土と炎の人(その2)
3カ月ほど前に、あたしと桃子はパスタ屋に出かけた。その日は朝から二人で、ステンレスの構造材の強度計算をしていたの。ようやく、コンパクトでかつ剛性のあるデザインの目途が立った時には、もう、お昼の時間をとっくに過ぎていた。たまには違うものを食べたいということで、会社から地下鉄で一駅のパスタ屋に二人で行く事にした。もちろん、課長には、『血糖値が下がりすぎて頭が回らなくなったので、しっかり補給してきます』と断ったわ。
人気店らしいが、お昼を過ぎていたので、すいていた。桃子は、明るい店内に入ると、さっと見回して、窓際で奥から2番目の、既に別の客がいるテーブルの隣の席に座った。『すいているのに、わざわざ、他の客のそばに座ることはないんじゃない』と思ったけれど、すぐに気にならなくなった。あとで、桃子から理由を聞かされるまで、そのことは忘れていた。
ここのパスタは一風変わっている。メニューには写真と説明がついているのだけれど、すべてオリジナルで、食べたことがあるものがない!
見た目重視の桃子は、『イカスミパスタ』を注文する。イカスミの黒を背景に、トマトとトウガラシの赤、オリーブの緑が映える。あたしは、桃子に言った。
「イカスミなんて食べて大丈夫なの? 食べ終わったらお歯黒になるのは目に見えているわよ」
「大丈夫よ。どうせ、今日はろくな人と会わないから」
「つまり、あたしや課長は気にしないってことね」
「そう言うこと」
と桃子は、わざと白い歯を見せてニヤッと笑った。これからのこの歯が真っ黒になるのを御覧なさいと言わんばかりだ。
チーズと魚の好きなあたしは、ピザ風揚げパスタを注文する。平べったくしたパスタの上にチーズやアンチョビを載せて、軽く揚げて形を整えたもの。桃子は逆襲してきた。
「そんなに、高カロリーなものを食べて大丈夫なの。出っ張り気味のお腹に脂肪がたまるわよ」
「お腹じゃなくて、胸につかないかしら。これって脂肪じゃないの?」
とあたしは、自分の乳房を両手で持ち上げる。
「碧のは、垂れているからきっと脂肪よ。ますます垂れるわよ。あたしのはつんと立っているから筋肉よ」
と桃子は、親指と人差し指で乳房をつまんでみせる。自分の方が硬くしまっていると言いたいらしい。あたしは、ばかばかしくなってこう言った。
「分かったわ。脂肪が減って筋肉がふえるよう、後で運動するわ」
この後、すぐに運動する機会はやってきた。
あたしたちは、とりとめもない話をした。今年もうちの課には、新人が配属されなかったこと。それに対して、隣の光機課には、男女1名ずつが配属され、勢いがあること。桃子は話しながら、ちらちらとあたしの背後の客を見る。あたしのすぐ後ろには、初老の男性。そのさらに向こうには若い青年。残念ながら、あたしは背中をむけているので、それ以上のことはことはわからなかったし、事件が起きるまでは、まったく関心がなかったの。
「うっ、うっ」
と低いうめき声が聞こえたかと思うと
「ゴト、ガシャ、ガシャ、ガシャーン…… コロコロ、コーン」
とコップや器が床に落ちて割れる音が背中でした。何事かと思って振り返ると。老人がテーブルに突っ伏している。テーブルの上には、紅茶がこぼれ、床には、ガラスコップ、小皿、お椀が割れて転がっている。不思議と食べ物は散乱していない。青年は立ち上がっており、大きく目を見開いて老人と、床に散乱した食器を交互に見ている。青年は後で聞かれても色しかわからないような地味な服装。それに対して老人は肌触りのよさそうなジャケットを着て赤いスカーフを首に巻いている。立っていれば、おしゃれな初老の俳優がカジュアルウェアを宣伝しているという絵がぴったり当てはまりそうね。突っ伏した老人の白髪とスカーフの赤の対比が眼に焼きつく。
すでに桃子は立ち上がっていて、老人のそばによって、あたしの眼を見た。
「この人、具合が悪いんじゃない」
あたしは、はっとわれに返った。あたしも立ち上がって、老人の肩をたたきながら声をかけた
「大丈夫ですか?」
返事はない。不自然にテーブルの上に伸びた右手は青白く、ピクリとも動かない。
「大丈夫じゃないみたい。桃子、手伝って」
あたしは、老人の重い頭を起こして顔を覗き込む。目をつぶって苦痛にゆがんだ顔が凍っている。そのまま、二人であおむけにして、上半身をシートに寝かせる。やっぱり、ピクリとも動かない。あたしは、緊急事態を発令した。
「誰か! 店員さん! 救急車を呼んで」
店員さんどこかに行くのがちらっと見える。テーブルをどけて、作業スペースを確保。仰向けの老人の口元に耳を近づけ、息を聞く。ジャケットの前を開けて、胸の動きを見る。息をしていれば、胸が上がったり、下がったりするはず。
「呼吸していなわ」
いつも冷静な桃子が目をおおきく見開いている。そりゃーびっくりするわよね。あたしも似たような状態だったと思うわ。
「心臓は動いているの?」
と桃子が聞く。あたしは、ワイシャツをはだけ、その下の下着もたくし上げ、胸を出す。手を直接心臓のあたりにおいてみる。
「よくわからないわ」
「ということは、止まっているってこと」
と桃子がきく。
「さあ…… 呼吸していない時は、心臓も止まっている可能性が高いらしいわ」
「じゃー、人工呼吸するの?」
