第二話
彼女の名前は今村美智子と言った。
僕より一つ年下。
美人ではないが愛嬌のある顔立ちをしていた。
明るくて、人当たりもいい。そう言うところに僕は魅力を感じた。
知人からの紹介で知り合った。
ネットの掲示板で、映画の話で盛り上がったのが始まりだった気がする。
盛り上がった挙句に、お勧めのDVDを持ち寄り、それを見ながら飲んで語ろう、という話になったのだ。
彼は「クイック&デッド」と言う映画を持ってきて、ラッセルクロウのガンアクションについて熱弁をぶちまけてくれた。僕はそれについて全く無視して、「ワンス・ア・ポンア・タイム・イン・チャイナ」のリー・リンチェイが如何に切れのあるアクションを展開しているかについて映像と共に熱く語りつくした。
お互い酒のおかげでお互いの話を一切聞かなかった。ただ、気持ちよく喋りまくる事が出来たおかげで随分仲良くなったと思う。何度かそう言う機会があって、彼はいつも西部劇、僕はいつも香港映画を披露したが、お互いのジャンルに踏み込むことは全くなかった。
要するに、日ごろ自分が気に入った映画について感じていることを、誰かに向けて発信したかっただけなのだ。
そしてある日、彼はいつもと違って僕を酒に誘った。連れてきたのは、彼の後輩という女子が二人。片方はどことなく派手な装いの子で、もう一人は眼鏡に黒いセミロングの髪、露出少なめの服と大人しい雰囲気の女子だった。
その大人しい雰囲気の子が美智子だったのだ。
冒頭で述べたとおり、彼女は明るくて人当たりのいい性格だった。大人しめなのは見た目だけだったというわけ。
彼女はドニー・イェンについて語った。一方派手目の子はジョージ・クルーニーがお好きなようだった。どちらが僕の好みの話か。考えるまでもない。ジョージ・クルーニーが好きなら、嵐の中に漁船で突っ込めばいいと思う。
そういう分けで、ファーストコンタクトから随分と話の合う人だと思っていた。
その場で連絡先を無事に交換し、ゆっくり話してみるとさらにその思いは強くなった。例えば食の好みや、出かけ先の傾向まで似通っていたから、当然のように話は弾んだ。
美智子のほうもどうやら同じことを思っていたようで、いつの間にか二人で遊びに出かけるようになっていた。
会わせてくれた男性とはその後も暫く、会ったりメールしたりしていたが、ある日外国に行かないといけなくなったといって、それっきり音信不通になった。楽しい人だったので、残念に思ったが、その頃には美智子と付き合い始めていたし、やがてその人は記憶の彼方へと消えて行った。
付き合い始めて、色々とあって、あっという間に一年が過ぎた。
四回生になった僕は卒業論文という初めて出会う大きな壁を前に苦しんでいた。一回生から三回生にかけて、授業をそっちのけにしていた代償は意外と重く、正直卒業も危なかった。四回生の癖に、週五でびっしりと時間割が埋まっているのはどうだろうか。どうもこうもやるしかなかったわけだが。なぜならば、僕は大学院の試験を受けて、ついでに合格していたからだ。これについては、既に三回生の始めごろには決めていた。親は反対したけれど、自分の蓄えを全て吐き出して、勝手に進むことを決めてしまっていたのだ。
「愚行の見本だな。うん、辞書に用例として書き加えておこう」
当時、僕と同じぐらい授業を残していながら、日々遊びまわっていた柳沢からはそんな気の利いたジョークまで言われた。ただ、そのジョークに対して、鉄拳を振りかざす暇が無いほどに忙しく、人生でも二度とないぐらいに死に物狂いだったことは間違いない。
美智子は当時三回生で時間が溢れているときだったけど、会う回数は当然のように減っていた。
夏が過ぎて秋も深まりつつあったある日のことだった。その頃の僕と言えば、忙しさもピークに達し、コピー代や電車代で懐も寒く、まさに一人だけ冬の中にいた。
「コピーロボットがあったら、借金してでも買うね」
こんな言葉が口癖になっていたぐらいだから、その忙しさも計り知れようと言うもの。そんな状況にあるから、当然美智子もほったらかしになっていた。相手をしてくれない僕に業を煮やしたのか、美智子は電話をかけてきて僕にこう言ったのだ。
「ねえ、遊びに行ってもいい?」
眩暈がした。昼は大学、空き時間は論文の資料集め。夜は先輩の付き合いで麻雀したり、酒を飲みに連れ回されたり。部屋では寝るだけ、喰い散らかすだけ。そんな生活をしていて、部屋が綺麗なわけもない。正直、ゴミ捨て場のほうが日光を頻繁に浴びている分清潔だったと思う。
「えーとね、今は部屋がごみためだから無理」
「んじゃ、掃除して」
