白手袋とひっつき虫(その9)
土曜日の早朝、いなり寿司を持って電車に乗った。行く先は舞の待つ五色流道場。護身術をもう一度教えてもらって、きちんとマスターしたかったからだ。優から縁を切られた舞の様子が気になっていたからという理由もある。
前回と同じようにストレッチから始め、一通り復習した後に、新しいパターンも習った。今日は、心身ともに調子がいいせいか、体を動かすのが楽しくてたまらない。たっぷり運動すれば、自然とお腹がすく。
「ハイ、どうぞ。この間の特大おにぎりのお礼」
そう言っていなり寿司を舞に差し出す。
「あら、おいなりさんね」
舞は、小さな口で、一口ほおばった。
「おいしい!」
「でしょ。あたし、東京に来るまでは、いなり寿司がこんなにおいしいものだと思わなかったの」
「え、東京のいなり寿司って違うの?」
「東京のいなり揚げは甘くて味が濃厚なの。初めて食べた瞬間からやみつきになったわ。だから時々、スーパーでいなり揚げを買って、寿司飯の中にいろんな具を入れて試してみるの。今日はぎんなんを入れたわ」
「ちゃんとぎんなんが入っているのはわかったわよ」
舞は、いなり寿司をゆっくり食べた。小さな口をめいいぱいあけてほおばるその厚い唇が妙になまめかしい。
「お姉さま、じっと見ないでよ。恥ずかしいわ」
「あ、ごめん、ごめん。ついつい舞ちゃんの唇に見とれちゃって」
「唇?」
「そう。舞ちゃんは可愛いけれど、特に唇は可愛いわ。お姉さまがキスをしたくなるくらい」
「ええ! お姉さま、それだけはやめて。ファーストキスもまだなのに!」
「あら、そうなの。それじゃ、ファーストキスは大切な人のために取っておきなさい」
「大切な人? 大切な人って誰かしら?」
「キスしたくなる人が大切な人で、大切な人ならキスをしたくなるわ」
「う~ん。それって、大切な人の定義になっていないわ」
「そうね。ようするに、難しく考えちゃだめ。素直になること。それと普段から人に興味を持つこと。そうすれば、誰が大切な人か自然にわかるわ」
「自然に?」
「そうよ。でも、あたしは人に興味を持てなかった。というか、興味を持つのが怖かったの。だから、恋愛もできなかったわ」
そう、あたしはまともな恋愛をしたことがないし、恋愛が怖かった。舞にはあたしのようになってほしくない。ちゃんと恋愛を経験していれば、今のあたしみたいに、加古先生と渡の二股をかけて、ウジウジ悩むこともないわ。二人のどちらと結婚したいかもよくわからないし…… そもそも、あたしは二人が好きなのかしら? 恋しいと思っているかしら? あたしは次第に自分の世界に没入していった。
「おいしかったわ」
舞の声で、我に返った。いつの間にか、舞はいなり寿司を2個平らげて、満足そうな笑みを浮かべていた。
「幸せそうね」
「え、そうかもしれない。大切な人と一緒に食べたからかしら」
「あ、ありがとう。あたしが大切な人だなんて…… ということは、舞ちゃんのファーストキスはあたしが奪ってもいいのかしら?」
「それは、その……」
「それじゃ、男が嫌いになったら、お姉さまがキスを教えてあげるわ」
「お姉さまってそうい人だったの?」
「そういう人だったのよ」
と言って、あたしはニヤリと笑った。舞は一瞬怯えた。本当にこの子は素直ねぇ。その怯えた表情が庇護欲をそそる。あたしは吹き出した。
「あはは、ごめんごめん、今のは冗談よ」
舞は、ほっとして、緊張をといた。それがまた可愛いわ。
「舞ちゃんは本当に可愛いわねぇ。優君が言ってたこともまんざら嘘じゃなさそうね」
「優ちゃんが?」
しまった! 口がすべった。優の名前は禁句だったわ。先週、舞は優から縁を切られて、泣きながら帰ったのだった。今日は、舞を励ますつもりで来たのに、あたしとしたことが……
「優ちゃんは何て言っていたの?」
「え、それは、その~ 何だったけ? 思い出せないわ」
とあたしはごまかそうとした。
「ねぇ、教えて。お願い!」
思いつめたような舞の眼に吸い込まれそうになる。
「しかたないわね。確か…… こんな風なことを言ったわ。『舞は学校中の男子が認める可愛い子で、俺なんかにひっついているのはかわいそうだ』って。『自由にさせなきゃいけない』とも言ったわ」
「優ちゃん、そんなことを言ってたの」
舞は目を伏せ、考え込んでしまった。あたしは、自分の失敗を挽回すべく何か言わなきゃと思って焦った。
