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橋を架ける女と橋を壊す女(その7)

 渡が住んでいるのは、築30年以上のマンションだった。造りはしっかりしているようだけれど、何しろ古い。エレベーターもなんとなく古風だし、廊下の照明も暗い。

「ここが俺の城や。人並みに散らかってるけれど、気にせんといて」

そう言って、渡は鉄の扉をあける。少しカビ臭いような気がするわ。玄関には、脱ぎ散らかした靴が5足ほど、スニーカーから軽登山靴まである。さらに靴箱から靴があふれている。

「一体何足あるの?」

「さあ、数えたことはあらへんけど、20足ぐらいやろうか? 靴は商売道具やから」

なるほど、あたしがPCを3台持っているようなものね。幅の広い廊下には自立式のハンガーラックが幾つも並べられていて、アロハシャツからもダウンジャケットまであらゆる種類の服が揃えてある。全天候、全気候に対応できそう。この分だと、部屋の中は物であふれかえっているに違いないと思ったのよ。でもその予想は100%外れた。

 廊下の突き当たりに広い和室、その手前に狭いダイニングキッチンがある。あたしは、目をきょろきょろさせながら不審なもの、つまり『別の女』の痕跡を探す。手を洗うために洗面所を借り、長い髪の毛、色の違う髪の毛を探す。鼻をひくひくさせ、匂いを嗅ぐ。香水はもちろん整髪料の匂いもしない。かすかに歯磨き粉の匂いがするだけ。コンビニで余分に買ったビールを冷蔵庫に入れるついでに、中もチェックしたけれど、がらがらで、件のビールと、瓶が若干あるだけ。キッチンには、包丁が1本、鍋が1個、フライパンが1枚、お玉が1本。食器も数えるほどしかない…… 要するに自炊はしていないのね。とにかく、洗面所、キッチンには『別の女』の痕跡はない。

 和室では、渡が、マットレスを押し入れにいれ、和机を台布巾で拭いていた。和室の隅に旅行誌が積み重ねてあるほかはほとんど物がない。

「ねぇ、テレビはないの?」

「テレビ? そんなもんあらへんよ」

「ねぇ、本棚はないの?」

「本棚? そんなもんあらへんよ」

「ラジオとかCDプレーヤーとか、ゲームとかは?」

「もちろん、あらへんよ」

「何にもないのね」

「そんなことないで、ほら、こっちを見てみい」

渡の視線の先には壁があり、そこに2枚の絵がセロテープで貼ってある。

「さゆりさんの描いた絵、あたしの夢じゃない」

「ああ、そうや。ええやろう」

「貼るのがあたしの部屋でなくてよかったわ」

だって、そうしたら、毎日、見るたびにプレッシャーをかけられるじゃない。まあ、臥薪嘗胆をやるんだったら別だけど。

「それにしても何もないわねぇ。あるのは、靴と服だけねぇ」

「シンプルやろ?」

「普通、歳をとれば、その分、ゴミと言うか、捨てられないものが溜まっていくと思うんだけど」

「過去は見ない、思い出さない主義やから。すべての物は、俺のそばを通過していくんや。だから溜まらんのや」

「行く川の流れは絶えずして…… とどまりたるためしなしって所ね」

「なんやそれ?」

「方丈記よ」

「あ、なんかそれ、なろうたような気がする。漢文やったけ?」

「古文よ。方丈記は、余分なもの、しがらみを捨てていくこのと大事さを説いているのよ。若者向けじゃないけれど、渡は案外共感できるかもしれないわ。短いからすぐ読めるわよ」

「いや、俺は遠慮しとくわ。古文、漢文は苦手やから」

「方丈記は教養よ。渡ってもしかして、今、この刹那にしか関心がないんじゃないの?」

「そういことになるわなー 過去のことは苦手やし、ついでに先のこともあんまり考えへから」

「あたしが渡を好きなのは、そういう所かもしれない。反対に、あたしは、先の先、起こりうることすべてを考えないと気が済まない。そうして、不安で頭がいっぱいになって、安らぐことがないわ…… 本当のことを言うと、強引に渡の家に来たのは『別の女』、『別の女の痕跡』をがないかどうかを確かめるのが目的だったのよ」

「で、どうやった? 痕跡はあったか?」

「見つからない」

「そりゃそうやろ。『別の女』なんか最初からおらへんのや」

「本当?」

あたしは、眼を輝かせた

「ああ、本当や。少なくとも『今』はな」

「今は? じゃ過去には居たの?」

「過去は忘れた。未来は誰にもわからん」

「え! 未来がわからないって? 約束したじゃない?」

「?」

あたしは、だんだん興奮してきた。

「あたし一人とつき合うって花火の時に約束したじゃない! 神様に誓ったじゃない!」

「あ、そういえば、そういう約束したわ。忘れたわけやない。けど…… さっきゆうたように先のことを考えのるは苦手なんや。だから、約束とか契約とか苦手なんや。俺の未来を約束や契約で縛りたくないんや」

