土と炎の人(その8)
あたしたちは作品を机に並べた。丸い大皿が3つ。同じデザインを元にしているが印象は全く違う。抽象画を思わせるもの、伝統的な和の様式、そして小人が踊っているような絵。その横に渡の水上生活の絵。ワニが愛嬌を添えている。最後にあたしの弁当の絵。自慢じゃないけれど3m先から見れば、本物の弁当に見える。
さゆりさんが評する。
「ワタ君の絵、なかなか好いわね。よく言えばカンディンスキーね。悪く言えば幼稚な絵かしら」
「その『漢字が好きー』ってどういう意味?」
とまた、渡が余計なことを聞く。だんだん、あたしは恥ずかしくなってきた。
「『漢字が好き』ではなくて、カンディンスキー。抽象画の画家の名前よ」
とさゆりさんが教える。
「碧ちゃんのは、本当においしそうね」
「でも、それやと、食べ物を盛る時に邪魔になるやないか?」
と渡が鋭い指摘をする。なるほど、それは考えていなかったわ。卵焼きの絵を背景に本物の卵焼きを置くのは変だわ。失敗かしら……
「それは、心配しなくていいですよ。飾り皿として本棚にでも飾って置けばいいのですから。これなら、立派な飾り皿ですよ」
と宇奈月青年が誉めてくれた。あたしはほっとした。
「ところで、勝負の方はどうしましょう。2つほど問題があります」
と青年が言うと、桃子が
「どこが問題なの?」
と聞く。
「一つは、焼成する必要があります。そうやって本当の色が出ます。今の色は仮の色ですから、配色の勝負は、きちんと出来上がってからになります。そうですね。週明けに焼成するとして、今度の週末以降でしょうか」
「それは、しょうがないわね」
「もう一つの問題は、誰が判断するのか。つまり誰が勝敗を決める審判となるかです?」
うーん。確かにそれは問題だわ。年長でプロのさゆりさんが審判になるのが良かったけれど、彼女自身が選手だから…… と考えていると渡が恥ずかしいことを言う。
「あ、お、俺はでけへんで。審判なんかでけへんで」
「だれも渡に審判なんか期待してないわよ」
とあたしは小声で諭す。さゆりさんが切り出した。
「私に考えがあるわ。2週間後に銀座で個展をやることになっているの。私の絵の展示会よ。その後、皆で集まらない? 銀座なら皆集まりやすいでしょう。審判は、心当たりの人がいるから、頼んでみるわ」
「いいでしょう」
「あたしもそれでいいわ」
と他の二人が同意する。
「それじゃー、2週間後に会場で。終わったら、皆で飲みに行きましょう。あ、貴司君、出来上がったら、会場宛てに宅配便であらかじめ送っておいてくれない?」
その日、あたしは、渡との距離をすこし縮められた気がした。一方、桃子と青年の距離は縮まらなかった。『勝負』とか言いだす前は、結構いい雰囲気だったんだけれど。またみんなで会うし、なるようになるでしょう。
2週間後の日曜日夕方、待ち合わせ場所の銀座の画廊に一人で向かう。本当は、昼間、渡とデートしたかったのだけど、都合が合わない。転職先の旅行社は休日も忙しいらしい。あたしの方も今年の夏はさんざんだったわ。社外でのプロジェクト、急ぎの仕事が幾つかと、名古屋での法事が2件。ママの方のばあちゃんの三回忌と、パパの方のじいちゃんの新盆、それで夏休みはなくなった。結局、渡とつき合いだして1カ月と少し、数えるほどしかデートはしていない。夏の恋は激しく燃え上がるんじゃなかったっけ。それは若い時だけ? あーあたしの28歳の夏が終わる。
もっと積極的に攻めないのと駄目なのかしら。念のため勝負下着を身につけてきたけれど、今晩もあまり期待できないわね。明日は月曜日だし、台風も来ているし。
そんなことを考えていたので、画廊に着いた時、少し憂鬱な気分だった。入口に貼り紙がしてある。『八丈さゆり個展 ー展示即売会ー』と書かれている。個展終了までにはまだ30分ほどある。受付で記名して絵を見ていく。
展示即売会なので、『売約済み』の札が半分ほどにかかっている。ほとんどは人物画。いろいろな場面があるけれど、車の組立工、ウェイター、バスの運転手、働く人が多い。『現代社会で生き生き働く人々』とでも表現できそうな主題があるようね。ろくろを回している少年は秀逸だ。顔は見えないのだけれど、手には緊張感、背中には高揚感が漂っている。パソコンに向かう女性には笑ってしまった。メガネをかけてすこし猫背で、口を尖らせながら画面に見入っている。まるで、コンピューターと喧嘩しているみたい。あれ? これって私? 絵の中のメガネがあたしのと似ている。髪型も少しウェーブがかかっている所は似ている。念のためと思って、ワンショルダーバックから手鏡を取り出して、鏡の中の髪型と絵の中の髪型を比較してみる。ほとんどぴったり一致する。唯一一致しないのは、おでこの所の髪の分け方。左から右にかけて七三に分けているのが、絵とあたしで逆になっている。ということはモデルはわたしじゃない?
