白手袋とひっつき虫(その2)
その女の子の印象を一言でいうと、愛らしい西洋人形。一見して高級と分かる白いワンピース、ふくよかな胸、少し緊張した大きな目と厚く小さな唇。その唇は紅をつけていなくても十分あかく、優君と同じ年頃の子だとわかる。
女の子はあたしと眼が合うと、ポケットに右手を入れた優君のその肘から慌てて手を離した。そして、名乗った。
「はじめまして、舞です。優ちゃんがお世話になっています」
それを聞いた優は顔をしかめる。姓を名乗らないし…… ということは、この二人の関係は姉弟かしら。
「水上、水上碧です。今度、優君の手を作ることになりました。よろしくね。えーと、それで舞ちゃんは…… 優君のお姉さん?」
それを聞いて優はずっこけた。舞はまた優の右肘をつかんで、もじもじしている。ということは、ハズレね。とすると……
「それじゃ、妹さん?」
「あははは。妹か、それはいいね」
と優は大口をあけて笑う。舞はその顔を見ながら顔を赤くしている。
「妹でも、姉でもありません。優ちゃんの幼なじみの五色舞です」
優が反論する。
「いや、幼なじみでもない。舞はおれの奴隷や」
「奴隷? 優ちゃん! いくら物理部の部長だからって、奴隷は酷いんじゃない?」
ほー この子たち物理部、高校の物理部なんだ。
「舞! 『ちゃん』はやめろ、今度、『ちゃん』をつけたら、即退部だぜ。部長の権限で舞を退部にする」
舞がシュンとする。
「はい、わかりました、優ちゃん」
全然、わかっていないみたい。
「とにかく、わかったわ。要するに二人は恋人同士ね」
と言うと、二人が同時に(ユニゾンで)
「違います!」
とむきになって答えたので笑えた。
「わかったわ、二人は兄弟でもないし、主人と奴隷でもないし、恋人でもない、どれでもない関係だけど…… 幼いころからの知り合いで、同じ高校、同じ物理部の同級生ね」
「まあ、そんなとこ」
「で、同級生の舞ちゃんが、どうして、ここにいるの?」
「えーと、それは…… 」
舞が返答に困っている。そして、まだ優の右肘をつかんでいる。あたしは、その手を見ながら言った。
「わかった。舞ちゃんはひっつき虫ね」
「えー、ひっつき虫? 私は虫じゃないよー 」
あのー ひっつき虫って虫じゃないんだけど。
「とにかく、今日は、優君とあたしは『いいこと』をするから、おとなしくしていてね」
「え~ 私もその『いいこと』の仲間に入れて!」
しびれを切らしたらしい優が不届きな発言をする。
「舞はあっち行って、さあ、オバサン、早く始めようぜ」
「優君、今、オ・バ・サ・ンって聞こえたような気がするんだけれど、あたしの気のせいよね~」
睨みを利かせると優は視線を外した。
「き、気のせいです」
「そうよね。28歳のお姉さんを捕まえて、オバサンはないわよね。あたしのことは『お姉さま』と呼びなさい。二人とも分かった? 返事は?」
「ハイ、お姉さま」
「はい、一回り年上のお姉さま」
「優! 一言多い」
ポカ。
あたしは加古先生に教えてもらいながら、電極を優の右手に貼っていく。その時、水色のリストバンドを外してもらったのだけれど、ウェイト付でびっくりした。優はトレーニング用と言っていたけれど、何のトレーニングかは不明。
