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白手袋とひっつき虫(その8)

 皆で、打ち上げのはずが、加古先生とあたしの二人きりだ。しかも、来ているのは、おしゃれなレストランとは真逆の店。こんなはずではなかったのだけれど……


 加古先生の研究室で白手2の試験をした時に、『次は、いつ、みんなで集まれるか分からないから、打ち上げをしましょう』と提案したのだけれど、舞は泣きながら帰ってしまうし、優もそんな気分じゃないと言って帰った。桃子は、携帯電話を見ながら急用ができたと言って帰ってしまったけれど、あたしに目配せをしていたから、『二人で頑張って』、『後で、ちゃんと報告をするように』と言いたいのだろう。二人っきりになると、加古先生は、しばらく考えて口を開いた。

「丁度、よい機会ですので、水上さんと私でデートの練習をしましょう」

「練習? 本番じゃなくて、練習なんですか?」

「そう、練習です。練習と思えば気楽でしょう。何せ、私は例の女性アレルギーのせいで、ここ15年ほど、まともなデートはしていませんから。とりあえず、お店、レストランを探しましょう」

そう言って、加古先生はそばにあったPCで店を検索しだした。二人で相談しながら、地域を指定し、参加者をカップルとし、料理はイタリアンとし、雰囲気重視を選択した。幾つかの候補のうち、ワインが豊富という店が、あたしに『おいでおいで』をしていた。

「先生、このレストラン、ワインが売りらしいわ。いいと思いません?」

と先生に先生に持ちかけた。

「ワインですか――」

少し考え込んで、続けた。

「いいでしょう。今日は、一段落したのですから、碧さんの好きなものを飲んで、好きなだけ食べてください」

あれ? 今の先生の言い方、少し引っかかるわ…… 『好きなだけ』って言ったわ。もしや……

「先生、もしかして、今日は、あたしにご馳走するって考えていません?」

「ふむ、ばれましたか。たまにはいいでしょう。それに、今日はデートですし、デートなら男がご馳走しなきゃかっこ悪いでしょう」

「今日は練習でしょ。練習なら割り勘ですよ」

「それじゃ、本番と言うことにしましょう」

ふー 加古先生は、どうあっても、あたしにご馳走したいのね。

「わかった。では、ご馳走してください。イタリアンではなく、あたしの食べたいものを食べさせてください」

「いいでしょう。『ナン』でも食べさせてあげますよ」

はて?

「いや、その、よく、カレーにつけて食べるパンですよ。何でしょう? 『ナン』でしょう」

「え! あ、は~ 」

ただえさえ、笑えないギャグなのに、笑うタイミングを逃したら、苦痛以外のなにものでもないわ。

「えーと、えーと、『何』の話をしていたのかしら」

「『ナン』の話ですよ」

あたしは、先生をキッと睨みつけた。

「しばらく口を閉じて! う~ん。そうそう、あたしの食べたいものを食べさせてほしいの」

「で、何を食べたいのでしょうか?」

「幸せになれる料理! 『先生』が食べて幸せを感じる料理がいいわ」

「おや、おや、そうきましたか…… いいでしょう。取っておきのお店にご案内します」


 そして、今、あたしたちは、裏通りに面した小さなお店の前にいる。換気扇がブンブン音をたてている。のれんをくぐると、香ばしい油の匂いが漂い、店の奥からは小気味よい『ピチピチ』という揚げる音が聞こえてくる。そう、ここはとんかつ屋だ。

 店内は、木調。小さな木の机、小さな木の椅子が所狭しと並べられている。どこにでもありそうな定食屋という雰囲気だわ。ちょっとだけ違うのは、新しくて清潔そうなところかしら。注文を取りに来たおかみさんの歳は30代後半。半袖白衣からむっちりした二の腕がのぞく。白ベレー帽からこぼれる黒髪とくっきり引いた口紅が綺麗な笑顔に映え、はっとする美人だわ。加古先生は、特大ヒレかつ定食を2人前とビールを一瓶頼む。厨房へ注文を伝えに行くおかみさんを見送る先生の鼻の下が伸びている。あたしは、咳払いをして話しかけた。

「加古先生、食べる前から幸せそうですね」

「え、そうかもしれません」

「先生は、美人に会うと幸せですか?」

「それは、その―― そうですね。男ですから、そう思うのは自然じゃないでしょうか?」

とあっさり認めた。

「それじゃー あたしと会うと幸せですか?」

「もちろんです。でも、それは、碧さんが美人だからというだけではありませんよ。私が碧さんに恋をしているからです」

あたしは、思わずお茶を吹き出しそうになった。

「恋ですか? 先生でも恋をするのでしょうか?」

「その、『先生でも』の意味が理解できませんが、先生は恋をしてはいけないのでしょうか?」

「いえ、そういう意味ではなくて…… 先生のような歳でも恋はするものでしょうか?」

「そりゃ、しますよ。自分でもこの歳になって恋をするとは思わなかったから、碧さんの疑問ももっともです。『ブラームスはお好き』というサガンの小説がありまして、39歳のヒロインが若い恋人と別れる時に自分の歳を理由にするんです。私が読んだのは二十歳前後だったと思うのですが、39歳でも恋をするんだってビックリしました。と同時に、39歳までは恋をしていいんだって思ったんです。でも、今、自分がその歳を超えて分かるんです、恋に歳は関係ないって。ただし、高齢での恋はお勧めしませんが」