「それは…… 多分、優君が舞ちゃんを『愛』していたからよ」
「愛?」
「そう愛よ! 好きとも違う、恋するとも違う、愛よ!」
とりあえず、そう断言した。
「愛は、好きとも恋とも違うの?」
へ? 子供のくせに意外としつこいわね。脂汗を垂らしながら、答えを考える。右脳と左脳をフル回転させて。チーン。
「好きと恋は、自分の感情。自分の素直な感情。それに対して、愛は…… 愛は相手を思いやること、相手の立場に立って、相手の幸せを考えること。相手の幸せのためであれば、自分が嫌われてもいい、自分が不幸になってもいい、それが愛じゃないかしら」
この答って結構いい線を行っているじゃない。とあたしは自画自賛した。
ふと、舞に目をやると…… 涙をぽとぽと落としていた。
「私、やっぱり、優ちゃんを忘れられない」
しまった。こういうのを地雷を踏んだって言うのかしら? とりあえず、舞の頭をあたしの胸に抱き寄せた。たまには垂れ乳も役に立つわねと思いながら、静かに泣く舞の頭を抱いた。
5分後、泣きやんだ舞に残りのいなり寿司を押しつけて、あたしは、逃げるように帰った。そして、自己嫌悪に陥った…… コンビニでアイスを買うまでは。
翌日曜日、ハイになったあたしは、新しいいなり寿司を持って、休日出勤している渡の職場に押しかけた。待ち合わせ時間よりも少し前に渡の勤める旅行社の入ったビルに到着したので、窓口を覗いてみることにした。もちろん、渡は、窓口担当ではないので、窓口に居るとは期待していなかったわ。
店内にはゆったりとしたBGMが流れ、どことなく高級感が漂う。ここは本店だから、窓口も支店とは雰囲気が違う。きっと客層が違うのね。よく見ると窓口のスタッフは皆、美女ばかり。絶対、顔で選んでるわ。カウンターのスタッフは同じ制服を着ていても、ブローチやスカーフが個性の違いを際立たせている。あでやかな美女、清楚な美少女、つややかな女性、ボーイッシュな女の子、古風な美人。まるで花園に迷い込んだよう。中でも、一番の美女は、カウンター奥のデスクに座る凛とした女性。ピンストライプの黒のスーツが全身から放たれる色香をかろうじて抑え込んでいる。まるで現代のクレオパトラね。あたしは、深いため息をつき、ハイな気分がしぼんでいくのを実感した。渡がこの場にいないのがせめてもの救い。だって、もし、ここに渡がいれば、ハーレムそのものだわ。
早速、スタッフに声をかけられたけれど、旅行の申し込みに来たわけではないので
「今日は、パンフレットをもらいに来ただけですので、お構いなく」
と言って、あたしは、パンフレットの並べられたコーナーに行った。今だとクリスマスとお正月のシーズンに合わせたパンフレットが並んでいる。伝統的なヨーロッパ、エネルギッシュなアジア、夏を迎える南半球と地域も色々あるわねぇと思っていたら、
「迷っていらっしゃるようですね。ご希望のイメージをおっしゃっていただければ、ピッタリのツアーをお探ししますよ」
そう言って、ボーイッシュで元気のよさそうなスタッフが近づいてきた。うーんそうね。どうしようかしら。
「最近、人気の出てきたトルコなんかいかがでしょう。東洋と西洋の接点であるボスポラス海峡を擁する古都イスタンブールをはじめ、見どころは沢山ありますよ」
その時、カウンターの美女たちの視線が一斉に動いた。視線の先には見なれた茶髪の男性。いつもと違って、グレーのスーツをきっちり着こなした渡だった。書類を持ってカウンター奥へ歩いていく。そして、なんと、例のクレオパトラと話し始めた。『渡!』 鼻の下が伸びているわよ。動揺したあたしは、眼の前のスタッフの質問に上の空で答えていたらしい。
「あ、『渡る』ですか? 橋がかかっていますから、ボスポラス海峡を渡るのは簡単ですよ」
まずいわ、なんとか、『いなり』寿司を口実にあの二人を引き離さないと。このまま、渡をほおっておくとろくなことにならない予感がする。
「あ、『イナリ』湖ですか。よくご存じですね。フィンランドのイナリ湖は、オーロラ鑑賞の隠れたスポットです」
渡がクレオパトラのデスクにかがみこみ、書類の文字を指でなぞって、何やらささやいている。『近い、近いわよ!』 渡の頬がクレオパトラの髪に触れそうだ。
「え、もっと『近い』方がよろしいですか? タイのビーチなんかはいかがでしょう?」
