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白手袋とひっつき虫(その3)

 最初のデータ採りの翌日、D大学に行くと、加古先生は不在だった。学生によれば、なんでも、体調を崩して休みらしい。一応、夏風邪ということになっているけれど、本当の所は例のまんじゅうのせいだわ。

 今年の夏は節電ということで、大学内の冷房の設定温度は28度厳守であった。じっとしていると汗が出てくる。PCが動き出すとなおさらだった。大学の生協で買ったロゴ入りのタオルを首に巻いて、仕事(データ解析)に集中する。

 まずは、16電極、4指、4種の合計256の生波形をざっと見てみる。実は、さらにデータはある。繰り返した分、電極を少しずらした分だわ。データが多すぎてイメージが頭に入らない。そこで、1画面に16電極の信号を表示し、画面を順次表示していく。次に1電極の信号、4指、4種の合計16の波形を1画面に表示する。そういう具合に、表示するまとめ方を色々変えてみる。色つきの表示、鳥瞰図表示、等高線表示と多種多様な表示をして、データのイメージを頭に入れていく。正確には、頭にいれようと努力したと言った方がいいわね。とにかく、イメージを頭に焼きつけるのが大事。

 目的は、波形から正しい指令を抽出すること。ある筋肉を収縮する指令を出した時の特徴がどの電極にどのように現れるかを調べ、対応を同定していく。もちろん、実際には指がなく、筋肉の大部分もないので、動かした筋肉からの信号を見ているわけではない。あくまでも、本人が筋肉を動かそうと思った時の神経活動波形を捉えるのだから、対応がはっきりしないものもある。

 もっとも単純な指令の抽出方法は、ある電極の波形に注目して、その波形の値(電圧)が、あらかじめ決めておいた値、これを閾値しきいちと言う、を超えた時に指令と見なす方法だ。例えば、安静時には、0 Vボルトから0.1 Vで揺らいでいる信号が、筋肉を動かすよう意識した時に、1 Vまで上昇したとする。この時、閾値を0.5 Vとして、それより大きな信号が来た時に、指令が来たと判断して義手を動かすようにすればよい。こうしておけば、たまたま、信号が2 Vまで上昇した時でも、同じように指令と判断できるし、雑音がひどくて信号が0.4 Vまで上昇しても、指令とは判断せず、誤動作を防ぐことができる。この方法は単純なので、複雑な状況には対応できないことがある。例えば、電極の位置がずれて、信号の大きさが小さくなった場合、下手をすると閾値を超えず、指令が認識できない。それを防ぐために閾値を小さくしすぎると、今度は、雑音で閾値を超え、本来ないはずの指令と判断してしまうことがある。

 雑音の影響を抑えるには、何度も判断をするとよい。例えば、1秒間、信号を観察し、1秒間ずっと閾値を超えていれば、指令と判断するようにしておけば、雑音で0.5秒間閾値を超えても、指令と間違うことはない。こういった技法は一般的なもので、後は、複数の信号、異なる時間での信号の関係の組み合わせでもっと繊細な判断も可能だわ。


 データ解析を始めて2日目、一人PCの前に座って黙々と作業を進める。外見上は静かな、でも、内面は嵐のようにデータの海に翻弄された時間が過ぎていく。時折、加古先生が様子を見に来る。というより寒いおやじギャグを披露しに来る。

