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橋を架ける女と橋を壊す女(その8)

 二度あることは三度ある。


 金曜日、例のクライアントとの打ち合わせを午前中に終え、先週と同じように課長は帰社する方向とは反対の方向に歩いていく。まったく、同じパターンが3度目となるとあたしのすることは決まっている。そう『尾行』だわ。先週のメモリーすり替わり騒動に懲りたあたしは、課長の1分後方を落ち着いて歩く。課長は完全に視界の外。それでも心配はない。先週のパターンと同じであれば、どこに行けばいいかはわかっているから。

 先週、あたしが駅ビルの吹き抜けのほぼ中央で課長を発見した時、課長は西を向いて、西側のB子は東を向いて課長と話していた。あの時の配置からすると、課長は地下鉄駅から、そのまままっすぐ西に歩いてB子に相対したと思われる。吹き抜けに来るルートは東からの地下鉄駅からのルートのほかに、西からと北からがあるけれど、吹き抜けの中央に居たことと、相対していた向きの関係からB子は西からやってきたはずだわ。普通は、待ち人の来る方向を向いて待っているから、課長は西を向いていて、あたしが後を追って吹き抜けに来ても、課長の死角なので見つかる心配はない。そう予測したの。

 もちろん、予測はあくまでも予測だから、外れることもあり得る。吹き抜けが近づくにつれて、ドキドキしてきた。もしも課長がこっちを向いていたらどうしよう。変装しているわけじゃないから、視認された瞬間にばれるのは間違いない。とすると、課長に気づかれないよう物陰からコッソリ観察するしかないわ。あたしは、あと1歩踏み出せば吹き抜けが視野に入る角で立ち止まった。そして、秒を数えながら、そおっと角から顔を突き出して、吹き抜けの様子を探った。どうして秒を数えたかって? そりゃ何十秒もそんなことをやっていたら不審に思われるじゃない。人の往来の激しい所だから、せいぜい10秒がいい所だったわ。

 1,2,3。最初の3秒で、課長を視認。

 4,5,6。しかも向こうを向いているからこっちは死角だわ。あたしは予想が的中してにんまり笑う。

 7,8,9。B子は居ない。

 10。離脱。その時、あたしのすぐ横をヒールをコツコツ響かせた女性が通り抜け、視界をふさいだ。香水の匂いがほのかに漂う。女性の『青い背中』が視野の課長を覆い隠す。

 その女性に1,2秒、気を取られたけれど、もと来た駅方向へ10m後退した。さて、とりあえず、B子はいなかったけれどどうしよう。課長が向こうを向いていたんだから、もう少し大胆に様子を見てもいいでしょう。そうか! 『背中』があったわね。人の流れをしばし観測する。幅5m程の通路の左側2mは、角を曲がって吹き抜けの方へ行く人の流れ。残りの右側3mの人は階段を上がって、JRの駅の方へ向かう。左側2mを歩いている人の中から背の高い大柄な男性を一人見つける。そしてその男性のすぐ後ろついていく。そう背中を利用した遁術ってところかしら。このまま、この背中に隠れて、ターゲットに接近して、どこかで反転離脱する作戦。

 大柄の男性をピッタリ追走しながら、吹き抜けに侵入。背中の向こうに課長を発見。さらにその向こうにB子らしい女性を発見。大柄の男性はそのまま、吹き抜けの中央へと近づいていく。このままだと、接近しすぎるわ。どこかで離脱しないと……。そうだ、確か左方にお手洗いがあったわ。ターゲットまで3mという地点まで、大柄男性を追走し、そこから左へ離脱し始めた。そしてこの時に、たっぷり1秒間、B子を観察するつもりだった。

 最初の0.5秒は予定通り、先週見たB子であることを確認する。この時B子は、青い服を着ていた。そして香水の匂いが風にのって拡散していた。ところが、0.5秒経過した時に、不意にB子が切れ長の目をあげてこちらを見た。その瞬間、聖女の眼は狼の眼に変わった。そしてニヤっと笑った。え! そんな馬鹿な、あたしに気づいていた? 顔をこわばらせたまま、あたしは、計画通りお手洗いに向かった。

 女子トイレで左脳がフル回転する。B子はあたしに気づいていた? あたしの気のせい? いや、でも、あたしを見て笑ったわ。 偶然? そう言えば、最初に吹き抜けの様子を伺った時にあたしの視界を遮った女性は、青い服を着て、香水を漂わせていた。つまり、B子だったのだ! ということは、あたしは不審者としてマークされていた?

