ぼくのかお
ぼくは、顔を落としてしまった。
たしか、昨日まではあったはずなんだけど……
鏡を見ても、顔のあった場所はつるつるで、目と、鼻と、口が、ない。
だけど、鏡に映るつるつる顔の〝ぼく〟は見えるし、息は出来るし、声も出る。
へんだなあ。
ぼくの顔は、どこにあるんだろう。
そこで、昨日歩いた場所をもう一度歩いてみることにした。
まずは、いつも買いに行く三軒先のパン屋さん。
すると――
「あんれまあ!」
パン屋のおかみさんは、ぼくの顔を見るなり腰を抜かしてしまった。
「ぼくだよ、ぼく。ねえおかみさん、ぼくの顔、落ちてなかった?」
「顔かい? そういえば、そこの隅っこにひくひく動く鼻が落ちていたよ。それより、おっかないから早く出て行っておくれ」
ぼくは、鼻を拾ってお店を出た。
つぎに、お庭の花を買ったお花屋さん。
すると――
「ひゃああ!」
お花屋さんのおじさんは、お口を大きく開けて驚いた。
「ぼくだよ、ぼく。ねえおじさん、ぼくの顔、落ちてなかった?」
「顔かい? そういえば、そこの大きな花の上にギョロギョロした目が落ちていたよ。それより、おっかないから早く出て行っておくれ」
ぼくは、目を拾ってお店を出た。
つぎに、ふかふかの草が生えているお昼寝をした小川。
すると――
「わっ!」
釣りをしていたおじいさんは、持っていた釣竿を落としてしまった。
「ぼくだよ、ぼく。ねえおじいさん。ぼくの顔、落ちてなかった?」
「顔かい? そういえば、さっき釣り上げた大きな口がバケツの中にあるよ。それより、おっかないから早く帰っておくれ」
ぼくは、口を拾って家に帰った。
鏡の前で、目と、鼻と、口をくっつっけてみた。
「あれえ? ぼくの顔、こんなんだっけ?」
右にずらし、左にずらし、上にあげ、下にさげてみた。
だけど、ちっともぼくの顔らしくみえない。
そこで、ぼくをしっている人に直してもらおうと、もう一度家を出た。
まずは、パン屋のおかみさん。
「ねえねえおかみさん。ぼくの顔、直してもらえないかな」
「はて、君の目はこうだった気がするよ」
ちょちょいのちょい。
お礼を言って、家に帰り、鏡を見た。
「うーん、なんか違う気がする」
つぎに、お花屋さんのおじさん。
「ねえねえおじさん。ぼくの顔、直してもらえないかな」
「ふむ、君の口はこうだった気がするけど」
ちょちょいのちょい。
お礼を言って、家に帰り、鏡を見た。
「うーん、なんか違う気がする」
こんどは、釣りをしていたおじいさん。
「ねえねえおじいさん。ぼくの顔、直してもらえないかな」
「ほほう。君の鼻はこうだった気がするわい」
ちょちょいのちょい。
お礼を言って、家に帰り、鏡を見た。
「うーん、なんか違う気がする」
ぼくのことを知っている人に直してもらったはずなのに、ぼくだという気がしない。
困ったな。困ったな。
空はすっかり暗くなってしまった。
トボトボと外を歩いていると、温かな光が零れる建物が見えた。
なんとなく近づくと、パン屋のおかみさんと、お花屋さんのおじさんと、釣りのおじいさんが話をしていた。
「見たかい? あの男の子」
「見た見た。あれは誰なんだ」
「知らないねえ。知っていたら顔の一つも思い出すんじゃが」
三人は、ヒソヒソとぼくの正体について話していた。
ぼくは、信じられない思いでいっぱいだった。
いつもパンを買いに行っているんだよ?
いつもお花や野菜の種を買いに行っているんだよ?
いつも、釣りの成果を見せてもらっているんだよ?
なのに、ぼくの顔がおもいだせないっていうんだ。
そこで、ふと思い出した。
おかみさんも、おじさんも、おじいさんも……
ぼくの名前を知らなかった。
ぼくを、ぼくだと知らなかった。
じゃあ、ぼくは、誰なの?
