橋を架ける女と橋を壊す女(その5)
入来美帆は『橋鬼伝説』を教えてくれた。
随分昔、戦乱が収まりつつあるころ、たいそう力持ちで、それでいて内気な鬼がいた。めったなことでは人里に下りてくることはなかったけれど、時折、木や木工細工を人に売って、酒や着物と交換していた。村人も長年の付き合いで心得たもので、鬼を怖がることもなく、必要最低限の付き合いをしていたの。
ある時、鬼が愛用の大斧を振るって大木を伐っていた時に、背中に小さなとげが刺さった。丁度、鬼の手の届かぬ背中の真ん中だった。最初は放っておいたのだけれど、そのうち膿みだし、さらには、高熱を発し、寝込んでしまったよ。そこへ、薬草を採っていた若い娘が通りかかった。最初は鬼を怖がっていたのだけれど、かわいそうに思ってとげを抜いて、薬を塗って介抱した。回復した鬼は、娘の住んでいる村のそばに居つくと、何かと娘や村人のために働いた。そしていつしか二人は愛し合うようになり夫婦となった。
その村は平家の落人達の村で、険しい地形で周りから隔絶されていたの。谷は険しく、ちょっとした雨でも川は濁流となり、橋を作ってもすぐに流されたわ。村が賊に襲われることはなかったけれど、村人、特に女子供は、容易に川を渡ることができなかった。だから、男どもは、時折、川を越え街に出て必要物資を手に入れた。ついでに女を買うこともあったかもしれない。そんな不便を見かねた鬼は、丈夫な橋を作ることにした。鬼の怪力をもってしても大変な工事だったわ。苦労の末、橋は完成し、村人は自由に谷を渡ることができるようになったわ。
あたしは興味がわいて聞いてみた。
「ねぇ、鬼が作った橋ってどんな橋だったのかしら」
「伝説には、何も述べられていないけれど、深い谷なら、相当なスパンの橋、つまりこちら側から向こう側までが長い橋だったはずよ。だから吊り橋かしら?」
「昔の吊り橋ってかずら橋みたいなもの?」
「よく知っているわね。かずらは丈夫な蔓で、大きな張力に耐えられるから吊り橋に使われたのよ。木工の得意な鬼だったから、立派な木製のアーチ橋かもしれないわ」
「アーチ?」
「そう、西洋建築、例えば、教会の円弧状の柱や天井がいい例だわ。小さな材料で大きく高い天井を作り出せる優れた構造よ。アーチの反対がせり出し構造」
「せり出し構造?」
「平積みのブロック状の石が少しずつせり出して天井を作るの。アンコールワットが典型だけれど、どうしても作り出せる空間の大きさに限界があるのよ」
それまで『?』の顔をした渡が口を開いた
「アンコールワットやったら見たことあるで。確か千年近く前の建物や。でも崩れている部分も結構あったわ」
「でも千年ってすごいわね」
「千年も残る建物はすごいわ。地震、火災による劣化、雨風による風化、建物自身の重みに耐えたものだけが残っていく。橋の場合も重量を支えなければならない点は建物と同じよ。橋の自重と橋を通る人や車の重量をどうやって支えるかで、色々なタイプがあるわ。吊り橋の場合、こちらから、向こうへ渡した綱の張力が鉛直方向の橋の重量と水平方向の向こう岸と引っ張り合う力を支える。張力に耐えらる綱、蔓、ワイヤーがあればいいから、ある意味単純な橋で、これから案内する剛性をもつ部材が必要な橋とは随分違うわ。そろそろ目的地よ。『橋鬼伝説』にはまだ後半があるんだけれど、それは橋を見てからね」
狭い山道を抜けると突然、視界が広がる。現場はドーム球場がすっぽり収まりそうな広さと深さがあり、沢山の重機、作業員、ダンプがうごめいている。その喧噪の中心に大きなコンクリートの塊、そう、『やじろべえ』があった。あたしたちは車から降りて、ヘルメットをかぶって歩く。美帆さんが丁寧に解説をする。真ん中のコンクリートの足(橋脚)は地下深くまで打ちこまれている。そこから両側へ長い長い腕を出してそれが橋となっている。建設中なので橋はまだ、両岸にはつながっていない。そこで、バランスを取りながら腕を左右に少しずつ延ばしていく。この現場では、地面から橋まで届く足場を作らずに、腕の先端に近い所に、先端から少しせり出すやぐらを立ててそれを足場に新しい部分を作っていくのが特徴。もう一つの特徴は橋の一部に鉄を使っていること。吊り橋の場合は橋を沢山の綱で吊っているから、橋げたは薄く剛性は要求されない。この橋の場合は、橋の重量をやじろべえの真ん中の足で支えるから、橋げたが自重でたわまないようにしなければならない。そこで、橋げたを高さ方向に厚くする。断面は丁度箱のようになる。こうすると断面二次モーメントが大きくなって、たわみにくくなる。
『?』の顔をした渡が疑問を口にする。