小さな金属電極を全部で16個ほどテープで留めていく。電極の先はアナログフィルター、アンプ、デジタイザー、コンピューターへとつながる。最初に力を抜いた状態にしてもらって、バックグラウンドを測定。さらに、指を一本ずつ曲げてもらう。もちろん、人差し指から小指の4本はないから、曲げるように意識してもらう。それから、曲げた状態から伸ばす動作、同時に曲げる動作、曲げたまま力を入れる、力を抜く、そういった動作をしてもらう。LEDの点灯を合図に動作を開始し、また同時にデジタイザーが信号の記録を開始する。およそ3秒間、信号を記録し、すぐにコンピューターのモニター上にその波形が表示される。加古先生が時折、解説する。すべての動作の基本は、関節の両側の筋肉の収縮と弛緩で、片方の筋肉が収縮、もう一方が弛緩して、関節が曲がる。関節を伸ばすときは、2つの筋肉の収縮と弛緩が逆になる。指も同じで、義手を動かすには、各動作ごとにこの2つの命令(意思)を信号から読み取らなければいけない。目標は明確だけれど、実際の信号は単純ではない。例えば、ある電極の信号は、人差し指を曲げる時も中指を曲げる時も大きく反応するとか、同じ動作でも、ある時の信号の波形と次の同じ動作の時の信号の波形が異なるとか、電極の位置がほんのわずかずれるだけで信号の大きさが変わったりすることもある。
1時間ほどかけて一通りの動作の信号を見てみる。それぞれの指に近い電極の信号が大きく反応するのを確かめる。電極によっては、信号が非常に小さかったり、パターンがないように見えるものもある。そういう電極は使わないことにする。それから今度は、一つの動作を10回繰り返して波形の平均を計算する。次に電極を前後左右に2mmずつずらして波形を見る。さすがにこのころになると優は疲れてきたみたい。一方、舞はとうに興味をなくし、マンガを読んで、時折、くつくつくつと笑っている。気が散るから、あっちに行くか、静かに勉強しないさいと言ったら、勉強道具を持っていないと言う。とりあえず、紙と鉛筆を渡して、これで何とかしなさいと言う。
途中からいなかった加古先生が、コーヒーとまんじゅうを持って戻ってきたので、お茶にする。饅頭はなぜかアメリカ土産らしいが、よく見るとMade in Japanと箱に書いてある。
「先生、これ日本のものですよ」
「あ、本当だ。同僚からのもらいものだったから気がつきませんでした」
「賞味期限とか大丈夫ですか?」
「えーと…… 箱には11/12/10と書いてあって…… 2011年12月10日だから、まだ大丈夫ですよ」
そう言われて、あたしたちは安心してむしゃむしゃ食べたの。でも、後でよく考えると、2011年12月10日ではなく、11月12日、2010年だったと思うわ。だって、あの後、あれだもの。あれ。
夕方までに、なんとか必要なデータをとった。優もあたしもふらふら。とにかくデータの数と種類が多い。優の方は当面お役御免だけれど、あたしの方は、明日からのこのデータの山と格闘しなくちゃならないわ。
お腹がすいて死にそうと言っている優と一食ぐらい食べなくても平気だと言う舞とあたしの3人で、大学の正門の向かいにあるファミレスに行った。
「お姉さまがご馳走するから、何を注文してもいいわよ」
「ラッキー。やっぱ、肉、ステーキがいいなあ」
と優がメニューをほとんど見ないで決める。あたしはハンバーグ定食を選ぶ。
「舞は、焼き魚定食がいいわ」
「また、おじん臭いメニューか」
と優が舞を冷やかす。そして、何を思ったのか優が注文を変えた。
「あ、やっぱり、俺、ステーキやめにして、カレーライスにする」
「優君、遠慮しなくていいわよ」
と言うが、彼は聞かない。
あたしたちは、カレーライス、焼き魚定食、ハンバーグ定食を食べながら、高校の物理部の話、あたしが高校生だった頃の話、とりとめもない話をした。実際の所は、舞の独演会に近かった。ただし、それも、最初の10分程だけだった。そのうち、舞の言葉が少なくなり、なんだか、顔が青ざめて来て、とうとう、気分が悪いといって手洗いに行ってしまった。
