一人イブを楽しむ女(その3)
イブ当日。どうするかは決まっていた。だけど、何をするかは決まっていない。浅い眠りは憂鬱な気分を晴らしてはくれないが、キンと冷えた早朝の外気は今年の誕生日が例年と違うことを期待させる。が、根拠はない。
分厚く切ったトーストをほおばりながら、年末の雑事をチェックする。年賀状はすでに表裏をプリンターで印刷し投函した。部屋の掃除は、なんとなく気分が乗らないので後回し。クリスマスと年始の飾りつけはしない。実家に帰る切符はすでに購入した。色々考えていると2つほど思いつく。一つは実家で年始に食べる和菓子の調達。もう一つは来年のスケジュール帳の準備。あたしのスケジュール管理はアナログ派。手書きの手帳を愛用している。先日、文具屋で真っピンクな手帳を購入した。目立つ色なら忘れたり、失くしたりしにくいと思ったのよ。
今年のスケジュール帳に書かれた年末以降の予定を新しい手帳に転記していく。重要な個人情報の転記も忘れてはいけない。スリーサイズも一応転記する。ただし、バストとウェストは若干増加した。ふと気になって、今年のスケジュールを見返してみる。5月以降には、出張や社外の打ち合わせの合間に、デートもちらほら入っている。水上碧の28歳の1年は、結構充実していたと思う。いろんな人といろんな所に行ったわ。ゆっくり歩く人、自分勝手に歩く人、猛スピードで歩く人、あたしに合わせて歩く人…… 沢山歩いた…… なんだか無性に歩きたくなったわ。
黒ジーンズをはき、白タートルネックに昨年の誕生日に自分に買ったシルバーのネックレスをする。グレーのフリースジャケットを着こんで、加古先生にもらった純白の帽子にミトン。さらにお気に入りのウォーキングシューズをはけば、すぐにハイになる。
上野公園の西郷さんの銅像に敬礼した。その時、銅像がちらっとこちらを見下ろした。久しぶりの神様の視線だった。
「見守るのは今日が最後じゃ」
突然の宣言に戸惑うが、もう一度敬礼した。
「行ってきます」
少し迷って反時計周りを選ぶ。そう、あたしは、イブの日かつ29歳の誕生日に『一人』で山手線に沿って歩くことにしたの。山手線は1周35km、線路に近い道、線路と平行な道を上手に選んでいけば距離は線路とあまり変わらない。時速4.5km/hで歩けば、8時間ほど。午前中に4時間、午後に4時間歩けばいい。
上野公園からは鴬谷を目指さずに谷中墓地を通る。ここは、ゼンマイ仕掛けの狐さんと行ったところ。今でも携帯片手に型どおりのデートをしているかしらと懐かしくなる。
田端の先から大塚近くまでは線路に沿った歩きやすい道がある。大塚から池袋までは大胆にショートカットして超高層ビルのわきを通る。確かここの上にも水族館があったわ。
池袋は買い物客でごった返していた。ここは特急の始発駅になっている。連絡が取れず、不安を抱えたまま特急に乗ったことがある。行く先には、牛がいて、牛飼い少年がいた。その少年は、時折、会社に顔を出しては、あたしを飲みに誘うが、ここ数カ月は顔を合わせていない。彼ならイブはかわいい女の子と過ごしていそうだわ。
途中、ドーナツとコーヒーで小腹を満たし、分速を80m/minに上げる。大学のわき、韓国料理店のそばを通ってガード下をくぐると新宿副都心。超高層ビルが立ち並ぶ。あの大地震の時、この辺りのビルも相当揺れたに違いない。あたしも散々な目にあった。今でも、時々揺れているような気がする。最初はめまいだと思った。大地震の二日前、たまたま打ち合わせでビルの地下にいた。そうしたらめまいがしてきて体が揺れているような気がしたの。風邪で三半規管がやられたのだと思ったら、他にもそいう人がいて地震だということになった。あの時あの場に居た一人は仙台で被災した。一方、あたしは、こうして元気に『一人』で歩いている。
本命候補は二人いたけれど、結局、最後まで一人に絞ることはできなかったし、その場しのぎでどちらかを選ぶことなんて不誠実なことはできなかった。だからこうして『一人』でイブを楽しみ、『一人』で誕生日を祝うの。侘びしくないと言えば嘘になる。けれど、あたしを思ってくれる人がいる。それだけで幸せだ。
