橋を架ける女と橋を壊す女(その1)
やっぱり、おかしい。キューピー課長(霧島課長)の様子が変だ。先週と同じパターンだ。
金曜日午前中、クライアントのメーカーとの打ち合わせがあった。先方の会議室に5名集まった。黒川工房からは、課長とあたしの2名、先方は営業1名を入れて3名。あたしたちが営業の人と打ち合わせするのは珍しいのだけれど、今回はユーザーインターフェースの仕様をチェックしてもらった。ユーザーインタフェースといっても様々なレベルがある。ユーザー側の機能についてはすでに決まっており、各スイッチ、ダイヤル、メーターの決定が今回の目的。例えば、電源スイッチ一つとっても、押しボタンスイッチ、スライドスイッチ、シーソースイッチ、トグルスイッチ、ランプ付など様々なものがある。もちろん、うちが担当するのは組込モジュールなので、他の部分に合わせて自然に決まってしまうスイッチ類もある。そうでないものについても、定格が満たされて見た目が良ければいいわけではないわ。耐久性、これが大事。経験的には押しボタンスイッチは何年も使用していると不具合が起きることが多い気がする。多分、押すという操作が乱暴になりがちだからだと思うわ。
あたしが好きなスイッチはトグルスイッチ。それも操作棒が銀色のやつ。1, 2cmの細い銀色の棒を上下に倒すことでONになったり、OFFになったりする。中には上中下の3つのポジションがあるものもある。なんとなくレトロで機械らしい所が好きな理由かしら。直立したかわいい銀色の棒は、ちっちゃな男性器みたいね。艶めかしさでピカ一なのはシーソースイッチ。昔の電灯のスイッチは大抵これだわ。谷間を人差し指で探り当てて上あるいは下になぞるように押す。この動作が何ともいやらしいのだけど、そう感じるあたしは異常かしら。是非とも使ってみたいと思いつつ、その機会に恵まれないのがピアノスイッチ。1 cmぐらいの小さな小さなスイッチなのだけれど、その中に鍵盤のようなスイッチが並んでいる。女の子なら絶対かわいいと思うはずだわ。とにかく、迷いだすとキリがないくらい多種多様なスイッチがある。
今回の仕事では、スイッチやダイヤルを楽しむ余地はほとんどない。クライアントの意向(趣味)で選んでいった。特にもめることもなく、予定より早く打ち合わせは終わった。クライアントの入った高層ビルを出た時はお昼少し前だったわ。課長はいつものパソコンバッグ。あたしは、捻挫して以来愛用しているワンショルダーバッグと丈夫な紙袋。打ち合わせではほとんど使わなかったリングファイルが3冊入っていて結構重い。黒川電子工房のいい所は男女平等な所だけど、目上の課長はもちろん、後輩のゴーストさとる君でさえ、女のあたしが重い荷物を抱えていても気にしない。この時も、うちはつくづく『いい会社』だと思った。
さて、社に直帰するにはもったいない時間だけれど、今日はどうするのかしら。
「課長、もうすぐお昼ですけど、今日もお弁当ですか?」
「いや」
「それじゃ、どこかでお昼にしましょうよ。この辺に新しいレストラン街があったと思うのですけれど」
あたしは、お腹をすかした子犬のような眼でキューピー課長を見つめた。
「あ、悪い。碧ちゃん、一人で食べてくれる。私はちょっと用事があるから。それじゃね」
あたしの眼を見ないでそう言ったかと思うと、課長は社に帰るのとのは反対方向へ歩き始めた。先週と同じパターンだ。おかしい! 先週の金曜日も同じクライアントと打ち合わせをして、やはり昼前に終わった。そして、その時も、今とほとんど同じ会話をしたのよ。あたしは社に直帰したけど、課長が社に戻ってきたのは、確か、3時ごろだったかしら。社に戻る時間を差し引いても2時間以上どこかで何かをしていたことになる。お昼を食べるには、十分すぎるほどの時間だわ。一体何をしていたのかしら? そして、今日もどこかに行こうとしている。野獣のあたしが吠える。『なにかある! 絶対に、何か人に言えなことがある』
あたしは、課長の後方10 mを歩くことにした。つまり、尾行。
久しぶりに神様の視線を感じる。やっぱりやめた方がいいかしら。
課長は、誰かに電話しながら地下鉄の駅へ降りていく。ホームをズンズン歩いていく。ホームの端に到着した時に左から車両が入ってくる。そばの車両、つまり先頭車両に乗り込む。あたしは、2両目に乗る。程々に混雑した車内の向こうに、課長の薄い頭がちらちら見える。あたしは、重い紙袋を床におろして、左90度に課長を置いて観察。課長は2駅目で降りる。あたしも慌てて降りる。駅は結構混雑していたわ。重い紙袋を左手に持ち替えた一瞬、前方不注意となった。そして何かにぶつかった。