「え、どうしてですか? 先生、今、歳は関係ないって言ったわよ」

「恋は心臓に負担をかけるんです。恋って、不安に苛まされたり、ときめいたりするじゃないですか」

「ときめく?」

「そう、幸せと幸せへの予感でウキウキ、ドキドキする、つまり、ときめきませんか?」

「う~ん。正直、恋の経験はあまりないから、ときめくってわからないわ。不安ならわかるんだけれど」

「まあ、私もときめいたのは一度だけですから、大きなことは言えませんが、いいものですよ。折角ですから二人で一緒にときめきましょう」

「…………」

何と答えてよいやら。『恋をしましょう』ならまだしも『ときめきましょう』って何? 変だわ。先生もあたしの違和感に気がついて

「言いたいことはわかりますよ。そんな計画的に恋はできるものじゃないし、計画的にときめくものでもないですからね。でも、そんな予感がするんです」

と言って、先生はあたしの左手に自分の右手を重ねた。その手のぬくもりは不思議な感触を持っていた。あれ? 何だろうこの感覚。あたしは目をつぶって左手に神経を集中させた。先生は手の平、指の腹、指先であたしの手を撫でまわす。手の甲、指の股から爪まで、それこそ舐めるように触れていく。あたしを愛おしいという気持ちが痛いほど伝わってくる。思わず先生の手を握りかえそうとしたその時に

「お待ちどうさま」

とおかみさんが皿を持ってきた。先生は慌てて手を引っ込める。

「さあ、召し上がれ」

そこには、特大ヒレかつが載っている。揚げたてなのか、シュビシュビと音を立てているし、衣は黄金色に輝いている。お~ これは、おいしそう。思わず唾をゴクリと飲み込む。

「いただきます」

そう言って、ソースをかけるのももどかしく、早速、一口。衣のシャリっとした歯触りが経験したことがないほど心地よい。もぐもぐしっかり噛みしめると、肉汁のうまみが口いっぱいに広がる。

「幸せ~」

「そうでしょう。そうでしょう。ここのかつを食べるともう他の店には行きたくなくなります」

そう言って、加古先生はにこにこしながら、あたしが食べるのを眺めている。

「私は、食べるのが好きな女性と結婚したいのです」

「作るのが好きな女性ではなくて、食べるのが好きな女性ですか?」

「そう、そうです。一緒に食べる幸せを味わいたいのです」

先生の視線を意識してもう少し上品に食べないと、と思いながら、あたしは、ヒレかつ定食に骨抜きにされてしまった。

 ふと、気がつくとあたしはジャスミンティーを飲んでいた。下膳するおかみさんをぼーっと見ていると、おかみさんが先生に目配せをし、先生はかすかに頷いて応える。おかみさんはあたしの方へ振り返り、にっこりわらう。え! 何? 何なの? 

「先生、今のおかみさんとのやり取りは、何です?」

「いえね、いい人ができたら連れてくるっておかみさんに約束したんです。それで、そのいい人が碧さん、あなたというわけです」

全く、先生は、強引というか、なんというか、じりじり攻めてくるタイプね。

「ところで、先生。どうして結婚したいのですか?」

「うーん。安心ですかねぇ。安心がほしいのだとおもいます」

「安心って、どうして結婚すると安心なんですか?」

「やっぱり、自分のことを見ていてくれる人がそばにいるという点でしょう。泣いたり、笑ったりする自分の人生を見ていてくれると思うと安心できるのです」

「それは、見守って、困った時は助け合うという安心とは違うの? そもそも、夫婦は、一緒に泣き笑いして、一緒に人生を歩むのではないの?」

「見守るというのは当たっていますが、助け合うとか一緒に人生を歩むというのは、ちょっと違うように思います。例えば、碧さんが妊娠して、つわりがひどかったり、切迫早産の危機があったり、出産で命が危なかったりしても、碧さんの夫は見守ることしかできません。一緒に人生を歩むつもりでも、はなれて暮さないといけなかったり、相手が病気にかかって突然死別したりすることだってあるでしょう。別々の人間ですから、何でもかんでも一緒というわけにはいきません。でも相手の人生を見守ることはできます。結婚とは、どちらかが死ぬまでお互いの人生を見守り合うという契約だと考えています」

「加古先生ってドライなんですね。もう少し、結婚に対して夢を持ってもいいのに」

「それなりに歳をとって、色々な結婚を見ていますから。まあ、私自身も経験があるわけではないので、ある種の幻想をいただいているかもしれません。ところで、碧さん、そろそろ、先生とか加古先生はやめてくれませんか?」

「でも、先生は先生ですし……」

「一応、結婚を前提に付き合っているのでしょう?」

「結婚を前提って言われば、そうだけれど……」

「でしたら、私を名前で、ひろしと呼んでくれませんか?」

「寛? 寛さんはどうでしょう?」

「では、それで」


 帰宅する電車の中で、窓に映る自分に語りかけた。あなたにとって結婚って何? 加古先生、いや、寛さんは安心を得る契約と言ったわ。あたしが想像する結婚は家庭をもつこと。子供がいて、家族で夕飯を食べるのが家庭だわ。加古先生の想像する結婚とあたしの想像する結婚は、同じかしら? それとも違う? 先生は結婚に積極的だけれど、あたしは先生ほどでもない。渡はほとんど考えていない。いや、少しは考えているかも。そう言えば、先生は、恋をしましょう、ときめきましょうとも言ったわ。渡ともデートしないといけないし、忙しくなりそうね。あれ、デートしないといけないって、今、言ったわよね。前は、なかなかデートできないって文句を言ってたような気がするけれど、渡に冷めてきたのかしら? ああ―― ややこしい! まるで、プログラムで構造体を定義してすっきりさせたつもりだったのが、構造体のメンバーの処理を分散させなきゃならなくなった時みたい。


 あたしは、帰宅途中のコンビニでビールを一缶買った。

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