渋谷駅は沢山の路線が交差する若者の街。この地下鉄の改札前で、高校の同級生と別れの握手をした。彼は、あたしに思いをよせていたのだけれど、気がつかなかった。最近まで音信不通だったが、先日、別の同級生から、彼が日本に帰ったきたらしいと教えてもらった。ネットで検索してみたら、アメリカの大手IT企業の日本支社長だったわ。別れる時にアメリカで成功してやると言っていたけれど、その通りみたい。あたしは、エースにもなれず、本命もいないとウジウジしている。やっぱり鍛え方が違うのかしら。
恵比寿でこってりしたラーメンをすする。替え玉も頼んだ。保湿クリームを顔に塗って、スローペースで歩き出す。大崎から品川はショートカットする。下町の電気メーカーがちらりと見える。加古先生はここのモーターを愛用している。義手には最適なモーターと言ってたわねと思っていたら、本人から電話がかかってきた。
「もしもし、加古寛です」
「あ、碧です。こんにちは」
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「今どこ?」
一瞬、2日前の嘘を繰り返そうかと思ったけれど、嘘をつくのはエネルギーがいる。正直に答えることにした。
「もうすぐ品川駅」
「何をしているのですか」
「歩いているわ」
「一人で?」
「…… ノーコメント」
「…… ということは、一人ですね。また、後で電話します」
と一方的に電話が切られた。今の電話はなんだったの?
品川からは国道を歩く。途中、江戸の南出入り口だった大木戸を通過する。空港へ行くモノレールとお台場に行くゆりかもめが見える。再び加古先生から電話がかかってくる。
「もしもし、加古寛です」
「また電話? なによ?」
冷たい返事を返す。
「今どこ?」
「浜松町。先生、何度も電話してきて、今日は暇なの? 今、何をやっているの?」
「微分」
「はあ? それじゃあね」
今度はこちらから一方的に電話を切った。
切った途端に電話がかかってきた。また加古先生かと思ったら、渡だった。
「よ、元気?」
「元気も何も昨日会ったばかりじゃない」
「そうやった。ところで、碧へのプレゼントを今、買うたところや」
「昨日言っていた誕生日プレゼント? 『今』、買ったの?」
「そう、今。買いたてのほやほややで」
「まさか、焼き芋じゃないでしょうね」
「焼き芋やったりして」
「冗談でしょう! これ以上、あたしを太らせる気?」
「冗談、冗談。でも、はよ、わたしたいんやけど、今どこ?」
「今、浜松町だけど…… 」
「丁度ええ。浜松町の隣の新橋駅で30分後に待ち合わせや」
「ちょっと、忘れたの? 24日は会えないって昨日言ったじゃない」
「とにかく、俺は行くから」
そう言って、渡は一方的に電話を切った。今日は、渡にも加古先生にも会わないと決めていたのに…… まったく、何なのよ。
あたしは予定通り北上する。新橋はすぐそこ、15分程で着いてしまう。渡を待つか、それとも、予定通り、渡には会わないようにするか…… どうしようかしら。駅前の蒸気機関車は青いイルミネーションがまばゆい。相当な年齢のはずの機関車には、かなり恥ずかしい装飾だわ。この機関車の前で渡と最初に会ったことが思い出される。渡は、確か…… 17分遅刻して、あたしはかなり頭に来ていた。最近は遅刻癖がだいぶましになったけれど…… そうだ、遅刻したのを理由に会わないって手もあるわ。携帯の着信記録をみると電話をもらったのが15時14分。これに30分を足せば15時44分。この時刻までは待つことにする。念のため、化粧室でメイクを直す。
ハイ、15時44分。あ、でも、1分ぐらいは誤差があるかもしれない。
ハイ、15時45分。そう言えば、どこで待ち合わせるか言っていなかったけれど、もし、違う所で待ち合わせしていたら…… そんなことはありえない。機関車の前に決まっている。いくら、渡でも最初に出会ったのがここだってことは覚えているはず。だから、別の場所で待ち合わせるなんてあり得ない。あり得ないけれど、無理やり、2分間余分に待つことにする。