「舞ちゃん、最初はあんなに元気だったのに、どうしちゃったのかしら?」
とあたしが呟くと、優がゆっくり話し出した。
「うーん、多分、お姉さんの食べているハンバーグを見て気持ち悪くなったんだと思う」
「ハンバーグ?」
「ハンバーグって挽肉で作るだろ。それで、俺の指が挽肉になったのを思い出したんだと思う」
「指が挽肉って、どういうこと?」
優は、白い手袋をした右手を見ながら説明してくれた。
「おれの、指、シュレッダーで挽肉になったんです。小学校に行く直前の幼稚園生だった頃、いたずらで描かれた絵を処分しようとして、親父の書斎に二人でこっそり忍び込んで、シュレッダーを使ったんです。そしたら、絵と一緒に俺の指まで処分されたんです…… それを見ていた舞は…… それ以来、肉とか挽肉がダメになって、食べられないんです。ま、俺は平気で、ステーキとか好きですけど、舞はダメなんです」
「ああ、それで、さっきステーキを注文しようとして、やめたのね。あたしがハンバーグを頼んだのは迂闊だったわ。言ってくれればよかったのに」
「いや、おれも、ハンバーグだったら、大丈夫かと思ったんですけど、ダメみたいですね」
優は左手で持ったスプーンを置いて、話し出だした。
「絵を処分するためにシュレッダーを使って、その結果、指がなくなったことに舞は責任を感じているです」
「そんな、幼稚園児が責任を感じるの?」
「うーん。多分、小学生のころは忘れていたと思う。俺も忘れていたぐらいですから。でも、中学生のころ、あるきっかけで、舞も俺も、絵とシュレッダーのことを思い出したんです。舞がひっつき虫になったのはその時からです」
「そのきっかけって?」
「お姉さんだから話しますけれど、誰にも、特に舞には言わないでくださいよ」
そう言って、声を落として話し始めた。
二人が中学1年のころ、夏の夕方、帰宅途中の神社で、舞が強姦されそうになった。それを偶然見かけた優は、最初は、ナイフを持った大男が怖くて、物陰から様子をうかがっていた。そして、雷にうたれたように突然、思い出した。同じ類のことが幼稚園であったことを。幼稚園の悪ガキが、じゃんけん、いわゆる野球拳で、舞を裸にして、泣いている舞の絵を描いた。それをコッソリ物陰で彼は見ていた。その絵をシュレッダーにかけると言いだしたのは彼。本当は、その絵が見たくて、そういう口実を作った。強姦されそうな舞を見て彼は気ついた。コッソリ物陰から幼稚園児の舞の裸を見ていた自分は、悪ガキと同罪だったと。そして、その時と同じ過ちを犯そうとしている。ここで、その罪を償わなければ。そのためには、自分の命さえ惜しくはないと思った。そう思うと、自分でも驚くほど大胆に、冷静に対処できた。背後から男にコッソリ近づいて、金的を思いっきり蹴り上げて、舞をつれて一目散に逃げた。舞の左腕を優の右腕で抱え込んで引きずるように逃げた。それ以来、舞は隙があると優の右肘をつかんでいるそうだ。
「というわけで、本当は、舞は責任を感じる必要はないんだけど、こういった事情は恥ずかしくて言えないんだ」
「そうねぇ。なんとなくわかるわ。その気持ち。やましさと恥ずかしさと、今更っていうところかしら」
「うん、そうそう、そんな感じ。誰にも言ったらダメだぜ。あ、ヤバい、お腹が…… ちょ、ちょっとトイレ行ってきます」
そう言って、優は慌ててトイレに行った。そして、彼と入れ替わりに舞が戻ってきた。すっきりした顔をしている。
「長かったわね。どうしたの?」
「ちょっと…… お腹か急にぎゅるぎゅる言い出して、トイレに駆け込んで出すものを出してきたの。もう大丈夫」
「え! あたしがハンバーグを食べるのを見て、気分が悪くなったんじゃないの?」
