橋を架ける女と橋を壊す女(その3)
『八王子工区第三橋』?
フォルダーを開いてみると、あたしの使わない拡張子.dxfが並ぶ。CADファイルね。念のため、USBメモリーを引きぬいて、手に取ってみてみる。色は同じ緑色、それ以上の違いは…… そう言えばあたしのものは8 GByteだったはず。でもこれは、16 GByteと書いてある。やっぱり、これはあたしのUSBメモリーじゃないわ。それじゃ、あたしのメモリーはどこ? 紙袋をひっくり返し、リングファイルをさかさまにして、資料をぱらぱらやってみるが、資料の間には何も挟まっていない。だんだん顔が蒼くなっていくのがわかる。ワンショルダーバックの中、ポケットの中、メガネケースの中、財布の中、右足のローヒールの中、左足のローヒールの中、どこにもない! 左脳が状況を整理する。
『ここにあるメモリーは誰か知らない人のもの』
『あたしのメモリーはどこにもない』
『午前中、打ち合わせが終わった時に、さっさと出て行く課長を追っかけようと思って、メモリーを紙袋に入れたのが最後の消息』
『いや、その後に、駅で紙袋の中身が床に散らばった時が最後ね』
『もしかしたら、あの時に回収したのは、私のではなく、このメモリーだった?』
『とすると、あたしのメモリーは、ホームに転がったまま?』
『いや、多分、ぶつかった女性がひろったに違いないわ』
『つまり、あの時、メモリーがすり替わった』
『だとすると……』
ゴーストさとる君がいきなり話しかけてきた
「先輩、先輩!」
「え?」
「さっきから呼んでいるんですけど」
「あ、ごめん。気がつかなかったわ」
「頭、おかしくありません? この暑さで熱暴走したんじゃないですか?」
「あ、頭? 熱暴走? な、何ともないけれど」
「何ともないはずありませんよ」
「どうして?」
「だって、ほら、右手と左手」
「右手? 左手?」
右手には件のメモリー、左手には、左足のローヒール。ローヒール!?
「あはは。へ、へんよねぇ」
桃子があたしのおでこを触った。
「熱はないようね。でも顔色が悪いし、脂汗で化粧が落ちかかっているわ。何かあったの?」
簡単に解決できそうな問題でないことは明らかだった。メモリーがすり替わった経緯を説明する。もちろん、尾行したこと、B子を見つけたことは黙っていた。
「バックアップもあるし、社としての損害は大したことないですね。問題は、クライアントの内部資料が入っていたことですね」
と課長補佐のゆきさんが冷静に判断する。万が一紛失して情報がネットに漏れれば、うちの信用問題になる。泣きたくなるわ。そう言えば、神様の視線を感じたっけ。罰があたったのね。あーどうしよう。ゆきさんに助けてもらうしかないかー とゆきさんに視線を向けると。なぜか、にっこりほほ笑んでいる。嘲笑しているわけではない。温かい眼差し。え? どういうこと? ゆきさんは見守るっていうこと? ……あたしは、コクリと頷いた。
「みんな! あたしのために一肌脱いでくれる」
「碧先輩のためなら何でもしますよ」
ゴーストさとる君が真っ先に手をあげる。
「言われなくっても、皆そのつもりですよ」
いつの間にか諏訪さんもいる。
「それじゃ、こき使わせてもらいます。諏訪さん、念ため、駅に電話して、緑色のUSBメモリーが届いていないか確認してくれますか? 桃子、ファイルを解析してくれる。CADファイルを開けば、会社名が分かるはずよ。それともしかしたら設計者名…… あれ?名前はなんだったけ?」
「名前が分かるの?」
「聞いたのよ。でも忘れちゃった。確か入江さん…… じゃなくて、入口さん…… じゃなくて。えーと、えーと…… さとる君、あたしが思い出すのを手伝って。それからプーさん、駅のそばにある建設会社と設計事務所をリストアップして。コンパスを持っていたのと、CADファイル、八王子工区第三橋というフォルダー名から考えて、設計に関わっている人だと思うの。そうだ。『八王子工区』に関わっている建設会社をネットで検索して、さっきのリストと照合してくれる。それから他にすべきことは…… 」