「じゃー、結婚は? 究極の契約である結婚は?」

「結婚? さあ、結婚したくないわけやないで、生涯を共にする伴侶が現れたら、結婚すると思う」

顔がだんだんあおざめてくる。そして、思わず聞いた。

「じゃ、あたしは? あたしとは結婚したくないの?」

言ってしまって後悔した。渡の返事いかんによっては…… ゴクリと唾を飲み込む。

「碧と? 碧と結婚?」

ウン、ウンと頷く。

「結婚できたらええなぁとは思うけど、エンマ大王に舌を抜かれてでも結婚したいかちゅうと…… どうやろうか?」

閻魔大王? 一体どっちなの? 結婚したいの? したくないの? あたしが目を吊りあげるのを見て、渡は言い足した。

「正直、あんまり、まじめに考えてへんわ。碧はどうなんや?」

「え、あたし?」

「そう。是が非でも俺と結婚したいんか?」

沸騰しかけた頭に冷水を浴びせかけられる。そう言えば、あたしはどうなんなんだろう。渡と結婚したいのかしら?

「わ、分からないわ…… だから、それを確かめるためにここまで来たのよ」

渡の眼をまっすぐ見つめる。渡はちょっと驚いたような表情を見せる。あたしがここへ来たもう一つの目的、作戦Cが何かわかったようね。

「どうやって確かめるんや?」

ガク、やぱっり、作戦Cが何か分かっていなみたい。

「……後で教えてあげる…… とりあえず、ビールを飲む前にシャワー浴びさせてもらっていいかしら。今日は、汗かいたし。少し、頭も冷やしたいわ」

「シャワー? そうやな。あ、うちのシャワーは普通のシャワーやから」

「普通の?」

「そう。お湯も出るし、真水やし」

「お湯が出ないシャワーとか真水が出ないシャワーってあるの」

「ああ、そういう国もある。水しか出ないシャワーとか、塩水がでるシャワーとか」

「そ、そうなの。あたしには想像できないわ」


 あたしは、急いで、だけど、しっかり、くまなく洗った。持ってきたショーツ、短パン、Tシャツを身につける。できるだけ、荷物を減らしたかったから、短パンとTシャツにしたの。それに、肌の露出が多いし。あたしに続いて、渡もシャワーを浴びる。その間に、買ってきたつまみ、件のビール、グラスを和机に並べる。

 渡と乾杯をする。タイのビールはちょっと苦味があった。反対にベルギーのビールはチェリーの果汁が入っていて、甘かった。それにしても、『結婚』かぁ。結婚って何なんだろう。なんとなく憧れていたけれど、その実、あたしはまじめに結婚を考えたことなかったわ。

 殺風景な和室。枝豆と冷ややっこを黙って食べている渡。あたしも黙って食べる。壁に貼ってあるさゆりさんの絵、あたしの昔の夢を見上げる。結婚すれば、この部屋も変わるのかしら。あたしの視線は絵を突き抜け、未来へ、過去へと伸びていく。


 10年後。さゆりさんの絵のあったところには、クレヨンで描いた『わたしのママとパパ』が掲げてある。キッチンには、湯気をたてている鍋。魚をグリルで焼くにおい。和室を所狭しと駆け回る男の子。配膳を手伝う利発そうな女の子。そして、和机にはビールを飲んで上機嫌なパパがいる。


 20年後。『わたしのママとパパ』があったところには、サッカーの賞状と自由工作の賞状が掲げてある。体だけは大きくなったニキビづらの男の子は、夕飯も食べずにゲームに夢中になっている。大人の色気が出てきた女の子は、パパとロボットの話で盛り上がるが、ママとは話が合わない。


 30年後。壁には黄ばんだ賞状が掲げてある。子供たちは独立し、老年にさしかかろうという夫婦が静かに夕飯を食べている。風鈴がさびしげな音を響かせる。急須からお茶を注ぐ妻の手には静脈が浮き出て、しわが刻みこまれている。そして、夫は、茶碗に残った最後の一粒のコメを口にいれ、静かに箸をおく。


 渡が口を開く。

「あんまり、先のこと考えん方がええんちゃう?」

はっと我に返ったあたしは、頬を一筋の涙がつたっているのに気づいた。

「未来がどうなるかは、誰も知らん。それに備えるのも大事やけど、今を楽しむ、今を味わうのも大事やで」

そういって渡は、座っているあたしの背後に回り込んで、後ろから抱きしめてきた。渡の温かい体があたしをすっぽり包み込む。その瞬間、涙が止まらなくなった。別に悲しいわけじゃない、かといって嬉しいわけじゃない。ただ涙がでるのよ。渡は、そっと涙を拭いてくれた。そこまでは良かったんだけれど。


