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白手袋とひっつき虫(番外:告白桜の伝説)

 月曜日

 朝から、舞は憂鬱だった。優にふられ、週末は涙が涸れるまで泣いて、自分なりにけじめをつけた…… つもりだったのだけれど、朝、一人で登校するとなんとも言えないさびしさがつのる。先週までは、最寄駅の先頭から2両目のところで、待ち合わせて登校していた。今朝は、優は現れず、一人で電車に乗った。舞は努めて冷静にこれまでのつき合いを振り返った。

 そもそも、舞は、優と恋仲だったのだろうか。確かに、優とは幼なじみで、幼稚園から高校まで同じ。しかも、部活も同じだったから、高校への行帰りはいつも一緒だった。だけど、キスはおろか、まともに手を握ったのは、先週の先生たちとの食事の時が初めてだった。そして、その時、優を異性として認識した。それまで、いつも左手で優の右ひじをつかんでいた。だから肌が触れ合わなかったわけではないけれど、異性としては見ていなかったのかもしれない。もうひとつ舞が気づいた点は、いつも優の左隣に並んでいたことだ。だから、正面から互いの顔を見つめあったことはほとんどない。そこまで考えて、舞の憂鬱はいっそう深くなった。


 同じクラスの優は遅刻寸前に教室に入ってきた。『おはよう』と誰の目も見ずにクラス全体に挨拶をした。相変わらず、右手には白い手袋をはめポケットに突っこんでいる。すぐにショートHRが始まり、1限目が続く。

 舞の親友の香織と、優の親友の智也の二人はすぐに異変に気付いた。舞と優が一緒に登校しなかったこと、優がしきりに気にしている右手は指が動くようになったこと、この二つが異変。休み時間に入ると早速、二人の親友はそれぞれの親友の元に飛んで行った。香織は心配そうに親友に声をかけた。背が高くほっそりした香織は、姉御肌でクラスの女子から頼りにされることも多い。といっても自分から皆の上に立ちたがるタイプではなく、普段はおとなしい。そんな所が、舞と似ているかもしれない。

「ねぇ、舞、一体何があったの? 優と喧嘩したの?」

「いや、その…… もう少し深刻なの」

「え! もしかして、別れた? というか、その様子だとふられたの?」

「ふられた、というより……、そもそもつき合っていたわけじゃないし……」

「ふれたのじゃなかったら、何なのよ!」

香織の声がだんだん高くなっていく。逆に舞の声はだんだんと小さくなっていく。

「縁が切れた…… 縁を切られたのよ」

「あちゃ、最悪! だから言ったじゃない! キスぐらいさっさとしなさいって」

香織は怖い顔をしている。まるで仁王のようだ。しばし、黙考して、こう言った。

「こうなったら、あたしが話をつけてくる。優の性根叩きなおしてやる」

歩きだした香織のスカートをつかんで引きとめる。

「や、やめて香織! お願い…… お願いだからやめて……」

最後の方は、うつむいて囁いた。香織が怒れば怒るほど、優を失ったことが重大に思えて来て、舞は涙を抑えられなかった。もう涙は涸れたはずだったのに……


 授業が終わり、部活に行く人、帰る人、掃除当番、友人とおしゃべりする人、とそれぞれ、それなりの目的を持って散っていく。優は智也と話しながら教室を出ていく。学校祭が近いので、物理部の出し物の準備をするのだろう。舞は部長の優から退部と言われている。部長だからと言って勝手に部員を退部させられるわけではないだろうけれど、もう、舞は、物理部に顔を出すつもりはない。教室の出入りの扉のところで、智也が振り返って舞と視線を合わせる。物理部に誘っているのだ。が、すぐに事態を理解したらしく、扉を締めて、優をあわてて追いかけた。香織は吹奏楽部だから年中忙しい。そんなわけで、舞は一人で帰る。一人で帰るのも悪くないと無理矢理自分に言い聞かせた。


 火曜日

 クラスのほぼ全員が、優と舞が別れたことを知っていた。舞は現状を受け入る葛藤している。授業が終わり、舞は一人で帰る。下駄箱まで行って、忘れものに気づいて教室に戻った。その教室では、既に当番が掃除を始めていた。この学校では、男子2名、女子2名のグループで掃除をする。その中に優もいた。優は女子1名と楽しそうに談笑しながら、雑巾を絞っている。左手で軽く絞って、次に手袋を外した右手義手と左手で雑巾をゆっくりと絞っていく。これまでは、いつも舞が優のために雑巾を絞っていた。ところが、義手ができたので、舞の出番はなくなった。もう関係ないと思いつつ、舞から優を奪った義手が憎らしく思えた。