「よ、碧、元気?」
渡が後ろから声をかけてきた。ちょっとびっくりした。
「元気かって、あんまり元気じゃないわ。でもこの絵を見ていると、笑えて元気が出そう」
「ふーん。なるほど、ちゃかり碧をモデルにしたんやな」
「あ、あたしがモデル?」
「一目瞭然やで。特にこのちいと怒った時の表情、そっくりやで」
「でも髪型はあたしと少し違うわよ」
「髪型? 髪型も同じやで」
「だけど、前髪の分け方がちょっと違うでしょう。ほら、この絵とこの鏡の中の私と…… も、もしかして鏡ということは…… 絵の方が正しくて、鏡の方は逆? そうか、鏡だと左右がひっくり返るから…… やっぱり、あたしがモデルかぁ」
「なに、ぶつぶつ言ってるんや。それよりこの碧の絵、売約済みになってるで」
「ええ! だ、誰が買ったの?」
「お、俺やないで。そ、そんな怖い顔すんなや」
「財布の中に千円も持っていない渡が買えるわけないでしょう。一体どんな人が買ったのかしら?」
「IT企業の社長さんよ」
とさゆりさんの声。振り返ると、ゆったりした服を着たさゆりさんが立っていた。
「随分気にいって、会社の玄関ホールの目立つ所に飾りたいとおっしゃっていたわ。社員が元気になれそうだって誉めてくれたわ。これも碧ちゃんのおかげね」
はあ、嬉しいような嬉しくないような。さゆりさんの話では、働く人の絵はちょっとお金のある中小企業の社長さんに人気があるそうだ。見ていると元気が出る絵、見ている人の心が明るくなる絵を描くのが好み。客の依頼通りに描く依頼制作はお金になるけれど、自分の描きたいように描けないから、めったに依頼は受けないらしい。売れなくてもいいと思うものを描き続けるのが大事だそうだ。利益ありきの会社とは全く違う世界ね。
画廊を一通りめぐった最後のコーナーには、見覚えのある3枚の皿が飾ってある。『非売品。気に入ったものがあれば、上の瓶に飴を一つ入れてください』と小さな字で書かれてある。ガラスの器に盛られた飴玉を、皿のそばに置かれた缶の中に入れていくのだわ。
「この3日間に来たお客さんが投票したのよ。あなたたちも投票していいわよ」
とさゆりさんが言う。
「飴玉使って投票するんか。勝てば飴玉を仰山もらえるわけや。俺も参加しとったら良かったなぁ」
はぁー やっぱり、渡のそばにいると恥ずかしいわ。
「あたしが、たくさん買ってあげるから落ち込まないで」
まるで子供をあやすように言葉をかける。
「そうか、やっぱ碧はええ女や」
あやすだけでいい女になれるの? あたしの方が落ち込みそう。
「1、2、3、…… 」
あたしは数をゆっくり数える。さゆりさん、宇奈月さん、桃子が、各自の瓶に入った飴玉を一つ一つ取り出していく。要するに運動会の玉入れの数え方と同じだわ。
「9、10、11、…… 」
「お、さゆり姉、もう少しやで」
「ワタ君、黙ってて。そば屋じゃないんだから」
「そば屋?」
「……、16、17」
「17でおしまいです」
とさゆりさんが最初に上がる。
「18、19、20、……」
「24で、あたしはとりあえずおしまいよ」
と桃子が言う。
「とりあえず?」
「……、25、26、27、…、32、33」
「33です。僕は33です」
と宇奈月青年のハスキーボイスがすこしだけ勝ち誇った。
「ということは、宇奈月さんが優勝ね」
とあたしが言うと、さゆりさんが異議を唱える。
「とりあえず、貴司君が優勝は優勝なんだけれど、桃子さんの所に名刺が入っていたでしょう」
「これね」
「そう、読んでみて」