課長補佐のゆきさんに視線をむけた。
「課長には私から連絡しておきます」
ホントに助かるわ。
「それじゃ、さとる君、あたしが名前を思い出すのを手伝って」
「どうやって手伝えばいいのですか? 僕は何一つ覚えていませんよ。だって碧先輩の頭の中にしかない情報ですから」
「もちろん、そうなんだけれど。あたしにアドバイスをちょうだい。まずは、あたしの言うことを聞いて」
「はいはい」
さとる君はあまり期待していないみたい。
「それでは、始めます。まず、非常に珍しい名前だった」
「それでは、ヒントになりませんね」
「でも、かっこいいというか、なんか数学的な名前だった」
「それもヒントにはなりません」
「最初の文字は『入る』で『いり』と読むの」
「それは大きなヒントですね」
「もう一文字ついていたわ。『入江』さんのような名前で、いりえさんではないの」
「例えば」
「いり、いり…… いりこさん、でもないし…… いりでさん、でもないし…… 」
「それなら簡単かもしれません。全部試してみればいいのですよ」
「全部?」
「そう全部です。あいうえお順に全部試してみるんですよ」
さとる君は、白紙にあいうえお、を書きだした。
「それじゃ碧先輩、目をつぶってください」
「わかったわ」
「それらしいと思ったら止めてください。いきますよ…… いりあ、いりい、いりう、いりえ、いりお、…… ……いりき、」
「それ! それだわ。思い出した。いりきさん、入来さんよ。入るに来ると書いて入来さんと呼ぶのよ」
「うーん。確かに珍しい名前ですね。でも、数学的な名前ですか?」
「十分、数学的じゃない。とりあえず、入来さんで検索してみて。写真なんかが出てくると最高なんだけれど」
検索してみるが、やはり下の名前がわからないとどうしようもない。
「あ、碧先輩の写真がありますよ。若い時の写真ですね」
「何バカなこと言ってんの。もしかして、あたしの写真を無断でどこかにアップしたとか?」
「まさかー」
そこへ桃子がやってきた。
「成果は?」
「中ぐらいかしら」
「というと?」
「まず、ファイルは暗号化されていて、パスワードがないと開けないようになっていた」
「ええ! だとすると何も情報はわからない?」
「そんなことはないわ。そうね、一群のファイル名から、橋の設計、工程管理、構造計算に関わっていることは間違いないわ。ファイルの更新日付が新しいものは、みな構造計算だったわ。ところが、工程管理のファイルはずっと古いよ。不思議だと思わない?」
「不思議?」
あたしには、日付のどこが不思議なのかわからない。
「普通は、設計して、構造計算をして、ゴーサインが出てから作り始めるわ。だから工程管理は、設計、構造計算の後よ」
「とすると」
「変でしょう。おそらく、一番古い工程管理のファイルは2年前だから、そのころから橋を建設を始めたのよ。ところが何か問題があって、構造計算を再度行った」
「なるほどね。素晴らしい推理ね」
「そうでしょう」
「でも、今の問題には役に立ちそうにないわ」
あたしは、少しがっかりした。
「まあね。それから、フォルダーの整理の仕方から、わりと几帳面な性格であることもわかるわ」
「性格がわかってもしょうがないわ。なんとかして暗号を破れかしら?」
「そんな簡単に破れる暗号なら役に立たないじゃない」
「それもそうね。ファイルが開けないとすると情報は引き出せないか…… 」
「そう思ったんだけれど、ファイルが暗号化されていても、プロパティは見れるのよ」
「プロパティ? 何か書いてあったけ?」
「ファイルの作成者とか、ライセンスの所有者名とかね」