 水曜日

 昼休みに入った直後に同じクラスの男子1名が舞の所にやってきた。『弁当を食べ終わったら、告白桜の所へ来てほしい』と言った。舞は暫く考えた後にほんの少し微笑んで承諾した。暫く考えたのは、告白桜にまつわる伝説としきたりを思い出していたからで、少し微笑んだのは、自分がそのしきたりの対象になることなど想像したこともなく、滑稽だったからだ。


 告白桜は、校庭の隅に生えている桜のことで、愛を告白したり別れをきり出す場であると、先輩から教えられる。と言ってもその由来となった伝説の方は語る人によって微妙に違う。舞が聞いた話はこうだ。戦前、この高校は女学校だった。戦時中、生徒だったある女学生が若い国語教員に恋をした。桜の木の下で二人は古典を読みながら愛を論じた。所が、時代は戦時。その教員は招集され南方の海に散った。残された女学生も、たび重なる空襲の末、命を落とした。戦後、二人を知る学生たちが、遺品の古典を桜の木の根元に埋めた。その後、女学校は共学の高校に変わり、しきたりが生まれた。ここの高校生が同窓生に交際を申し込む場合には、必ずこの桜のそばで申し込むこと。女学生の霊が二人の交際を見守り、二人は幸せになる。万が一交際を破棄する場合は、やはりこの桜のそばで破棄しなければならない。そうすれば、二人は後腐れなく別れられる。もし、桜のそば以外の場所で申し込みや破棄をした場合には、女学生の霊がとんでもない不運を二人に与えるらしい。いつしかその桜は『告白桜』と呼ばれるようになった。これが、本来の伝説としきたりで、さらに新しいしきたりが生まれた。

 桜のまんまえに小さな池があり、生物部がいけすとして使っている。この池は『わかれ池』と呼ばれている。告白桜から校舎にもどるには、池を迂回しなければならない。そこで、交際申し込みが受諾され、二人がつき合うようになった場合は、二人は池の片側を一緒に迂回する。交際が拒否されたり、交際が破棄された場合は、二人は池の両側に別れて迂回しなければならない。それが戦後の新しいしきたりだ。ちなみに、桜と池は生物部が管理している。何年か前にサッカー部員がふざけて池に入り込んで、当時の生物部の部長(女子)を激怒させた。サッカー部員が全員丸刈りになって、その怒りを治めたというのがもっとも新しい伝説だ。

 伝説を信じ、しきたりを重んじるかと問われれば、ここの生徒はそんなことはないと答える。ところが、実際の当事者になると、判で押したように皆このしきたりを守る。このしきたりによって、交際のプロセスがオープンかつドライ、つまり、明けっ広げで、さばさばしたものになる点が、当事者にとって都合がいいらしい。


 舞は、黙々と弁当を食べながら、どうしたものかと考える。弁当仲間の香織は、さかんに、その男子のいい所を演説している。同じクラスメートなのに関心がなかったせいか、舞はその男子をよく知らなかったのだ。教室の隅では、優が弁当を食べながら聞き耳を立てている。結局、舞は交際の申し込みを断った。交際する気にならないというのが理由で、なぜ、交際する気にならないのかは舞自身も答えられなかった。一方、断られた男子の方は、憂いを帯びた舞の表情に癒され、それだけでもう断られがいがあったと納得するのであった。

 告白桜でのその一部始終を3人の生徒が見ていた。そのうちの2人である香織と智也は教室の窓から見ていた。智也は野鳥観察用の双眼鏡を持ち出した。

「さすがに、双眼鏡はよく見える。あ、なんか男の方が話している」

横で黙っていた香織が口を開く。

「あたしにも見せなさい……」

そう言って、智也から双眼鏡を取り上げる。智也は不服そうな口元と嬉しそうな眼を見せていた。

 この季節、当然花はない。それでも茂った葉は、心地よい木陰を作り出し、男女を見守っている。香織は、しばらく観察して

「不思議ね、断られた男の方が嬉しそうにしているわ……」

と呟いた。

 告白桜のしきたりを見ていたもう1名は優だ。自分が告白桜を見ていることを誰にも知られたくないらしく、非常階段から告白桜の方を見ていた。もし、そばで彼を見ている者がいたら、真一文字に結んだ口と怖そうな眼に気づいただろう。