「水上さんの周りには、多くの人が集まってくるのはなぜでしょう?」

「さあ?」

みなcoming、つまり、みなかみ(んぐ)ですから」

「…………」

「うちでは、何をどう研究しているでしょうか?」

「さあ?」

「『義手』をエネル『ぎっしゅ』に研究しています」

「…………」

「会社から電気『モータ』ーを『もーた』ら、学生に『もーた』くさんと言われた」

「…………」

室内は零下30度の寒さで、暖房が欲しいぐらいだったわ。


 3日ほど、データと格闘しながら、テストプログラムを作成した。プログラムは幾つかのモジュールで構成される。電極の信号や、判断、指令をモニターするモジュール。信号の閾値で指令を判断するモジュールと、判断方法をパラメータで変えるモジュール。動作指令を受け取って加古先生にもらった機械の1本指を動かすプログラム。擬似的なテスト信号を生成するモジュール。モジュールの動作(処理)の履歴を記録し比較するための解析モジュールである。ハードは電極データを取り込む回路、プログラムを動作させ、1本指に指令を送るPC、1本指を駆動する駆動回路と機械指のメカがある。擬似信号でバグ取りと調整チューニングをしながら予定通りの動作をするまで仕上げる。一通り完成したので、電極を2つ自分の人差し指の付け根に貼って試してみる。

「さて、動かすぞ。自分の指を曲げると…… あ、動いた!」

ぎこちないながらも、あたしの指の動きに1秒ほど遅れて機械の1本指が動く。最初は、指が十分曲がらなかったけれど、閾値や他のパラメータを変えて試行錯誤した結果、指が曲がったり伸びたりするようになった。あたしは嬉しくなって加古先生を呼びに行った。


「ほう、もう動いたんですか? この短期間で、ここまでできるとは、さすが水上大先生ですね」

いつから、あたしは大先生になったのだろう?

「では、僕が大々先生の貫録を見せますから、ちょっと待っていてください」

いつから、加古先生は大々先生になったのだろう?


 たっぷり10分待たされた。戻ってきた大々先生はUSBメモリをPCに入れて、幾つかファイルをコピーして、あたしのプログラムを開いた。

「ちょっと、大先生プログラムをいじらせてください。あ、オリジナルの方はちゃんとコピーをとっておきましたら、ご心配なく」

そう言って、あたしのプログラムを読み始めた。時々、つぶやく。

「ほお、こういうデータ構造を採用したのですか…… ふーむ、これは凝っていますねぇ…… コメントもちゃんと入っているし…… これは、バグ取り用ですかねぇ…… あ、だんだん疲れて来ましたね…… 性格が表れていますね……」

あたしは恥ずかしくなってきた。

「この辺ですかね…… あ、あった、あった、ここだ。それじゃちょっと細工させてもらいます」

そう言って、大々先生は、キーボードをたたき始めた。プログラムを読むスピードも並みじゃないし、書く方も速い! もしかしたら大々先生は本物の天才かもしれないわ。

「できた! それじゃ、本番行きますよ。水上大先生、指を動かしてみてください」

何が起きるのかわからなかったから、あたしは、恐る恐る指を曲げてみた。機械の指は先ほどまでと同じように曲がった。その瞬間、PCのスピーカーから

『カモーン・ベイビー!(Come on baby!)』

と録音した声が聞こえてくる。一瞬、何のことかわからなった。そう、1本指の動きがまるで、カモーン、こっちへおいでとやっているように見えるだわ。伸ばした指をもう一度曲げてみる。