「ハンバーグ?」
「そう。挽肉で作られたハンバーグ見て、シュレッダーの件を思い出したんじゃないの?」
「シュレッダー? ああ、優ちゃんの右手ね。そう、今でも胸が痛むわ。絵を跡形もなく処分してくれった頼んだばっかりに、あんなことが起こったのよ。今から考えれば、どうでもいい絵だったんだけれど」
「どうでもいい絵?」
「そう。幼稚園の時、園長先生にこっぴどく怒られたの。悔しくって、園長先生を鬼婆にした絵を描いたの。描いた後で、怖くなって、優ちゃんに頼んだの。ばらばらにしてほしいって」
あれ? さっき優は、裸の絵つて言ってたけど、話が違うわ。舞は淡々と話を続ける。
「それで、優ちゃんがお父さんのシュレッダーなら完璧だってことになって、ああなちゃったのよ。責任を感じていなって言えば、ウソになるけれど、起きてしまったことは、しょうがないわよね。もうずいぶん昔の話だし。私が、そのなんだったけ、ひっつく虫? になったのは、優ちゃんが、強姦されそうになった私を守ってくれたからなの。中学生のころよ。それ以来、優ちゃんはいつも家まで送ってくれるようになったわ。優ちゃんたら、あの後、空手道場に通うようになって、今もウェイトを手首、足首につけて、ひそかに鍛えているのよ。さっき、電極つける時にリストバンドを外したでしょ。あれがそのウェイト。そうやって鍛えているのってかわいいと思わない?」
「かわいいと言うか…… うらやましいわ。若いっていいわね」
「話がだいぶ脱線したけれど、トイレに行ったのは、お腹がいたくなったから」
「優君もトイレに行くって言ったし、もしかして、食あたり? 何か変なもの食べなかった? ここで食べているのは、二人とも違うメニューだし」
「あ、もしかしたら、おやつの時に食べた、怪しげなまんじゅうは? 賞味期限がどうとか言っていなかった? 優ちゃんも食べていたわ」
「そう、それ。 ……それって、あたしも食べたわ!」
優がすっきりした顔になって帰ってきた。
「うー すっきりした。すっきりしたら、なんか食べたくなってきた」
「そうね。それじゃデザートにしましょうか? メニューから選んで」
メニューを見ている時に、それはやってきた。下腹部に台風が発生したみたい。発達しながら進路を下にとった。
「あ、あたしも、と、トイレに行くから…… て、適当に頼んでおいてくれる?」
なかなかトイレから出られなかった。戻ってきたとき、二人は、1つのグラスに残ったチェリーを柄の長いスプーンで取り合っていた。どうやら、二人で一つのパフェを食べたのね。かわいいわねぇ。この二人が恋人じゃなかったら、逆立ちしてもいいわ。あたしに気がついた舞が気まずそうに申し出た。
「お姉さん、すいません。あんまり遅かったので、お姉さんのチョコレートパフェを二人で食べてしまいました」
「ということは、たった今、空になったそれは、あたしの分?」
「それじゃ、あなたたちの分は?」
「ええと、私たちの分、2つは、もう、とうに食べて、下げてもらいました」
「と言うことは、それぞれ、1.5杯分、食べた計算になるわね」
あたしは、睨みを利かせた。優が口をはさむ。
「いや、俺は、1.3杯分で、舞が1.7杯分です」
舞が反論する。
「ええ、優ちゃんが1.4杯分で、舞が1.6杯分よ」
「どっちにしろ、舞が沢山食べたことには変わりないぜ」
……もしかしたら、この二人は、恋人じゃないのかもしれない。幼なじみがそのまま体だけ大きくなって、頭の中身は小学生のまま。小学生が好き合っていても、恋人って言わないじゃない。
その晩、あたしは帰宅途中のコンビニでチョコアイスを一箱買った。