 木曜日

 昼休みに入った直後に隣のクラスの男子1名が舞の所にやってきた。昨日のクラスメートと同じように『弁当を食べ終わったら、告白桜の所へ来てほしい』と言った。香織がその男子について一生懸命説明した。何でも剣道部の副主将で、文武両道らしい。結果は昨日と同じ。


 金曜日

 昼休みに入った直後に一つ上の学年の男子1名が舞の所にやってきた。昨日の男子と同じように『弁当を食べ終わったら、告白桜の所へ来てほしい』と言った。香織はその男子に関する情報と噂を全て解説してくれた。生徒会では書記として皆をまとめているそうだ。結果は昨日と同じ。少しだけ違ったのは、香織が昨日までのように智也の双眼鏡を取り上げなかったことだ。


 翌週月曜日

 昼休みに入った直後に一つ下の学年の男子1名が舞の所にやってきた。先週の男子達と同じように『弁当を食べ終わったら、告白桜の所へ来てほしい』と言った。弁当仲間の香織も貴公子と言われていることしかその男子については知らない。結果は先週と同じ。帰ってきた舞に、香織はため息をつきながら言った。

「ねぇ、舞、一体どういことになっているのか分かっているの?」

「さあ、どういうことかしら? ここの所、毎日、誰かが交際を申し込んでくるけれど…… 」

「しかも、そろいもそろっていい男ばかりよ。それを残らず断るなんて…… 」

「ふーん、そうだったの。でもしょうがないじゃない。交際したいと思う人はいなかったんだもの。そのうち、そういう人が現れるかもしれないじゃない」


 火曜日、水曜日、木曜日とこれまでと同じことが続いた。


 金曜日

 昼休みに入った直後に男子1名が舞の所にやってきた。教科書をしまって弁当箱を取り出した舞は、その男子の気配を察し、視線を上げようとして固まった。目の前ににぎりこぶし、白い手袋をした拳が差し出されたのだ。見ていると、かすかにモーター音を立てながら、拳が開いていく。手袋の手の平にはこう書かれてあった『食後、告白桜へ』。舞は視線を上げずにコクリと頷いた。視線をあげれば優と眼を合わすことになる。それが怖かったのだ。そう、告白桜は交際を申し込む場とは限らない。交際を破棄する場ともなる。そして、告白桜の前でかわされた言葉は、反故にされることはない。

 舞は、優に少し遅れて教室を出て行った。それを香織と智也が見送る。智也が嬉しそうに香織に双眼鏡を渡す。

「はい、双眼鏡」

「え、あたしに貸してくれるの? 智也はなくてもいいの?」

「もうひとつ持ってきたから」

「用意がいいのね」

「まあね」


 桜の前で、優は口を真一文字に結んでいる。その目は堅い決意を秘めている。一方、舞は、昨日までとの憂いを帯びた表情とは異なり、不安のため蒼白であった。正面からお互いの眼を覗き込んで、優が口を開いた。

「舞…… お、俺と交際してください。恋人として交際してください」

それを聞いた舞の顔はぱっと明るくなり、厚く小さな唇から眼、頬、顔へと笑顔が徐々に広がっていく。まるで朝顔が咲く様子を早送りで見ているようだった。その笑顔が広がった途端、舞は、難しい顔をして答えた。

「いいわ。でも、一つ条件があるの、やってほしいことがあるの」

「条件か~ 分かった、何でもするよ。奴隷でも何でも」

優は、舞の眼を見て言った。

「キスして」

それを聞いた優は、眼を大きく見開き、そして、頷いた。舞は静かに目を閉じる。

 優はゆっくり顔を近づけ、眼をつぶって、恐る恐る舞の頬に口づけた。丁度、まっさらのキャンバスに最初に筆をつけた時のように。

 ほんの3秒ぐらいだろうか。優が顔を離すと、舞は既に眼を怒らせていた。

「違う!」

「違うって、何が?」

「ここ!」

舞は、自分の厚く小さな下唇を人差し指で押さえた。優は、ごくりと唾を飲み込み頷いた。舌先で自分の唇を湿らせ、再び、顔を近づけた。今度は、もう間違いようがない所まで、優の唇が近づいたのを見届けてから、舞は目を閉じた。二人の唇がふれた瞬間、舞は両手で優を引き寄せた。