『カモーン・ベイビー!(Come on baby!)』

加古先生の録音した声が、間抜けに聞こえる。あまりに間抜けすぎて笑ってしまった。

「あはは…… さすが、先生、いや、大々先生ですね。貫禄があります」

と思いっきり皮肉を言うが、大々先生には通じない。

「そうでしょう。面白いでしょう。いやー 喜んでいただけて5回も録音しなおした甲斐がありました」

「5回ですか……」

ほんとにこの先生は大学の先生かしら、と疑問を抱いたわ。その時、指を動かしていないのに、PCのスピーカーから

『カモーン・ベイビー! カモーン・ベイビー! カモーン・ベイビー! ……』

と3秒おきに音声が流れ始めた。

『カモーン・ベイビー! カモーン・ベイビー! カモーン・ベイビー! ……』

「加古先生、これって、無限ループじゃないんですか?」

「そうかもしれません。でも無限かどうかは、どうやって確かめましょう。無限まで数えますか?」

「…………」

 その時、部屋に学生が入ってきた。ひょろっとしていて修士1年の中では一番まじめそうな学生だわ。

「加古先生、ちょっと、よろしい……」

『カモーン・ベイビー!』

先生が振り向いて、何か? という顔をする。顔が引きつった学生は

「あ、えーと、お、お取り込み中のようですから、後で先生の部屋に伺います」

と言って、すぐに部屋を出ていった。

『カモーン・ベイビー!』

なんだか、ものすごい誤解をしたまま出ていったような気がする。

『カモーン・ベイビー!』


 後日、1本指のテストをするために、優君を呼び出した。舞もついてきた。また、この二人かぁー というのが最初に浮かんだ言葉。でも、もしかしたら、面白いかも、と思い直した。優は装置を見て感想をもらす。

「机いっぱいのシステムで指1本ですか」

がっかりしたのが、明らかだったわ。

「そう言わないで。1本ができれば、4本はすぐだから」

「え、そうなんですか? それじゃ、早くやりましょう」

実際の所、4本までは速いのだけれど、その先が結構、大変。

 あたしの指で試験した時と同じように電極をつける。折角だから、舞に手伝ってもらう。

「えー あたしがやるのー」

と口では嫌がっているけれど、ウキウキしているのは一目瞭然。

「立っている者は親でも使えって言うじゃない」

「えー あたしはお姉さまのママじゃないわ」

「………… いいから、とっとと電極をつけて」

舞は、緊張しながら、優の右手をそうっと両手で触る。まるで紙風船を潰さないようにつかもうとしているみたい。それを優は不思議そうにみている。もしかして、この二人、手が触れ合うのは初めてとか? ひとしきり優の肌触りを確かめると、舞は、10個の電極を手際よくつけていく。


 筋肉があるわけじゃないので、信号は弱い。そこで、複数の電極の信号を処理して総合的に判断する作戦だ。優に動かしてもらって、機械指の応答を調べる。データを見ながら、あらかじめ用意してあったパラメータをいじって、もう一度、指を動かしてもらう。これを何回も繰り返しながら一番いいパラメータを探す。舞は、最初は、優の後から電極を覗き込んでいた。時々、優のサラサラ髪をいじっている。優が気がつかないのは当然としても、舞自身も意識していないように見える。母親が赤ん坊の頭を無意識に撫でるのと同じかしら? そのうち、舞は飽きてきて、あたしの後ろに立って、今度は、あたしの作業を観察し始めた。

「お姉さま、これって、C言語?」

「そうよ。正確にはc++(シープラプラ)よ。舞ちゃんはcを使ったことあるの?」

「ええ、素数の計算をするのに、この間、使ったわ」

「素数?」

「そう。学校祭で、物理部の出し物の中に、素数の計算があるの。誰が一番たくさん素数を計算できるかって」

「へぇー そんな難しいことやるんだ」

「うん、他の子は、もう計算を始めているのだけれど、あたしは、まだ試行錯誤しているところ」

「試行錯誤?」

「うん。単に計算するだけなら、プログラムを走らせて待っていればいいのだけれど、プログラムを工夫すると速くなるの。それで、今、もう少し工夫できないか考えているの」

「舞ちゃんて、もしかしたらSEになれるかもしれなわよ」

「SE?」

「あたしみたいに、プログラムを作ることを仕事にしている人をSE、システムエンジニアって呼ぶのよ。SEの条件の一つは、プログラムの工夫ができることだから、舞ちゃんはSEの才能があるわ」


 少しずつ、機械の1本指が優の意思を反映し始める。つまり、指令の判断はそこそこ正確になった。ところが、問題は、応答が遅いこと。信号が落ち着いてから判断するから、どうしても1秒は遅れる。さらに、モーターの始動で時間がかかる。今の所、PC上のプログラムの実行速度は問題ないけれど、実装するICだと、プログラムの実行速度も問題になるかもしれない。遅れについては優も不満そうだ。