じゃあ、ぼくは、誰だったの?
その場にいられず、ぼくはがむしゃらに走った。
走って走って、辿り着いたのは、あのふかふかの草が生えている小川だった。
そして、お月様に向かって、わんわん泣いた。
ほっぺたに川ができるほど、泣いた。
どれほど時間がたったのか分からないけれど、いつの間にか寝ていたらしい。
ふかふかの草は大変寝心地が良く。そよそよと風が頬を撫でてくすぐったい。
お空の上にまんまるなお月様が、ぷっかりと浮かんでいた。
つんつん。
ぼくの髪を引っ張られる感じがして、頭の上を手で探ると、ふわふわで温かくて柔らかいものに触れた。
「やあ、いい月の夜じゃのう」
陽気な声で、それは喋った。
「ええと、ネズミ?」
「いかにも。こんな月夜の晩に泣くのはもったいないぞ」
ぼくの手の上で、ひくひくと鼻を動かして、長いひげを揺らした。
「だって、ぼくは誰にも覚えてもらってなかったんだ。ねえ、ぼくはだれなの? 本当のぼくの顔、どこにいっちゃったの?」
「ふむふむ、なるほど。――あいわかった。お前さんは……個性がないのじゃ」
「個性?」
「そうとも。この人がこの人であるという大事な芯じゃ。同じ顔をした百人が、全員同じ名前だったら、誰が誰だか全く分からぬじゃろ? 自分が自分である為には、自分だけの特別な何かを持っていることじゃよ」
「特別な、なにか……」
わかったような、わからないような。
首をかしげるぼくに、ネズミは、ほ、ほ、ほ、と髭を揺らした。
「なぁに、自分で分からぬものは、いずれ分かるものじゃよ」
謎解きのような言葉を残し、ネズミはツンとオオバコの葉を抜き、まるで傘のように掲げて歩き出した。
「雨が来ておる。気を付けて帰るんじゃな」
ネズミが草むらに帰る頃、ぽつぽつと雨が降り出して、ぼくも慌てて家に帰った。
さて、ぼくの顔はどうしたらいいんだろう。
鏡の前に立ったぼく。
元の顔はどんな顔だったのか、さっぱり思い出せないんだ。
あのネズミが言っていた個性って、どうすればいいのかな。
そうだ。一目見たら忘れられない顔なんてどうだろう。
それはとっても素敵な考えに思えた。
目はきりっとし、鼻は大きくして、口も耳までくっ付きそうなほど広げた。
これなら一目でぼくとわかるだろう。
気を良くしたぼくは、明日の朝が来るのが楽しみになった。
しかし、期待していた通りの反応ではなかった――
「ひゃあ! おばけ!」
「ぎゃあ! でていけ!」
「わあっ! 助けて!」
せっかく、ぼくがぼくだとすぐわかるようにしたのに、みんなひどいや!
どうして逃げるの? どうして避けるの?
ぼくだってわかるように、誰にもマネできない顔にしたのに!