あたしの期待が膨らむ。
「で、何が書いてあったの? 会社名? 作成者名?」
「どちらでもないわ。書いてあったのは課の名前で、『第三設計課』と書かれてあったわ」
「第三設計課? それじゃ抽象的すぎて情報にならないじゃない」
あたしの期待はしゅるしゅるしゅるとしぼんでいった。
「そんなことないわ」
「??」
「考えてもみてよ。うちの社には設計課はないわ。図面を描いているのは、うちの課ではあたしだけだし、隣の光機課にはせいぜい3人よ。設計課があって、しかもそれが3つ以上あるってことは、大手も大手、超大手の建設会社よ」
「なるほど!」
あたしたちは、プーさんの一角に行った。プーさんは部屋の四隅の一つを専有しているのだ。
「プーさん。超大手の建設会社よ。ありそう?」
「超大手? それなら絞り込めるかもしれない。「八王子工区」の方は2年ほど前から作っている高速道路だと思われます。地形図から考えて、橋も何本かありそうですね」
「え、地形図からわかるの?」
「そりゃそうでしょう。等高線と垂直に道路が計画されていれば、よほどの坂道か、橋やトンネルでしょう。高速道路では、勾配のきつい坂は避けようとするので、橋やトンネル以外の部分は等高線に平行にはしる傾向があるはずです。等高線から谷を拾って、等高線と道路が垂直に近ければ、橋だと考えてまず間違いないでしょう」
「プーさん。地形図を見るのが面白いのはわかるんだけれど、今、役に立つ情報はないの?」
「あ、失礼、失礼。ついつい、ハイキングに行った気分になっちゃって。で問題の『八王子工区』ですけれど、JV、つまり、複数の建設会社で請け負っていて、超大手と言われるのは、この2社です」
「それで?」
「一方、あの駅のそばにオフィスがある建設会社や設計事務所のリストはこれで…… あったあったこの会社、K社じゃないかなぁ。JVにも入っているし」
「これよ! K社第三設計課の入来さんのはずよ」
電話番号を調べて受話器を取ったまでは良かったのだけれど、そこで、固まってしまった。電話は苦手なの。何て言えばいいかを考えてからでないと電話ができない。しかも今回は、ちょっと込み入った状況。最初に自分の名を名乗って、それから、『第三設計課の入来さんをお願いします』と言えばいいのかしら。もし『どのようなご用件でしょうか?』と言われたら、何て言えばいいの? 第一、あのUSBメモリーについては何て説明するの? 『拾った』?、『間違えて持って行ってしまった』? 『盗んだ』わけじゃないけれど、怪しまれないかしら……
「私が電話しますよ。苦手なんでしょ」
諏訪さんが助け舟を出してくれる。甘えたいけれど、そうすれば、いつまでも電話恐怖症は克服できないわ。どうしよう。
「無理しなくていいわよ。碧さんには、まだまだやらきゃいけないことがあるんだし」
あたしは、コクリと頷いて受話器を渡した。
「あ、もしもし。黒川電子工房の諏訪と申します。実は、御社のものと思われる資料が、ある事情で手元にあります。これを持ち主にお返ししたくお電話しました。持ち主は第三設計課の入来さんとおっしゃる方と思われますが、探していただけませんか?」
「……」
「ええ、そうです」
「……」
「わかりました。お願いします」
諏訪さんが小声でささやく。
「今、第三設計課に聞いてもらっているの」
と言うことは、第三設計課があるのね。諏訪さんは再び受話器に耳を傾ける。
「……」
「そうなんですか」
「……」
「はい、電話番号をおねがいします」
「……」
「復唱します。04……。ありがとうございます。お手数をおかけしました」
諏訪さんが受話器をおく。
「確かに第三設計課はあって、入来さんという女性が在籍していたのだけれど、今は現場事務所らしいわ。これがその番号よ」
「ほぼ捕まえたわね。それじゃ、今度はあたしに電話させて」