく美智子。もちろん無い。
「無いよ」
「買えばいいのに」
「それ一曲しか知らないし」
「買ってみたら、他にもいい曲があるよ?」
美智子はそう言ってくれたけど、僕はまるで興味が無かったので肩をすくめて終わらせた。大体、「夏色」だって思いついただけだ。本屋でかかってる有線で何度か聞いたことがあって、いい曲だなと思っていたことがあった。そのあと、芸人とかが物まねして歌うような番組でタイトルを知ったのかな。
次に美智子が目を移したのは本棚だった。
「本がいっぱいあるよね。何冊ぐらいあるの?」
「何冊ぐらいかなぁ。実際に数えたこと無いんだ」
本を読むのは昔から好きだった。一人暮らしを始めるに当たって、一番悩んだのは本の取捨選択だったほどだ。結局、段ボール箱で十箱までは減らしたが、それ以上はどうしても無理だった。
そういうわけだから、部屋の中にはもともと結構な量の本がある。それに加えて、当時、僕が大学で専攻していた国文学関連の書籍を総合すると普通のご家庭には無さそうな量になっていたことは間違いない。それでも古書店に売りに行ったりして、それなりに増加は抑えているつもりだった。
僕の返事に美智子は「ふぅん」と呟き、それから熱心に本の背表紙を眺め出した。
「就職活動してる?面接の本とか持っていたら、来年借りるかも」
美智子は本棚を眺めながら、ふとそんなことを口にした。
「ああ、俺、大学院に行くんだよ。言ってなかった?」
僕が何気なくそういうと、美智子は少し驚いたような顔で僕のほうを見た。
「そうだっけ?忘れちゃった」
「そっか。多分、そっちのほうが先に就職するんじゃない?」
「そう・・・」
そういった美智子の顔は、心なしか悲しげに見えた。しかし、それも一瞬のことだった。
「いいなぁ、一人暮らし。楽しそう」
しばらく本棚を見回した後で、美智子は再び腰を下ろしながら呟くようにそう言った。
「楽しいよ。美智子もすれば?」
何の気なしに僕はそう呟いた。大学の知り合いの中にも、何人か一人暮らしをしている女の子を知っていたし、やってみて分かったのだけど一人暮らしはやって置いて損は無い。
「うん、でも私、大学地元だしね。親が許してくれないんじゃないかなぁ」
「厳しいんだ?」
「うん、家を出たいな、とは思っているんだけどね」
そこでふと沈黙が訪れた。何か言おうとしたけれど、それより先に眠気がやってこようとする。口をあけるとあくびが一緒に出てきそうだった。何とか目を開けながら黙っていると、美智子が再び口を開いた。
「そうだ。夕飯は私が作るからね」
美智子の口から出た突飛な言葉に、僕はかなり驚いてしまった。
「そうなの?てっきり何か食べに行くのかと」
「何?不満?」
そう言って僕をじっと見る美智子は、いつもどおりの美智子だった。
「え、いや、そんなこと無いよ。ただ・・・」
「ただ・・・?」
「胃薬、あったかなって」
僕がそういい終わらないうちに、美智子の投げたクッションが僕の顔面に思い切り当たった。
「バカったれ。仮にも彼女がご飯を作ってくれるって言うんだから、素直に喜びなさいよね」
「はい、すみませんでした」
クッションを抱えたまま、僕は素直に謝った。目が、ちょっと怒っていた。
「んで、何が食べたい?」
美智子の問いに、しばし僕は考えた。そもそも、美智子は何が作れるのだろうか?料理が得意と言う話は今までに聞いていなかった。ついでに言えば、うちにある設備でどのぐらいのものが作れるのだろうか。料理なんてまるでしない僕には、イマイチ見当もつかなかった。鍋も包丁も新品同様だ。
「なんでもいいよ。作れるもので」
結局僕はそう答えた。
「むう、そういうのが一番困るんだよ?作ってもらう側はちゃんと考えないと」
この答えはアウトだったらしい。それでも一つため息をついた後で美智子はこういってくれた。
「それじゃあ、ちょっとキッチンを見せてもらってもいい?」
悪いわけもない。二つ返事で僕は了承した。僕と美智子は連れ立ってキッチンに行った。見た目からして古びた狭いキッチンだ。料理をすることなんて、あまり想定していないのかもしれない。
美智子はまず冷蔵庫を開けた。
「わ、物の見事に空っぽね」
美智子はあきれたような、それでいて感心したような声を上げた。そりゃまあ、全部捨てたからな。冷蔵庫を閉め、それから美智子は調味料の棚をチェックし始めた。
「えーと、お塩、お砂糖、お醤油・・・、みりんは無いのね。あれ?このお醤油、賞味期限が切れてるよ。駄目よ、こんなの置いてちゃ」
醤油に賞味期限があることを、僕はこのとき初めて知った。
「とりあえず、料理をしてないことは良く分かったわ。買出しに行かないと駄目みたい」
予想通りの結論だ。時間はたっぷりあるので、とりあえずスーパーに行ってから何を作るか決めようということになった。