クレオパトラも、指で書類をなぞりながら話している。その手は柔らかく、動作にはつやがある。やめて! その『みずみずしい』肌で渡を誘惑しないで。
「あ、『水』はお嫌いですか? では、山の方がよろしいですか?」
クレオパトラの指は、さも当然のように渡の指をつまんで、書類の上を誘導していく。触っている! その瞬間、あたしの頭は『真っ白』になった。
「『真っ白』ですか? ああ、山ではなくて砂漠がいいのすね、それでしたら、こんなのはいかがでしょう」
渡! だめよ、クレオパトラの眼を見つめちゃだめよ。あの『媚び』るような眼に魅入られたら、渡はもうあたしの所には帰ってこれないわ。
「コビ? ああ、ゴビ砂漠ですね。では、こんなツアーはいかがでしょう」
クレオパトラとの打ち合わせを終えた渡は、ようやくあたしに気がついた。蟻地獄ならぬクレオパトラ地獄から脱出して、ズンズンやってきて
「よ!」
といつもの笑顔で迎えてくれた。心配していたあたしは、その笑顔にほっとすると同時に、緊張の糸がプッツンしたみたい。あたしの目の前で、ボーイッシュな彼女と渡が何やら会話していたが、言葉が頭の中をすり抜けていく。あたしは、黙って渡の笑顔を見つめていた。
「あれ、もしかして、この方、八丈主任の知り合いですか?」
「え、まあ、そうやけど」
「あ、わかったわ。いつだったか主任が自慢していた綺麗で若い義理のお母様ね」
彼女は、急にあたしの方へ振り向いて
「いつも、主任には世話になっています。仕事だけじゃなくて、プライベートでもお世話になっています」
と挨拶したので、あたしは、機械的に返答する。
「いいえ、こちらこそ、いつも渡がお世話になっております」
「碧! 碧! どうしたんや」
気がつくと、あたしはビルの屋上に渡と二人で立っていた。温かな陽光が屋上の植栽に降りそそいでいる。あたしは渡に抱きついて半べそをかきながら呟いた。
「会いたかったの。戻ってきてありがとう。クレオパトラ地獄から戻ってきてありがとう」
「なんや、その~ クレヨン、パトカー、地獄って」
「な、なんでもないわ。忘れて」
「ああ、ええよ。そのかわり……」
そう言って渡はキスをしてきた。その熱く優しいキスはあたしの不安を徐々に溶かしてくれた。
「あれ? あたしは何でモンゴルのパンフレットを持っているかしら」
「あ、ほんまや。『蒼き狼になって草原と砂漠をかけ抜けよう』って書いてあるで。碧はモンゴルが好きなんか?」
「いや、別にそういうわけじゃないけれど。なぜモンゴルなのかしら? さっきのボーイッシュな女の子が勧めてくれたんだわ。色々、話をしたのだけれど、何も覚えていないわ。それに、最後に何か変なことを言われた気がするけれど…… 思い出せないわ」
「思い出さんでええよ」
渡は、キスであたしの口をふさいだ。
植栽のそばのベンチで、いなり寿司をお腹いっぱい食べた。最後に長いからみつくようなキスをした。もちろん、いなりの甘い味がした。はっきりしたことは、あたしが渡を好きだってこと。ずっと渡のそばに居たいと思う。
白手袋試作2号機、略して白手2(ハクシュツー)を優が使い始めてから3週間後、使用具合を見るために、再び研究室に来てもらった。研究室にやって来たのは、優だけではなかった。なぜか舞もついてきた。別れたはずだったのだけれど、どういうこと? 隣の加古先生は当然という顔をしている。よくよく二人を見ると、前と違って、舞の右手を優が左手でしっかり握っている。
時折、二人が見つめ合って、仕事がはかどらないのだけれど、あたしは文句も言わずに淡々と進める。優に使用上の問題はなかったかと聞くが、モータのトルクがやや弱いこと以外には特に問題はないらしい。どうやら、優はあたしたちが苦労して製作した右手義手のことより、左手で握った舞の手の方が気になるらしい。日中の電池の減り具合をログで確認して、モーターの最大電流を2割ほど引き上げることにした。
一通り仕事を終えて、前回やり損ねた『打ち上げ』を提案しようかと思ったけれど、一緒にいるだけで幸せそうな二人に、打ち上げは野暮だと思ってやめた。
「なんとかなりましたね」
加古先生は、二人を見送りながら感想をもらした。
「そうですね。若い恋はすがすがしいわね」
とあたしも感想を述べた。
「では、私たちは、イタリアンで大人の恋を楽しみましょう」
加古先生の愛おしそうな眼は、あたしの心の片隅に小さな炎をともした。