ハイ、15時47分…… あたしは強い女よ。だから妥協はしない……
15時50分に渡が現れた。
「よ、待たした?」
安堵して、怒った顔を作った。
「忙しいんだけれど」
「なんでや?」
「上野公園の西郷さんの所まで歩くの」
「上野まで、電車は?」
「今日は、歩いているの。上野から歩き始めて、山手線に沿って、池袋、新宿、渋谷、品川と歩いてきたわ」
「ふーん、結構な距離やな。今日は俺とは会えないって言っていたけれど、俺が一緒に歩いたらいかんかったんか?」
「あたしは一人で歩きたいの」
「そういや先生はおらんけど、これから会うんか?」
「会わないわ」
「じゃ、俺も一緒にあるくわ」
「迷惑なんだけれど」
「じゃ、一歩後ろをついていくわ」
「もう、勝手にしないさい」
線路をくぐって銀座の方へ歩く。ここからは歩行者天国を通って上野までいける。オンラインパートナー紹介サービスのSEと歩いたのが思い出される。大きな手をしていた。最後に東京タワーに上ったのだったわね。プライベートなメールアドレスを教えたら、毎月第3木曜日にメールが来るようになったわ。たわいもない内容。計画犯ね。本当はもっと頻繁にメールをしたいのだと思う。本当はもっと悩みを聞いてほしいのだと思う。だけど、それをしないのは彼のプライドね。それが、わかるから、逆にあたしは、気取らず、ありのまま、正直にその時のあたしの状況を返信する。
渡は、なにも言わずについてくる。黙っているが辛いはずなんだけれど、あたしが我慢できなくなって、声をかけるのを待っているのね。こうなったら我慢比べだわ。
洋書店の前で、知った顔が待っていた。加古先生だ!
「こんにちは。予想より20分程、遅いですね」
「……」
なんで、あたしがここを通るってわかったのだろう。山手線に沿って歩くのは今朝決めたこと。加古先生は知らないはず。あ、でも、さっき2回電話があったから、この界隈だってことはわかったかもしれない。でもどうして洋書店の前を通るってわかったのかしら?
「不思議そうな顔をしていますね。さっきの電話で言ったように微分をしたのですよ」
「微分?」
「品川通過時刻、浜松町通過時刻が電話でわかりました。2駅間距離は地図を見れば分かります。距離を時間で割れば速度がでます。つまり微分です。速度はおよそ分速75m/minです。品川、浜松町を通ってさらに歩く道、その道を予想しました。また、分速からいつどこを通るかが大体予想できます。で、私がかけつける時間も考えて、ここなら確実だとおもって、待っていたわけです」
「…… 呆れたわ」
「でも、予想より20分遅かったですね」
それまで、加古先生の話を黙って聞いていた渡が口を開いた。
「あ、すいません。それは俺と会ってたからですわ…… あ、俺、八丈渡です。碧とつきおうています」
「初めまして、加古寛です。碧さんとのつき合いでは後輩になります」
話が続きそうな予感がして、話を終わらせようと試みる。
「ちょっと、二人とも、何なの?」
「碧に会いたかったからに決まっているやないか」
「私も同じです」
「とにかく、あたしは、上野まで歩くんだから邪魔しないで」
「了解」
「右に同じです」
二人並んであたしの1m後ろをついてくる。なんでこんなことになったのかしら。本命候補が二人そろって、顔を合わせている。どう考えてもこれは修羅場…… のはずが、二人は楽しそうに話している。
「加古先生、速攻でプロポーズしたって聞きましたけれど、決断早いですね」
「碧さんの素晴らしさには目をつけていましたから、女性アレルギーが出ないとわかった瞬間にプロポーズしました。それに八丈さんが先行しているのも知っていましたから、ゆっくりしていられないと思ったのも理由ですね」
「正直、加古先生のプロポーズのことを聞いた時は動転しましたよ。最後まで取っておいたデザートを奪われたような感じやった」
「その気持ちわかりますよ。ところで、八丈さんはつき合い長いでしょう。もう碧さんとは寝ました?」
ぶっ、何を言いだすの!
「まだです。一度、襲われかけたことがありますが」
げげ、な、なんで知っているの!