「名前は、飛島洋平。肩書は川治商事社長秘書室長」
と桃子が名刺を読みあげる。
「川治商事って言えば、業界5指に入る総合商社じゃない」
とあたしが言う。
「手書きの字も読んで」
とさゆりさんがうながす。桃子はゆっくり読む。
「初めまして、飛島です。貴殿の作品を是非ともお譲りいただきたく、ご一報いただければ幸いです。失礼ですが、12万円の値段をつけさせていただきました」
「12万! そんなにするんかー 俺のもそのぐらいするんやろうか?」
と渡が余計なことを言う。あたしは小声で渡に言った。
「するわけないでしょう。渡やあたしの作品は、材料費込みで1万円もしないわよ。とにかく黙っていて」
さゆりさんが説明をする。
「まあ、一種のオークションね。美術品の値段はあってないようなもの。材料費にもならないぐらいの値段がつくこともあれば、こんな風に高い値段がつくこともある。12万円というのは、この名刺の人が適切な対価と考える値段よ」
「12万円ですか、すごいですね。私の完敗です」
と宇奈月青年がうなだれる。
「12万円って、すごいの?」
とあたしが聞くと、宇奈月青年は
「作品をたまにオークションに出すんですけれど、これまでの私の作品の最高の値段は11万円でした。それをアマの桃子さんにあっさり破られるとは…… 桃子さん! この作品、私に譲っていただけませんか? もっといい値段をつけますから」
と興奮する。桃子が
「どうして譲ってほしいの? さっきまでは、自分の作品に自信たっぷりだったじゃない」
と聞く。
「これを枕元に飾って臥薪嘗胆としたいのです」
渡が口を開きかけたので、あたしは手でふさいだ。
「臥薪嘗胆ねぇー いいわよ。でも、お金では売れないわ」
と桃子が返答する。
「お金やないとすると、もしかして、か…… 」
あたしは、また、渡の口を手でふさいだ。
「宇奈月さんのこの皿と交換ならいいわ」
と桃子が条件をつける。
「交換ですか? 僕はそれでいいですが、本当に交換でいいのですか?」
「あなたが売れるようになったら、価値が出るじゃない」
「決まりね。じゃ、片づけて、皆で飲みに行きましょう」
とさゆりさんがまとめた。
あたしたちは絵付けの皿5枚と、松島さんの所で成形し工房で施釉・焼成してもらった器2つを肴に、日本酒を味わった。あたしの絵付け弁当を見ながら渡が言った。
「ほんまの碧の弁当が食べたいわ。今度作ってくれへん?」
「お昼の弁当?」
「もちろん、昼や」
「……それって、平日の昼? それとも休日の昼?」
「平日用と休日用で違うんか?」
「内容も違うけれど…… 作り方が違うわ」
「どっちでもええよ」
はぁー やっぱり渡には通じないわね。弁当を朝作るという条件を課すと、平日用なら平日の朝、休日用なら休日の朝に作ることになる。平日は仕事があるので、いちいち昼に渡の職場まで届けるのは無理。ということは、平日の場合は、朝弁当を渡すことになる。つまり、どちらかの家にお泊りをして、弁当作って朝ごはんを一緒に食べて、一緒に出勤するということ。一方、休日用の典型はピクニックね。ピクニックでなくても、お昼にデートしてそこで食べればいい。
「それじゃー 近いうちに休日用を作るから期待してね」
と答えた。
ほどほどに飲んだあたしは、渡の頬におやすみのキスをして帰った。明日は月曜日。仕事だ! あの地味青年は、毎朝、桃子の作品を見ながら雪辱を期すのだろうか。だとしたら、心穏やかな日がなくて大変ね…… あたしも頑張るわ。仕事も! 恋も!