「しないわ。道具がないから。道具なしだと病気がうつる可能性があるから、人工呼吸はしない」
「それじゃーどうするの?」
と不安そうな桃子。あたしも不安。
「とりあえず、心臓マッサージ。それとAED。桃子、AEDを取ってきてくれる」
あたしは、立ち上がって、右手のひらを乳頭と乳頭の真ん中、心臓の上に置く。さらに、その左手を重ねる。桃子が冷静さを取り戻す。
「ちょっと、待って。その前に気道確保」
そういって、老人の首の下に桃子が持ってきた自分の大きめのポーチを入れ、顎を上げさせる。そうだった、気道確保を忘れていた。こうして、心臓マッサージをすれば、その動きで人工呼吸の効果があるのだったわ。それから、桃子は言った。
「心臓マッサージは確か4、5センチよ」
そう言って、人差し指を出して、その先から第二関節までの長さを示した。なるほど、体で長さを覚えているのね。
「じゃー、あたしは、AEDを探してくるわ」
そう言って桃子は周りを見回した。店員さんを捕まえて、救急車を呼んだかどうか確認している。AEDは近くにはない模様。桃子はどこかに出て行った。あたしは、眼の前の老人に集中した。一度、胸を押してみる。4、5センチは結構な深さ。それからはずみをつけて、軽く体重をかけながら何度も押す。
「えーと、どのくらいの速さだたっけ? 普通の人の脈は1分間に60拍だから、そのくらいかしら? もっと速かったような気がするけれど」
とあたしは呟く。全く、死にかかった人を相手に一人でこんなことやっているのはさびしいわ。そう思っていると
「1分間に100回ぐらいです」
と青年が答える。えっと思って、見上げると地味な青年、心配そうな眼をした青年がいた。そう言えば、老人の相手のこの青年がいたっけ。家族ではなさそうね。
「ありがとう」
と答えて、心臓マッサージに専念した。結構重労働ね。でも、こうやって、血液がめぐっていくと思うと、苦にならない…… やっぱり、大変だ。早く桃子がAEDを持ってきてくれないかしら。早く救急車が来ないかしら……
数を数えようと思ったけれど、集中できない。時々、顎が上を向いているかを確かめる。
桃子がAEDを抱えて戻ってきた時、あたしは、このまま、世界が終るまでずっと心臓マッサージをしているのかしらと思っていた。
「とってきたわよ。地下鉄の駅まで行ってきたわ」
駅員さんもいる。
「さて、エーと、何をすればいいのかしら。まず、説明を読むわね……。『蓋をあける』。はい開けました…… 『電源を入れる』。はい電源を入れました」
そうすると、なんと!機械が喋り出した。それからは、機械の指示通りに行動する。パッドを胸に貼る。機械が自動的に診断する。あたしは、感心した。パッドで電位を測定して、心臓が動いているのかどうか、電気ショックが使えるのかを判断しているのね。完全に心臓が停止していれば、もう電気ショックの出番はないから、AEDの判断が一つの山場ね。『電気ショックを与えるので、体から離れるよう』指示が出る。ということは、まだ望みがあると言うこと。桃子はショックボタンを押した。
何も変わらないみたい。機械は蘇生を続けるように言う。あたしは、心臓マッサージを続ける。ほどなく、救急隊員が到着した。隊員は、ストレッチャーに老人を載せ、テキパキと救急車に載せる。あたしは、重労働から解放される。青年は、隊員に経緯を説明する。いつの間にか荷物はまとめられている。青年が、連絡先を教えてくれと言ったので、あたしは名刺を渡した。
あっという間に、隊員も老人も青年も駅員さんもいなくなり、後には、ぼーっとしたあたしたちと店員さん、コックさんが取り残された。桃子は言った。
「さあ、あたしたちも出ましょう」
店員さんに謝って、パスタ屋を出た。外にはさわやかな4月下旬の風が吹いていた。木々が緑を濃くしていく季節だ。あの老人は助るのだろううか?
その晩、あたしたちは、AEDを肴に、飲み屋で2食分のカロリーを補給した。あたしは、AEDの部品構成と診断プログラムを想像した。桃子は、素材とデザインを議論した。作るだけなら自分たちでもできそう。でも、医療機器だから、規格の遵守、信頼性の確保、各種安全審査・試験のクリアが必須に違いない。結局、あたしたちは、わが社(新参者)には難しいだろうという結論に達した。それでも、人の命を救う製品というのは魅力的だわ。
桃子は、パスタ屋で、老人と青年のそばに席をとった理由を教えてくれた。
「カフスボタンよ。そのおじいさんはすごく素敵なカフスボタンをしてたのよ。それで、近くで見たいと思って、そばに座ったの」
「そんな小さなものよく気がついたわね。目がいいというか、鼻がきくというか、大したものね」
「ほんとに、素晴らしかったわ。手に取ってみたかったのだけど…… もし亡くなったら譲ってくれないかしら?」
「縁起でもないこと言わないでよ…… でも死んだのか、生き返ったのか知りたいわねぇ……」
「2、3日すれば、わかるわよ」
「えー、どうして?」
「碧、名刺渡したでしょう」
「ウン」
「生き返ったなら、お礼の連絡があるはず。連絡がなければ、死んだっていうことよ。死んだら連絡しづらいじゃない」
「ふーん。それもそうね」
翌々日に、会社に松島と名乗る女性から連絡があった。命をとりとめ、意識も戻ったそうだ。後日、お礼に伺うと言った。