 10分間女子トイレにこもった後に、おそるおそるトイレを出た。吹き抜けに課長もB子もいないことを確認して安堵した。この後に起きたことを考えると、本当は安堵どころではなかったんだけれど。これがB子との2回目の遭遇だった。


 天災は忘れたころにやってくる。B子も忘れたころにやってきた。本当にやってきたのだ。


 水曜日夕方、課長は出張中。あたしは、ぼーっとしながら、あたしと顔がそっくりな入来美帆のことを考えていた。似ているのがもし偶然でないとしたら…… 異母姉妹の可能性が一番高いと思うの。つまり、パパが不倫をして、入来美帆が隠し子だった。それがママに発覚して、離婚の原因になった。そんなことってあり得るかしら。そう言えば、パパもママも、離婚の原因をはっきり教えてくれなかったわ。考え出すとキリがないけれど…… 少なくとも不倫相手の母子家庭は随分違うはずだわ。だって、離婚してパパが居なくなってからのあたしたち母子家庭は随分寒々としたものだったから。だからといって、離婚せずに、形だけの4人家族の方が良かったかと言われると、何とも言えないわねぇ。離婚直前のあのギスギスした雰囲気は、二度と体験したくないわ。

 電話が鳴って、あたしは妄想から現実に引き戻された。受付からで、あたしに面会だという。相手は聞き覚えのない社名、人名だった。社名はIHC、名前は矢立奈緒美やたてなおみ。なんとなく、気味が悪から、ネットで検索してから応接室に向かおうかと思っていたけれど、どのみちすぐ会うのだからと思ってやめたの。応接室で待っていた女性は、B子だった!


「初めまして…… では、ないわね。3回目かしら、水上碧さん」

立ち上がったB子は、そう言ってはニヤっと笑った。血の気が引いていくのが、自分でもよくわかったわ。会社まで来るって、もしかして、ストーカー? でもよく考えると、あたしの方がストーカーかしら? 課長を尾行したのは確かだし。でも3回目ということは、2回ともばれているってこと? これってかなりヤバい状況では? とりあえず、条件反射のように名刺を交換する。

「総合課の水上碧です。よろしくお願いします」

「IHCの矢立奈緒美です」

名刺にさっと目を通し、役職名を拾い上げる。『取締役社長』、え! 社長? 

「お、お座りください。ご用件をお聞かせ願えますか?」

「あら、用件があるのはあなたの方じゃなくって?」

この言葉が決定的だった。あたしは完全に打ち負かされた。野球で言えば、1回表で敗北が決まったようなもの。

「それより、こんな趣味の悪い応接室じゃなくって、外の喫茶店ででも、お話しません?」

高飛車な物言い、誰が見ても美人とわかるぐらいの美人。年齢は40前後、そして、実務的とは対極の貴婦人のような装い。あたしは同意し、彼女についていった。


 喫茶店に入ってコーヒーを注文する。この場合、割り勘かしら、とどうでもよいことが気になる。どちらにしろ、あたしの打てる手はほとんどない。ならば、策を弄さずに真っ向勝負あるのみ。あたしの方から口火を切る。