 教室では、香織と智也が双眼鏡を見ながら実況中継をしていた。

「おお、優選手、舞選手にかなり接近しております…… あ! いきなり、ほっぺにチュー攻撃だ。これは、効いたでしょう。きっと舞選手はもうメロメロのはずです」

「智也、読みが甘い!」

「へ?」

「ガキじゃあるまいし、ほっぺにチューぐらいじゃ全然だめよ」

「え! それじゃどうすればよかったのでしょう」

「そりゃ~ 正面突破に決まっているじゃない。見てて、第二ラウンドよ」

「確かに。優選手、再び舞選手に攻撃だ。これは、誰が見ても明らか。正面突破だ! カウント入ります。ワン、ツー、スリー、…… 、ナイン、テン。カン!カン!カン! 舞選手、完全にノックアウトされました。 いや、ノックアウトされたのは優選手の方でしょうか? 香織解説員の判定を聞いてみましょう。いかがでしょう、香織先生」

「もちろん、二人の勝利よ。二人で壁を乗り越えたのよ」

「さすが、香織解説員、的確な解説です。おや、香織解説員の頬を涙が伝っています」

ポカ。

「余計なことは言わんでよろしい」

「と言うことで、両選手は、今、しっかり手をつないで、花道、池の周りを一緒に歩んでおります。アナウンサー冥利に尽きる感動的な試合でした。それでは、時間になりましたので、この辺で実況中継は終了いたします」


「ほんとに、あの二人には苦労させられるわね~ でも、苦労した甲斐があったわ」

そう言って、香織は安堵のため息をもらした。智也は考え込むようにして感想をもらした。

「それにしても、いいですねぇ~ キスって」

「あら、智也、相手はいるの?」

「希望する相手はおりますが、まだその段階には…… 」

「何なら、あたしが手伝ってあげようか? 相手はどんな人?」

そう言って、香織は智也を振り返った。

「えーと、希望する相手は…… 親友の恋に嬉し涙を流す人です」

智也の返事を怪訝そうな顔で香織は受け取った。

「はあ? それって…… あたしのこと?」

智也がウンウンと頷く。

「智也は、面白いことを言うわねぇ~ 何なら試してみる?」

「と言うことはイエスという意味、交際してくれると言う意味ですか?」

「イエスかノーは告白桜で返事するしきたりじゃない。今から行こうか?」

そう言って、香織はニヤリとした。智也は戦慄を覚えた。

「い、いえ、心の準備がありますので、明日あたりはいかがでしょうか?」

「遅い! 少しだけ妥協して、今日の放課後よ!」


 放課後、香織と智也が告白桜へと歩いていく。香織が先頭で、智也は2m後ろを重い足取りでついていく。教室では、優が智也の机から勝手に双眼鏡を2つ持ち出して、その一つを義手の右手を使って、舞に手渡した。舞が怪訝そうな顔で優に尋ねた。

「この双眼鏡で、あの二人を観察するの? そんなの二人に悪いわ」

「悪くはないさ。目には目を、歯には歯を、双眼鏡には双眼鏡をって言うじゃないか?」

不思議そうな表情を浮かべた舞は、5秒後に優の言葉を理解し、驚いて尋ねた。

「それって、あの二人があたしたちを双眼鏡で見ていたっていう意味?」

「そういうこと」

「じゃ、キスした所も見られたの?」

「ああ、ばっちり見られた」

舞の顔はみるみる赤くなった。


 幸い、香織と智也はキスをした。舞が

「ねぇ、あの二人のキス、長くない」

と言うと、優も

「確かに。たっぷり5秒間はしてたな。後でからかってやろうか」

と言った。舞と優はたっぷり10秒間キスしていたのだが。


 こうして、5秒間キスという新たなしきたり(ルール)が告白桜に加わった。ちなみに、二人のうちどちらかが1年生なら、正面キスは免除され、代わりに頬キスをしてもいいことになっている。

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