「途中までは、何とかついていけたんやど…… 『断念、2時、モニュメント』ってなんや?」
「『断面2次モーメント』よ。渡には難しいから理解しなくていいわよ」
優しく言ったつもりだったんだけど、どうやら渡の癇にさわったらしい。
「あ、またお前を俺をバカにしたやろ。理系やからって、最初っから説明せんのは、人をバカにしとるんちゃうか?」
こっちもカチンときて、『そういうあんたは臥薪嘗胆も知らないで文系のつもりなの?』と言い返そうとしたけれど、前回の喧嘩、いやなことを思い出したあたしは、さっさと謝ることにしたわ。
「あ、謝るわ。ごめんなさい。それじゃーあたしがわかるように説明するわ」
「碧先生、よろしくお願いします」
先生と言われるとまんざらでもない気がする。
「剛性、つまり、物が変形しにくいかどうかは材質だけでなく、形に依存するの。同じ断面、例えば直径1cmの円、の棒を考えて。木の棒と…… そうね魚肉ソーセージ。どっちが変形しくいい?」
「もちろん、木の棒や。木の棒でたたかれたら痛いけど、魚肉ソーセージなら何ともないわ。それはそうと魚肉ソーセージは苦手なんやけど…… 普通のソーセージの方がええんやけど…… 今日の弁当にはいっているとか?」
「そう? あたしは好きなんだけれど。今日のお弁当には入っていないから安心して。とにかく、材質が違えば剛性が違うのは当たり前だけれど、同じ材質、同じ断面積でも形が違えば、変形しやすさは違うわ」
「断面積?」
「そう、断面積が同じ場合を比較したいの。例えば、プラスチックの箒を作る工場で、長さ1mの箒の柄を作る時に、中が詰まった円柱状のプラスチックの柄と中が空いているパイプ状の柄とどちらかを作るとするわ。どっちが丈夫かしら?」
「そりゃ、中が詰まっている方が丈夫に決まっているやないか」
「直径が同じならそうよ。でも材料費、材料のプラスチックの量が決まっているとするとそうじゃないわ。材料の体積が同じで、長さが決まっているとすると、断面積が同じだわ」
「だんだん、難しゅうなってきたわ。でも体積が断面積かける長さなんはわかるで」
「そうよ。断面積が同じなら中が詰まった円柱の方がパイプよりずっと直径が小さくなるわ。この場合はパイプの方がはるかに丈夫になるの。この断面の形状で決まる変形しやすさしにくさを表わすのが、さっき美帆さんが言った『断面2次モーメント』なの」
「何とのうわかってきたけど、もう少し分かりやすくできへん?」
「そうね。例えば、ティッシュの箱。箱は丈夫だけれど、これをつぶすとぺらぺらになるわ。断面積は同じだけれど変形のしやすさは違うわ」
「それっやったら分かるわ」
「本当のことを言うと、方向にもよるのよ。ぺらぺらになるのは厚み方向だけれど、それと垂直な方向は変形しにくいわ」
「垂直って、どっちや?」
「ごめん、垂直って言わない方がいいわね。それじゃ別の例で説明するわ。プラスチックの下敷きを想像して」
あたしは手の平を下敷きに見立てて、ての平で顔を仰ぐ動作を見せる。
「下敷きは、下敷きの面と垂直な方向にはぺらぺら、つまりやわらかく変形しやすい。下敷きでこんな風に顔をひっぱたいてもそんなに痛くないでしょう?」
そう言って、手のひらで渡の頬をぺしぺしする。
「いや、十分痛いで」
「でも、面の方向に振って、頭をこつこつすれば、かなり痛いでしょう」
手のひらをたてて、渡の頭に手を載せる
「あ、堪忍、堪忍。相当痛いで」
「変形しにくいから、力が和らぐ間もなく、ダイレクトに伝わって痛いのよ。つまり変形しようとする方向に長ければ長いほど変形しにくくなるわ」
「あ、分かったで。つまり、平手打ちと空手チョップとどっちが威力あるかっちゅう比較やな。もちろん空手チョップの方が威力があるで」
「う~ん。それはわからないけど。長さと威力の関係は正しいわ」
「それにしても、碧に下敷きでチョップされてヤツは痛かったやろうな?」
「あたしがそんなことすると思う?」
渡はウンウンと頷く。そう言えば、中学の時に、クラスの男子にそんなことをして泣かした覚えがある。
「それで、橋の話と空手チョップとどういう関係や?」
今度は美帆さんが説明する。
「碧先生の話は分かりやすかったわ。この橋でも側面の鉄板、黒い部分が空手チョップの手の役割をするのよ。これによって面の方向に変形しにくくなる。それで、橋の重量によるたわみを防ぐのよ。変形のしやすさは幅の3乗で効くから、相当丈夫よ」
「3畳?」
「3乗は、3回かけること。例えば、幅が2倍になれば、2の3乗の8倍、変形しにくくなるのよ」
「それはそうと、何で鉄を使うや。全部コンクリで作ってもええんちゃう?」