「姉さん、これは、ちょっと遅すぎるぜ」

「遅いのは、分かっているわよ」

「これじゃ、鼻くそもほじれないぜ」

「は、鼻くそはないんじゃない! そんなことのために義手を作っているんじゃないわ!」

と思わず、熱くなって叫んだ。

「あ、ごめん。冗談です」

と素直に反省する。

「…… ねぇ、義手が完成したら、優君は何が一番したいの? それができることを目標にして作るわよ」

「一番したいのは、決まっているぜ。舞の……」

優は口ごもった。すかさず舞が聞いてくる。

「舞に関係あるの? 義手で何をしてくれるの? 教えて!」

「いやー そのー 今のは無し。パス、パスにしておいて」

「えー パスなんてあり?」

舞の不満は収まりそうにないけれど、今は優を追求しない方がいい気がする。

「舞ちゃん、それより、少し手伝ってくれない。応答を速くするにはプログラムの大幅改造が必要なの。その改造を手伝ってほしいの」

舞ちゃんに簡単な関数、数字を大きさの順に並べ替えるプログラムを作ってもらうことにする。その間には、あたしは、プログラムを改造する。ついでに優君にも頼むことにした。部屋の隅の机に連れて行って、はんだ付けの道具一式と、3本分の機械指を渡して、配線をお願いする。

「物理部なら、簡単でしょ」

「舞が手伝ってくれると楽だけど、まあ、これぐらいなら一人で何とかできます」

そうなのだ、右手の指がないから、はんだ付けも、易しくはないわ。あたしとしたことが、余計なことをしたかしら。素直に反省する。

「優君、ごめん。右手が不自由なことを忘れていたわ」

「姉さん、気を使わなくていいよ」

「もしかして、義手で一番したいことってはんだ付け?」

「うーん、そうですね。そうすれば、舞を奴隷として使わなくて済む。けど、本当にしたいのは……」

「本当にしたいのは?」

「えーと。姉さん、ここだけの話なんだけど……」

優君は声を落として続けた。

「本当にしたいのは、舞の胸をモミモミしたいんです」

あたしも声を落として応じた。

「えー モミモミ?」

「そう、モミモミ。最近、舞の胸がぐんぐん大きくなってきているんです。それを見ていると、ないはずの右手の指でモミモミして、その感触を味わいたくって仕方ないんです。なんだか、まだ指がついているような気がするんです。不思議でしょう?」

「不思議じゃないわよ。なくなった部位が、まだあるように感じたり、その部位の感覚があるように感じることはよくあるらしいわ。優のモミモミの要望、姉さんが実現してみせるわ。あ、でも、舞ちゃんがオーケーするかどうかは別よ。万が一オーケーをもらえなかったら、あたしの胸をモミモミしてもいいわよ」

「え、遠慮しておきます。後が怖いから」

「そう? 舞ちゃんの胸よりあたしの方がモミがいがあると思うんだけれど…… モミがい、モミがい?」

あたしは、はっとした。大事なことを忘れていたのだ。

「モミがいって、感触、感覚よね。当たり前だけれど、義手には感覚はない…… いや、センサー、圧力センサーを指先につければ、触覚代りになるかしら? 」

そもそも感覚は、脳への神経を用いた情報伝達。今の技術で、複雑な情報を神経に伝えるすべはない。感覚がないということは、どこまで指を動かしていいかが分からない。もちろん見ていればいいのだけれど。いつでも見ているわけにはいかない。暗闇で見えないことだってあるわ。下手をすると胸をモミ潰してしまうこともあるかもしれない。


 その日中に4本の指を動かし、応答を速くした。怖いくらいすんなりいった。次の問題は、指の感触をどうするか。感触があれば、フィードバックができる。それがなければ…… 難問だわ。

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