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橋を架ける女と橋を壊す女(その2)

 課長を尾行したのは、『女の勘』が働いたのだけが理由ではないわ。二つの予兆があったのよ。


 もう何カ月も前、そう、梅雨の間の晴れ間。いつものように屋上で課長とお昼を食べていたの。相変わらずお互いに背を向けて、時々ポツリポツリと会話していた。その日、課長は左薬指の結婚指輪を外していた。前日までは気がつかなかったから、その日から外したのだと思う。指輪があった所にははっきりとわかる跡がついている。

「課長、結婚指輪はどうされたんですか」

「ああ、これ?」

そう言って指輪の跡を右手の人差指と親指でつまむ。まるで指輪があるかのように。

「外すことにしたんだ。前から家では外していたのだけど、外でも外すことにした」

「どうして?」

「どうしてって、やっぱり指が太くなってきたからねぇ。認めたくないけれど、指まで太ってきた。それが一つの理由」

そう言って、指輪の跡をさする。

「一つってことは、他にも理由があるんですか?」

課長は直接答えずに昔の話を始めた

「…… 結婚指輪を最初にはめた時、実は、結構嬉しかったんだよ。僕らの世代の男は、指輪なんて恥ずかしいと思っているヤツが大半なんだけれど、僕は内心、結婚指輪が嬉しくて仕方なかったんだ」

「当たり前じゃないの」

「そう言われると身も蓋もないじゃないか。まあ、少しは話を聞いてくれ。結婚指輪は、本人が独身ではなく既婚であることを対外的に公言するけれど、もう一つ隠れた役割がある」

「というと?」

「お互いがお揃いの指輪をすることによって、パートナーであるという意識が共有される。極端に言うなら、指輪は一種の通信装置になっていて、身につけている限り絶えず愛情信号を双方向に伝えている。いわば、心と心を直接つなぐ橋のようなものさ。そう思わない?」

そう思うけれど、こっちの方が本来の役割のような気がする。

「結婚当初は、自分の心と妻の心がつながっているかと思うと嬉しくて仕方なかった。でも、指輪の通信機能は指輪を外すと機能しない」

「ということは、課長の場合どうなるんですか?」

と尋ねるが、はぐらかされる。

「結婚指輪は、お互いの関係を保つための重要なアイテムだけれど、結婚を維持するための必要条件でも十分条件でもない」

「??」

「つまり、指輪をしていれば結婚が維持できるわけではないし、結婚を維持していれば指輪を必ずするわけでもない」

「ということは、課長の場合どうなるんですか?」

さっきと同じ質問をする。

「必要条件でも十分条件でもないということさ」

課長はそれ以上何も言わなかった。


 もうひとつの予兆は夏休みにやってきた課長の娘、早由美ちゃんの情報。お昼にふらっとやってきて、ランチをおごらされた。どうやら、あたしはこの子に気に入られたみたい。どこが気に入ったのか全くわからないけれど。お昼を食べながら、クラスメートの女友達、男子の話、テレビで話題のイケメン俳優の話を一方的に聞かされる。あたしはクラスメートは当然知らないし、テレビは見ないので、イケメン俳優もチンプンカンプン。テレビは嫌いじゃないけれどニュースの残酷さには耐えられないのよ。

 最後のコーヒーを飲みながら、早由美ちゃんはトーンを落として話し出した。これが本当に聞いてもらいたかったことらしい。

「最近、ママとパパが喧嘩しないの」

「いいじゃない」

「それが、不気味なのよ。前は、『もっと早由美に勉強させなきゃだめじゃないか』『そんなこと言うならパパが勉強を見れば』とか『ゴミ出しぐらいしてくれたっていいじゃない』『ママの方が朝が早いんだからそのぐらいやっていけよ』とか、そうやって喧嘩が始まって、ひどい時は週末まで口を利かないこともあったわ」

「あはは」

早由美ちゃんの声色こわいろは妙にリアルで笑ってしまった。

「ところが、最近はこうなのよ。『もうすこし早由美に勉強してもらいたいもんだ』『そうね、自覚してくれるといいのだけれど』とか、『明日は出勤が早くて、生ごみの封をする前に出なきゃいけないの』『了解。僕がやってておくよ』という具合に会話がすぐ終わってしまうの」

「別におかしくないじゃない。ママもパパも大人になったってことよ」

「そうかしら? ものわかりのいい大人ってのとは、ちょっと違う気がするの。ほら、夫婦って欲深いじゃない。独占欲、専有欲って言うのかしら、『俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの』、『あなたにとって女は私一人。他の女に手を出すのは百年早いわ』、そんな感じがあるじゃない。でも最近のママとパパは、専有欲が薄くなっているように見える。密な夫婦関係から、関係の疎な同居人に変わったように見えるのよ」

あたしは彼女の観察眼と達観に驚愕した。美少女って早熟って言うけれど、彼女の場合は、熟すを通りすぎて枯れてきているわ。

「ねぇ、深読みしすぎよ。二人は結婚してもう十年以上よ。いい加減、慣れてきたんじゃないの。これからあの二人は熟していくのよ」

「そんなものかしら」

「そんなものよ、大人は」


 あの時、半分、自分に言い聞かせながら早由美ちゃんを説得したの。でも、今日尾行して2次元ではない実体のある女性を確認した。やっぱり、早由美ちゃんの読み通りだったのかもしれない。結婚指輪をしなくなったのも傍証の一つだわ。でも、女性が実在したからと言って、それがやましい関係を意味するわけではない。プログラミングで言えば、warning 警告レベルかしら。つまり、今後の動静に要注意ということ。当然、女性の名前はわからない。そう言えば、課長の奥さんも名前も知らないわ。奥さんが『A子』だとすると、あの女性は『B子』ね。

 社に直帰したあたしは、最近見つけたクリームメロンパンをほおばりながら、そんなことを考えていた。元々、クリームパンも、メロンパンも好物なのだけれど、その両方のいい所を1個のパンに凝集させたのがクリームメロンパンだ。よくメロンクリームパンと間違う人がいるそうだけれど、これは、クリームメロンパン。これが、信じられなくらいおいしい。つくづく生きていてよかったと思う。

 『プロジェクトB子』の作戦は後で考えるとして、午前中にもらった宿題をさっさと片付けてしまわないと。明日は渡と映画をみて、公園でお弁当を食べることになっている。休日を心おきなく楽しむためにも今日のうちに片付けてしまいたいわ。


 紙袋に放り込んであった緑色のUSBメモリーを8コアの社機に突っ込む。

『さあブンブン回すぞ……』

『あれ? なにか変』

『フォルダーが一つしかない!?』

メモリーにはクライアントの社名のフォルダーを置いてあったはず。だから、約10社分、つまり約10個のフォルダーをUSBメモリーのトップに置いていた。それが今は1個しかない。他は消してしまった? それとも間違えて一つのフォルダーの下に他のフォルダーを移動した??? あたしはフォルダー名を読んで目が点になった。

『八王子工区第三橋』?

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