「ネズミさん! ネズミさん!」
ぼくは草むらに駆け込み、ネズミを呼んだ。
すると、目をごしごしとこすりながら、ふわあとあくびをしてネズミが草をかき分けてでてきた。
「なんだい。わしゃまだ眠いんじ……ぎゃああっ! 誰じゃおぬし!」
「ネズミさん! ぼくだよ、昨日の夜、おじいさんとお話ししたぼくだよ!」
ぼくの顔を見るなり、へなへなと腰を抜かしてしまったおじいさんへ、ぼくは必死に訴えた。
「みんな、ぼくの顔を怖がるんだ! ぼくだけの、ぼくのほか誰もマネができない顔なのに!」
うわああ、うわああ。
ぼくは、大声で泣き叫んだ。
草の絨毯に転がり、ありったけの声とありったけの涙を溢れさせた。
泣きすぎて、喉も涙も枯れた頃、ネズミはよしよしと僕の頭を小さな手で撫でながら言った。
「お前さん、怖がられた意味わかるかい? 個性は強ければいいものではないのじゃ」
どっこいしょ、とネズミは小さなお尻を石の上におろした。
「いいかい。人は一人では生きていけぬものじゃ。皆と暮らすためには、抑えることも必要じゃよ」
「それこそ個性がないじゃないか」
「そうじゃない。皆で助け合って生きていくには、それぞれが得意不得意なものがあって、ようやく成り立つもの。つまり、皆が同じ能力ではなく、凸凹のように、補い合える関係をいうのじゃ。しかし、それぞれが違う形をして、さらに尖っていたらどうなる? 互いに傷つけあい、噛み合わず、悲しい思いをする……それでは誰も幸せになれんのう。今のお前さんの顔は、尖っておる。そんな恐ろしい顔の前に、誰がわざわざ近寄ろうか」
「ねえ、どうしたらいいの? ぼくの顔、みんなに受け入れてもらいたい。ぼくの個性、認めてもらいたいよ!」
「それなら……君の、幸せな思い出を頭に描くのじゃ」
「幸せな思い出……」
そうはいっても。
ぼくは、顔をなくす前の自分をすっかり忘れていたから、何を思い出していいかさっぱりわからなかった。
首を捻るぼくに、ネズミは助け舟を出してくれた。
「ほれ、今のお前さんの周りの人たちのことを考えるのじゃよ」
あとは自分で、と今度こそ大あくびをしながら、ネズミはまたもや草むらへ帰って行ってしまった。
ぼくは、家に帰って鏡の前に立った。
そこには、目は吊り上がり鼻は岩のようで口が裂けた、恐ろしい顔をしたぼくがいる。
どうしたらいい? ネズミは何と言っていただろうか。
――今のお前さんの周りの人たちのことを考える。
目を閉じて、思い浮かべるのは。
パン屋のおかみさんが作るパンは、とってもおいしいパン。パリパリっとして、ふわふわで、もっちもちの食べていてニッコリと笑顔が零れてしまう、いい香りのパン!
お花屋さんのおじさんが育てるお花は、とっても素敵なお花。赤、青、黄色、たくさんの色で景色がいっぱいにできる、彩り豊かなお花!
釣りをしているおじいさんは、とっても物知り。昔話や知恵の話をたくさん知っていて、お話ししているととっても勉強になる、先生!
するとどうだろう。
顔の表面が、じわんと温かくなった。
おそるおそる、片目を開け、もう一方も開けると、鏡に映る“ぼく”が見えた。
――ぼく……ぼく……これは、僕、だ。
僕、とつぶやいた瞬間、頭の中で風船が割れるような音がした。
そうだ、“これが”僕だ。
一瞬で記憶が戻る。
僕は――被害者の、家族だった。
とある事件で家族全員を失った僕は、好奇な視線で世間に晒されて、気の休まる日など無く過ごして……
悲しめば、喜ばれ、嘆けば、飯の種になる。
僕をどうしたら満足するのだろう。彼らの望む僕とはいったいどんな姿なんだろう。
わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない。
逃げよう。何もかも捨てて。
そう決断できたのは、出来事から一ヶ月も経ったころ。
海辺で拾った小さな貝殻、戯れに僕が撮った写真。そして、一等賞になった運動会のメダル。
それらの何もかも捨てて、ただ、ひたすら、走った。
ぼくを、だれもしらないところなら、どこでもいい。
うんと広い川があった気がする。
うんと大きな海があった気がする。
でも気付いたら、深い深い森の中だった。