「ちょ、ちょっと! 何これ! さっきこの机を拭いていた台布巾じゃない!」

「そうやで。雑巾やないからええやないか」

「よくないわよ。この不潔野郎!」

「ふ、不潔野郎とはなんや! お、女のくせにもう少し上品な物言いはでけへんのか!」

「女のくせにって、女をバカにしたわね!」

そして派手な喧嘩が始まった。でも、すぐ仲直りしたのよ。ただ、その後が……


 気がついた時には、窓からあかるい日差しが入っていた。そしてあたしは布団の上に寝ていた。お腹の上にはタオルケットがかけてある。すぐ左にはお腹をだした渡が静かに寝息を立てている。とりあえず、メガネを探す。予想通り、メガネは部屋の隅へ押しやられた和机の上にあった。メガネをかけて辺りを見回す。机の上には、ビールの缶が10缶ほど、空の焼酎のボトルが1本、ポテトや柿の種といったつまみの袋、が散在している。左脳を無理やり回転させて記憶をたどる。

 確か…… 飲み比べをしたのよ。どうしてそういうことになったかって言うと、…… 思い出せない。とにかく、どっちがお酒に強いか勝負になって…… あたしが勝ったんだったけ? 最後に渡もあたしもフラフラになって、シーツをしくのももどかしく布団に倒れこんだんだったわ。

 しまった、作戦Cのことをすっかり忘れていた。渡の無防備な寝顔を見ていると、自然と魔性の笑みが浮かんでくる。時刻はまだ7時前だけれど、こんなに明るとさすがに恥ずかしいわ。どうしたものかしら。あ、そうだカーテンを閉めればいいのよ。厚手のカーテンだから、しめれば結構うす暗くなるわ。

 そーっと、カーテンをしめる。それにしても汚いカーテンね。


 寝ている渡の服を脱がせようとすると……

「ジリリリリー」

ものすごい音が部屋の外で、建物中で鳴り響く

「ジリリリリー」

渡が飛び起きる。

「な、何なの?」

あたしが尋ねると

「うーん。何やろ? 火災報知機やな。つまり、火事ってこと」

「ええ!」

「避難するで」

そう言って、渡は、あたしの手をつかんで部屋を出た。


 マンションの玄関ロビーに、住民が続々と集まってくる。パジャマを着た眠そうな人、新聞を持っている人、歯ブラシを持った人、乳飲み子を抱えた女性、なぜかスーツをバシッと決めている人、サバイバルキットを背負っている人。10分程経っても、火災報知機は鳴りやまない。誤報じゃないか、警備員さんは、と言った言葉がちらほら聞こえる。ようやく警備員が現れ、『確認しておりますので今しばらくお待ちください』と声を張り上げる。

「ねぇ、誤報なの?」

「多分、そうやと思う」

「よくあるの?」

「おれは、ここに4年住んでるけど、これで2回目や。まあ築30年やし、こういうこともあるやろう。外国では珍しゅうないで」

「誤報なら迷惑もいいところね」

「まあ、ベルがちゃんと鳴るっちゅうことが確認できたわけやし、避難訓練と思うたら、なんてことないやろ」

「そう? 渡は寛容なのね」

「碧は、焦りすぎや。もっと気楽にし。生き急いだらあかんで」

そういって、寒さに震えるあたしの肩を引き寄せる。

「あたしの住んでいるところは、築5年よ。今度はあたしの家に泊って?」

しばらく渡は、考え込んでから返事をした。

「お酒は、ほどほどにしてくれるか? 昨日は飲みすぎたで、もう勘弁してくれや」

「そう言えば、どっちがお酒に強いか勝負したんじゃなかったかしら?」

「ああ、確かに勝負した」

「で、どっちが勝ったの?」

「さあ」

「さあって覚えていないの?」

「ああ、覚えてへん。で、どっちが勝ったんや?」

「あたしも覚えていないのよ」

「あははは。それやったら、碧が勝ったことにしとこうや。俺はもう碧と飲み比べはしとうないわ」

「あたしもよ。なんだか、コーヒーが飲みたくなってきたわ。それに、お腹がすいてきたわ」

「俺もや」

あたしの頭の中で、妄想と食欲が膨らみ始める。香ばしい焼きたてのトースト、ジューシーなオレンジ、ほんのり甘いスクランブルエッグ…… こうなると作戦Cはもう駄目ね。


 結局、作戦CはCをcurtainのCに変更して完遂。カーテンがあまりに汚かったから洗濯したのよ。元々のCの方は開封せずに持ち帰った。

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