「性能と値段の問題ね。コンクリートは圧縮方向には強いけれど、引っ張り方向には弱い。鉄は引っ張りにも強いから、コンクリートの中に鉄の棒を埋め込んで、鉄筋コンクリートにすれば、圧縮にも引っ張りにも強い部品ができるわ。だから大抵のコンクリートには鉄筋が入っているのよ。全部鉄で作った橋もあるわよ。鉄の方が軽くて丈夫でしかも工事期間が短いから性能がいいわ。でも値段が高くなるのと、錆びないようにメンテナンスをしなければならないから、道路関係では鉄筋コンクリートが圧倒的に多く使われるわ」
「それやったら、この橋は何年持つんや?」
「普通にメンテナンス、つまり時々検査して、劣化した所があれば、補修する程度で100年は持つわ」
「じゃー 千年やったら?」
「千年?」
「そう、千年や。アンコールワットは千年近く前、ピラミッドやったら4千年以上前や」
「多分、持たないわ。千年後には今みたいな車は走っていないと思うの。だとすると高速道路はメンテナンスされないわ。メンテナンスされないと、中の鉄筋がさびて膨張してコンクリートの塊はぼろぼろになるわ。残念だけど、千年は難しいと思う…… それでも、あたしは橋を作るわ。今、橋を必要としている人がいる限り、橋を作れと言う人がいる限り、できる限りいいものを作るわ。それがあたしの役割」
なんだか、美帆さんがうらやましい。
「橋はまだいいわよ。あたしの作っている回路モジュールなんか10年使ってもらえればいい方よ。でも美帆さんの言う通り、必要としている人がいればいいのかもしれない」
「二人とも、落ち込んだらあかんで。ぼろぼろになっても形が残っとったら、俺みたいなガイドが解説するんや」
「そうね。千年後のガイドさんに期待しましょう」
「あ、あそこにダンプが来たわ。見てて、これからリフトに乗って下まで降りるから」
でっかいダンプが塔の中に停車したかと思うと、床ごとゆっくりと降りていく。確かに巨大エレベーターだわ。近くで見ると圧巻ね。
「そうそう、忘れないうちの『橋鬼伝説』の後半を話さなくっちゃ」
美帆さんは、鬼が橋を作った後の話を始めた。橋ができて、村人は街へ行って作物と様々な品を交換するようになり、少しずつ豊かになっていった。鬼の妻となった娘も薬草を売って、反物を仕入れて鬼の衣を縫ったりしたのよ。そして、村人は、鬼が橋を作ったこと、橋がどんなにありがたいものかを次第に忘れていったの。村人が橋を使って街へ行くのとは反対に、鬼は橋を使うことはなかったわ。ある日、娘は、街へ行き、帰ってこなかった。翌日、娘は帰ってきて、心配で一睡もできなかった鬼にこう言ったのよ。『ごめんなさい。調薬道具を直してもらったら、遅くなって、道具屋さんの家に泊めてもらったの』 橋はできても、街に行くのは一日がかりだったし、街道も安全とは言えなかったから、娘の言い分はもっともなことだった。でも、そんなことが何度かあって、鬼は気がついたのよ。娘が街で浮気をしていると。そして、ある時、翌日帰りの娘が村に帰ってきたとき、鬼は愛用の大斧を持って橋のたもとで待っていた。それこそ仁王立ちと言うのかしら。怒りに燃える眼は、今にも不貞の妻を手にかけようとしていた。娘は一心に命乞いをしたのよ。それを見て鬼は気がついた。娘はもう鬼を愛していないし、そんな娘を自分も愛してはいないことに。悲しい眼をした鬼は、渾身の力で大斧を一振りしたの。その一撃で、橋はばらばらに壊され、娘は橋の向こう側に取り残された。そして鬼は姿を消し、人の前に現れることはなかった。
「どう思う?」
と美帆さんはあたし達に問いかける。
「どうって言われても…… あたしは娘に同情するわ。確かに浮気は悪いことだけど、豊かになりたい、自由になりたいと思うのは自然よ。それを橋がかなえてくれた。何も橋を壊さなくったてよかったじゃない。娘を罰すれば済んだじゃない?」
「俺は、鬼に同情するわ。橋がなけりゃ、二人は幸せやった。橋によって物質的に豊かにはなったけれど、悪いことも覚えた」
「そうかしら? 鬼はそうかもしれない。でも橋ができる前の娘は鳥かごの中の小鳥みたいなものよ。餌は与えられるけれど自由はない。鳥かごの中の小鳥は、仮の幸せを与えられているのよ」
「逆に、かごから放たれた鳥は、自分で餌を採らんといかんし、鷹に襲われる危険もある」
だんだん、渡とあたしの議論は熱してきた。それを美帆さんが冷ます。
「まあ、そのぐらいにしたら。これは、簡単に白黒つけられる問題ではないし…… 肝心なことは、あたしが橋を作る人だということ。いい橋を作るために最善の努力をする。そして、百年、何百年と風雪に耐え、人の心と心をつなぐ橋になってくれるよう祈るのよ」
美帆さんは、橋を愛おしげに見上げた。