飲まず食わずで闇雲に彷徨っていたから、小川の水を飲み、ふかふかで寝心地がよさそうな草むらで、体を大の字にして寝転がった。
ああ、ここは僕をだれも知らない。
開放感でいっぱいになった僕は、久し振りにぐっすりと夢も見ないで寝た。
起きたら、僕の記憶が飛んでいた。けれど、なぜか村の人に助けられたのか、すっかり村に馴染んでいた『ぼく』がいた……
パン屋のおかみさんの所にご飯を、花屋のおじさんの所に散歩を、釣りのおじいさんは……ある意味事情聴取なのかな。僕のことを聞き出すために、いっぱい関係のない事も含めて会話をしていたんだ。
でも、一切自分のことを話さない僕に、次第に興味がなくなったのか、それともあたりまえになったのか――
目や、鼻や、口を無くしたら、それが僕だとは分からなかったようだ。
名前すら名乗らず、僕が僕であるという個性もなかったから、仕方がないことかもしれない。
いま、僕は自分の顔と記憶を取り戻した。
するとどうだろう。
気配が温かく感じられる。
僕を包む何もかもが、優しい。
僕が僕でいても許される、僕が生きていても許される、世界。
ありがとう。
僕は、小さく呟いた。
胸の真ん中がぽかぽかと温かい。胸に手を触れると、じんわりと温かいオレンジ色のボールが四つできた。この気持ちをみんなに渡したくなった僕は、歩き出した。
まずは、パン屋さんへ。
「おかみさん、こんにちは」
「おや君は……いつも店に入るなり、胸いっぱいに匂いを嗅ぐ子だね? いらっしゃい」
「僕のこと、覚えていてくれたの?」
「うちのパンを好きな子だとは知っていたよ。その大きな鼻が、うちのパンを大好きだって教えてくれるもの。覚えているとも」
「……ありがとう」
僕は、胸のぽかぽかを一つ手渡した。
そして、にっこりと笑って、店を出る。
次に、お花屋さんへ。
「おじさん、こんにちは」
「おや君は……いつも花を眺めてはニコニコと笑顔になる子だね? いらっしゃい」
「僕のこと、覚えていてくれたの?」
「うちの花を好きな子だとは知っていたよ。キラキラと楽しそうにうちの花を見ていたからね。覚えているとも」
「……ありがとう」
僕は、胸のぽかぽかを一つ手渡した。
そして、にっこりと笑って店を出る。
次に、釣りのおじいさんへ。
「おじいさん、こんにちは」
「おや君は……いつもわしの所でお喋りする子だね? よく来たな」
「僕のこと、覚えていてくれたの?」
「自分のことはちっとも話さないけれど、わしの話を楽しそうに聞いたり、ほれそこのパン屋や花屋の話をしたりするだろう。覚えているとも」
「……ありがとう」
僕は、胸のぽかぽかを一つ手渡した。
そして、にっこりと笑って店を出る。
最後に、小川にやってきた。
ふかふかの草が、太陽の光でキラキラと輝いて見える。
「おおい、ネズミさん、ネズミさん」
声をかければ、ガサガサと草をかき分けあくびをしながらネズミが出てきた。
「ネズミさん、ありがとう! 僕の顔、戻ったよ!」
「ほうほう。良かったじゃないか」
ネズミは、髭をちんまりとした手でくいくいと扱いた。
「無くしたものは、見つかったんじゃな?」
「うん……。大切な僕の思い出、ちゃんと見つけた」
「そうか」
「これ受け取ってもらえる?」
僕は、最後の一つのぽかぽかを、ネズミに差し出した。
ネズミは小さな手でそのぽかぽかを手に取ると、ああ、と溜息を漏らした。
「ようやく、安心したよ」
「ありがとう」
そしてネズミは、てとてと歩き出し、小川の向こうへと消えた。
「ありがとう……ありがとう、僕の家族」
記憶が戻った僕には、あのネズミの正体がわかったのだ。
ネズミは――僕の家族の想い。
僕一人を残して、いってしまった、僕の家族。
迷子になった僕を心配して、戻ってきてくれたんだ。
泣き笑いの表情で、顔をくちゃくちゃにしながら、乱暴に涙をごしごし腕で拭った。
「僕もいかなくちゃ」
みんなに渡したぽかぽかは、僕の気持ち。
ありがとう、ありがとう。
大好きだよ。
僕はこの世界が大好きだったよ。
世界丸ごと、愛してます。
ぼくの目の前には川がある。
ゆっくりと、一歩踏み出した。
ありがとう