「お言葉に甘えて、あたしの用件を言います」

「どうぞ」

と彼女は聖女の眼で答える。まるで、自分がけがれとは無縁だと言わんばかりね。

「あたしの杞憂だとは思いますが、大変失礼な事をお聞きいたします。矢立さんは、霧島課長の不倫相手ではありませんか?」

「あはは、面白いことを言うわね。その質問に答えるつもりはないわ」

「え、なぜ? やましいから答えられないですか?」

「さあ、子供の質問、探偵ごっこをするような子供の質問には答えないということ」

「探偵ごっこ? ……確かにそうね。答えないのなら、なぜ私に会いに来たのですか?」

あたしは、食い下がった。

「たまたま、寄ったのよ。黒川の社長さんに用があって、それを済ませてから寄ったのよ」

「え! うちの社長に用?」

「そう。社長さんと最後の交渉をしていたのよ。黒川を買収したいという会社があって、あたしはその仕掛け人。もう情報は公開されているから、あなたも知っているはずよ」

そう言えば、今朝、誰かが敵対的TOBがどうのこうのと言っていたけれど、丁度、電話に出ていて、詳しいことは聞けなかったけれど。

「本当に、うちは買収されるんですか?」

「実の所、50(フィフティ), 50(フィフティ)ね。だからあたしが呼ばれたんだけれど」

「もし、買収されたらどうなるんですか?」

「そうね、スリム化して、つまり、リストラして、利益率が高くなったら、転売するのよ」

「り、リストラ?」

「利益をあげている光機課は20%ぐらい削って、総合課は廃止ね」

「は、廃止ですか」

あたしは、力が抜けていくのを感じた。それからは、彼女の眼を見ることができなくなった。

「あ、水上さんは心配しなくてもいいわよ。光機課に移ってもいいし、別の会社に転職してもいいし。あたしの査定では、水上さんが他社に移った場合、中途採用という点を考えても、年収20%アップは堅いわよ」

「査定までしているんですか?」

「当然よ。会社の価値は人材よ」

彼女は、コーヒーに形だけ口をつけた。

「さて、無駄話はこのくらいにして、あたしは行くわ。勘定はあたしが持つわ。子供に払わせるわけにはいかないからね」

こちらは、反論する気力すらなくなっていた。

「最後に、子供が喜びそうな情報を教えてあげる」

そう言って、彼女は昔の話をした。

「昔、霧島課長とは恋人同士だったの」

「え!」

「それをあの女が邪魔した。霧島を誘惑したのよ。奪われたものを奪い返しても、何も悪くはないわ。だから、それは不倫とは言わないのよ」

「で、でも、課長には一人娘がいます。かわいがっている一人娘がいます。不倫、離婚は、何の罪もない娘さんには酷です」

「罪なら、大ありよ。私は、あの女に堕ろせって言ったのよ。霧島には、堕ろさないならほっときなさいって言ったのよ。だけど霧島はあの女と結婚した。おかしな世の中よねぇ。避妊具つけたまじめな女が不幸になって、避妊具つけない尻軽女が幸福になるなんて」

あたしは、彼女の眼を見ずに、最後の問いをなげた。

「それじゃ、課長を取り返すつもりですか? 課長の家庭を崩壊させてまで、課長を取り返す気ですか?」

「さあて、どうしましょう。今の霧島は腑抜けだからねぇ」

「腑抜け? 課長は、腑抜けじゃありません!」

あたしは、思わず大声で反論した。

「あら、かわいいこと。ご主人様に甘える子犬みたいね。いいこと、腑抜けでも私なら立ち直らせることができるわ。とにかく、子供の出る幕はないわ」

「子供ですか?」

「そうよ、子供よ。でも、勘違いしないで。あなたの仕事能力は買っているわ。そのうち、引き抜きの打診があるかもしれないから覚悟しておいて」

そう言って、彼女は去っていった。最後まで、彼女の眼を見ることはできなかった。でも、狼の眼をしていたのは確実だわ。その眼光に射ぬかれたあたしは、5分間立ち上がれなかった。


 それから半年ほどは、黒川電子工房うちは、上へ下への大騒ぎだったわ。結局、TOBは失敗におわって、リストラの心配もなくなった。それでも、外部から役員が何人か乗り込んできたし、光機課では、5人引き抜かれた。最初から、これが彼女の目的だったんじゃないかと思える。幸い、総合課は無傷。課長、課長補佐に引き抜きの話があったらしい。あたしには、引き抜きの話は来なかったけれど、課長が防波堤になったことを後で聞いた。

 課長の家庭がどうなったかは、不明。少なくとも、まだ、何かが続いている。とにかくプロジェクトB子は失敗だった。橋を壊す女にはとても歯が立たないわ。

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