「そうですか。では、丁度いい機会ですから紳士協定を結びませんか」
「紳士協定?」
「碧さんがどちらかに決めるまでは寝ないと」
「なるほど、で、キスはオッケー? ディープでもオッケーですか?」
「もちろんOKです」
「なら、俺はええよ」
「では、協定に合意したということで」
かってに合意しないでよ! 待てよ。それって、味見できないってことよね。はあ~
「協定は協定として、プレゼントはいいですよね」
「もちろんや。なんせ今日は碧の誕生日やし」
「そうですよね。私は、とっておきのプレゼントを用意しましたから」
とっておきのプレゼント? チョコレートを死ぬほど食べさせてくれるとか……
「俺も、最終兵器を用意しまた」
最終兵器?
「それはまた物騒ですね。でも私の方が最終かもしれませんよ」
「ということは……」
「そう言うことです」
え、何? 何? なんで二人で納得しているの? だいたい、二人ともふざけているわ。なんためにあたしが苦労したと思っているのよ! 本命が決まらないから、イブ前々日と前日と別々にデートして、イブは一人で過ごすつもりだったのに。そうすれば、公平だと思ったのよ。それを二人して押しかけてきて、二人で盛り上がっているなんて、どういう神経しているの!
結局、悶々としている間に闇の濃い上野公園に着いた。ピクリとも動かない西郷さんの銅像に敬礼して報告する。
「西郷さん、ただいま無事帰還しました…… 無事じゃないわねぇ。虫が2匹くっついてきたから」
「とりあえず、皆でどこかに入りませんか? 寒いですし」
加古先生は皆をうながし、コーヒーショップに入った。あたしはふてくされていた。そんなことはお構いなく二人は話を進める。
「ほんなら、そろそろ勝負といきますか?」
「いいでしょう。先手は八丈先輩にゆずりますよ」
「よっしゃ。俺の最終兵器はこれや」
そう言って、綺麗にラップされた小箱を取り出した。あたしへの誕生日プレゼントらしい。ゆっくり包装をとくと、青い布の外装の箱が出てくる。ファッションブランドのロゴが入っている。この箱の雰囲気からすると時計かしら? それとも何かのアクセサリー? 出てきたのは、簡素なシルバーの指輪。リングの内面には渡と碧のイニシャルが彫ってある。これってもしかして……
「碧、これを左手薬指にはめてへれへんか?」
「……」
なんと返事したものか。渡のすぐ隣では加古先生がにこにこしている。もしかして先生も……
「では、後手の私からも」
そう言って、やはり小箱を取り出した。案の定、指輪だった。渡からのプレゼントと違って、少し金色が入っている。イニシャルが彫られているところは同じ。
「…… あたしの左薬指は1本しかないのよ」
「ふむ。であれば、2つの指輪を重ねてはめますか」
「そういう手があるか、さすが先生」
「冗談言わないでよ。とにかく、受け取れないわ…… あたしみたいないい加減な女に受け取る資格はないわ…… 二股かけて、二人を振り回して…… 迷惑かけて…… 」
じわじわと涙があふれてくる。
「ごめんなさい」
もう顔をあげることもできなかった。でも、加古先生はいつだって優しい。
「私は、碧さんのそうやって正直で、一生懸命な所が好きなんですよ」
渡はいつだって温かい。
「俺も加古先生と同じ意見や。それに泣けるのはいい女の証拠やで」
「そうですよ。もっと自信を持ってください。もっと胸をはってください」
自信? 自信なんかないわ。でも、二人に思われるなんてあたしは幸せだ。目の前のネックレスは去年自分に買ったもの。ところが、今年は二人が指輪をくれると言う。今年のあたしは幸せだわ…… でも、なぜ今年は違うのかしら? 昨年までのあたしは、他人の視線が怖かった。今でも怖くないと言えば嘘になる。でも今年は、自分から出て行った。知らなかった人とデートし、話をし、つき合うようになって…… 思いをよせた。もしかしたら思いをよせたから思われたのかもしれない。渡が口を開いた。
「指輪をはめんでもええから、受け取ってくれんかなあ」
「誕生日プレゼントですし」
「……」
あたしは決心した。
「わかった。お二人の『指輪』と『思い』を預かるわ」
ネックレスを一旦はずし、2つの指輪を通し、またネックレスをする。胸には2つの指輪が並んで輝いている。
「この指輪は責任を持って預かるわ。だから暫く返事を待ってくれる?」
「了解」
「右に同じです」
上野の街の灯りは優しさと強さをもっている。神様に見守れなくともあたしはやっていける。一人じゃないのがわかったからやっていける。