紙袋は床に投げ出され中身が床へ滑り出た。0.3秒で、リングファイルが2冊、多色ボールペンが1本、緑色のUSBメモリー1個が1 m四方に散らばったことを確認し、さらにその向こう側に私のものではないノートやリングファイルやコンパス等が散らばっているのを認識した。次の0.2秒で、どうやらあたしは若い女性とぶつかったらしいことに気がつき
「すいません」
と謝ったら、その声がユニゾンになった。ちょっと驚いて、相手の顔をじっくり見たいと思ったけれど、まずは、わが社の無形資産の安全確保を最優先にして、散らばったものを元の紙袋に入れていく。特に緑色のUSBは重要。前に、あたしの手を離れて線路まで旅をした前科があるから要注意だわ。ぶつかった相手も同じことをしている。ようやく顔あげてみると、女の子というには、ちょっと無理がある女性がいた。繊細な指、まじめそうな服装、緊張した眼、実務的な髪型。ぶつかったのが変な人でなくてホッとする。
「さっきは、ごめんなさい」
と先手を取られる。
「あ、あたしの方こそごめんなさい。慌てていたもので…… 」
そして、2秒間無言で見つめ合う。どこかで見たような顔……
「どこかでお会いしたことありませんか?」
「あたしも、そのように思います…… 差支えなければお名前を教えていただけますか? 私は塩原、旧姓、水上と申します」
「…… 私の名前は入来です…… 」
いりき? 知り合いではない気がする。念ために聞いておく
「あのー いりきさんとおっしゃるのですか? どのような字を書くのでしょう?」
「入るに、来る、と書いて入来です」
「お会いしたことはないと思われます」
あたしは、はっきり判断した。先方も同じ結論に達したみたい。
「失礼しました」
「こちらこそ、失礼しました」
彼女は、あたしと同じように紙袋いっぱいの書類を抱えて行ってしまった。
それにしても、なぜ、『どこかで見たような顔』と思ったのかしら。あたしだけならまだしも、向こうも同じことを考えていたなんて…… それが入来美帆との出会いだった。
しまった、課長を尾行していたのだったわ。周りを見回しても見あたらない。先頭車両にわざわざ乗りこんだのだから、こちらの出口、長い長いエスカレーターのある出口を使ったのは間違いないわ。改札をでると、出口は、左右に分かれる。右は閑静なオフィス街。もしかしたら秋葉原まで歩く? それはないわね。秋葉原が目的なら、あたしと別れた所から、この地下鉄を使うはずはないわ。左はちょっとした駅ビルでレストランも入っている。適当な待ち合わせ場所もあったと思うし、JRの駅もある。JR? JRに乗り換えた? その可能性は低いわね。やっぱり、この地下鉄を使うはずがない。とりあえず、駅ビルまで行ってみよう。改札を出て徒歩1分もしないで、駅ビルの中心、吹き抜けに来た。ここに来るのは久しぶりね。学生の頃以来かしら。ここから先は、若者の街、課長には似合わない街。南、西、北どちらに行った可能性もあるわ。尾行もここまでね。しょうがない、帰りますか。
「呼びだしたみたいで申しわけないね」
右手3 m先の至近距離で課長の声がした。あたしは飛び上がりそうになるのをぎりぎりの所で抑えた。ここで、課長に見つかったら、どうなるかわかったもんじゃないわ。横目でそろりと課長を探す。
「そんなことないわ。すぐ近くだし、丁度お昼だし…… 」
課長の背中が見える。その向こうに夏をまとった女性がいる。つばの広い帽子、白のワンピース、柄は緑の草と、紫の花、白いサンダル、、白い日傘、そして気品のある顔。これで、サングラスをかけていたらお忍びのセレブという言葉がぴったりくる。
「行こうか?」
「ええ」
最低限の言葉数でも十分意思疎通ができるほどの仲ということ? あたしは凍りついたまま。息すらできない。二人は前方の階段を上って、ビルの外へ消えた。背中が汗で貼りつく。深呼吸をした…… これが通称『B子』との一回目の遭遇だったわ。
一体あの女性はだれ? 以前見かけた課長の奥さんはもっと小柄だったから、奥さんではないわね。どういうこと? 先週もあの女性と会っていたということ? もしかして不倫? あたしの左脳は『?』で埋めつくされた。