なかなか頑固だ。何しにくるんだろうか。適当なデートスポットを幾つかあげてみたけれど、そのときの彼女の意思は鉄よりも固かった。
「じゃあ、今度の土曜日。ね?」
有無を言わせぬ美智子の口調に、僕は了解してしまった。
電話を切って改めて部屋の中を見回した僕は、とにかく大きなため息をつくしかなかった。大体、この部屋の床は何色だったかな?今日が水曜日だから・・・猶予は二日しかないじゃないか。
それから大慌てで掃除を始めた。1Kという狭苦しい間取りの癖に、出てきたゴミはゴミ袋で七つにも上った。その隙間から出てきたゴキブリの数は・・・もう覚えていない。
溜め込んだ洗濯物も一度では洗濯しきれず、ベランダはたちまち洗濯物で一杯になった。そうやってまず溢れ返ったものを片付けてから本格的に掃除をして、結局丸一日掃除に費やし、どうにか人を呼べる部屋にした。ちなみに残りの一日は、僕自身を小綺麗に装うべく散髪やら何やらに費やした。何しろ、髪は括れるほどに伸びていたし、髭もろくにそっていなかったから、鏡で自分を見るのも嫌だった程だ。
土曜日、僕は駅にいた。ここで待ち合わせて、それから僕の家に向かう段取りになっていた。家に女の子が来るなんてのは初めてだったから、さすがに緊張していた。ついでに言えば、少し寝不足だった。
土曜日が丸一日潰れるので、金曜日の夜は少しでも資料をまとめておこうとして、頑張りすぎてしまったのだ。気がついたら朝の五時。約束の時間は昼前。十時ぐらいまでは眠れるので、五時間は眠れる計算だったけど、なかなか寝付けなくて、結局日が昇るまで起きていた。それからやっと眠れたけど、三時間ぐらいしか眠れなかったのだ。普段ならそれでも良かったけど、何しろ連日の溜まった疲れのせいで、体は酷く重たかった。
駅の改札は休日だというのに人でごった返していた。暇人が多いなぁ。そんなことを考えていると、改札機の向こう側で左右に揺れている手が見えた。見覚えのあるジャケットの袖口。視線を下にずらすと、はたして美智子だった。いつもより少し大きめの鞄を肩にかけ、よたよたと人ごみに流されかけながら歩いている。彼女は改札を出てまっすぐに僕のところに来た。
「お待たせ、久しぶりだね」
「お疲れさん。待ってないよー」
家にいると、また寝てしまいそうだったから、僕が早く来過ぎていただけだ。美智子は見事に約束の時間通りについていた。
「よし、それじゃあ早速行こうよ」
嬉しそうに笑って美智子はそう言った。
「はいはい。ああ、荷物」
「あ、ありがとう」
美智子は素直に、差し出した僕の手に鞄を預けた。見た目よりは随分と軽い。
「凄く楽しみだね」
そう言いながら美智子は自由になった手で、無造作に僕の腕を取った。もちろん今まで手を繋いだ事が無かったわけではない。けど、そのときの彼女の仕草はとても自然で、何と言うわけではないが幸せを感じた。
「昼ご飯、どうする?」
僕が尋ねると、美智子は一瞬考える素振りを見せたが、すぐに返事をしてきた。
「家に行って食べる。何かあるでしょ?」
そう言われて、今度は僕が考えるはめになった。冷蔵庫は空っぽだ。掃除の際に開けてみると、賞味期限が切れたものばかりだったので、全て捨てたのだ。
「インスタントラーメンしかないかも」
「それじゃあ、それでいいよ。お昼だし」
意外にも美智子はあっさりと納得した。
「そのかわり、作ってね」
僕を見上げてくる美智子。
「いいよ」
作りなれたインスタントラーメンだし、味は決まりきっている。失敗の余地が無かったので、僕も気軽に了解した。
築数十年は確実に過ぎているであろう、古びたアパート。かろうじて鉄筋コンクリートなのだが、塗料はあちこち禿げ上がり、ベランダの手摺も錆が目立つ。見た目は一寸アレだけど、家賃も安いし僕は気に入っていた。
「なかなか雰囲気のあるところだね」
それが美智子の第一声だった。気を使っているのが一目で分かるほど浮かない顔をしている。まあ、無理も無い。
「ここの四階なんだ」
僕はそう言いながら、先に立ってアパートの中に入った。このアパートは両側に部屋があって、その真中を廊下が通るという構造になっていたから、日中でも薄暗く、コンクリートが剥き出しなので音も響く。
「夜はちょっと怖いかも」
そう言いながら美智子は周りに視線をめぐらせた。
「蛍光灯が点くから大丈夫」
たまに切れてるけどね。と言うのは内緒にしておいた。美智子の浮かない顔はあまり良くならなかった。まあ、蛍光灯がついたって、怖いのは怖いのだろう。
「そうじゃなくってさ・・・」
「え?何が?」
「・・・いいよ、なんでもない」
そう言って美智子は僕の手をほんの少しだけ力をこめて握った。




