白板の好きな男(その6)
さあ、ここが肝心よ。あたしは、白板に描かれた『碧』から『別』な男に出ている矢印を消していく。アイツはそれをじっと見ている。 昔のあたしだったら、白板を見せてわかってくれるのを期待して終えていたわ。でも、今のあたしは違う。あたしは一語一語、はっきり、ゆっくり言う。
「ちゃんと、まじめに、あたしと付き合ってくれる? あたし一人と、付き合ってくれる?」
そして、自分に言い聞かせるように続けた。
「思いは言葉にしてこそ形になり、その言葉には魂が宿るわ。あたしは、もう、子供じゃない。昔の失敗は繰り返さないわ。もう一度言うわ。あたし一人と、つき合ってくれる?」
「そんな、何度も言わんでええよ。まるで、俺がアホみたいやないか。おれの返事はイエスや」
そう言って、アイツは、白板の『渡』から出ている余分な矢印を消していく。あたしは、ほっとした。もし、アイツの返事がノーだったら、ほんとにあたしは残り物ね。そして、残り物人生を送っていたかもしれないわ。アイツは、言った。
「一つだけ、訂正させてくれや。碧も俺も『残りもの』やない。碧はおれにとって最高の女や。俺は碧にとって最高の男や」
「そうね。なら、乾杯しなくちゃね。ビールを取ってきてくれる?」
そして、乾杯した。
「俺たちの未来に乾杯!」
「乾杯!」
あたしは、『女は食わねど浴衣美人』と言っていたことは忘れて、グビグビ飲んだ。
「ねえ、確かめておきたいんだけど」
「何を?」
「7月、8月は、仕事で忙しくて、日本にはほとんどいないって言っていたわよね。どうして今日本にいるの?」
「あー それはやな…… 会社を辞めることになったんや」
「えー!」
「引き継ぎやら、何やらで、ツアーガイドはセーブ、減らしたんや。それで今は日本におる。今の会社では、ツアーガイドは今シーズンが最後や」
「じゃー どうやって生活していくの?」
とあたしは余計な心配をする。万が一結婚したら、あたしがこの能天気なアロハ男を養っていかなきゃならないのかと思って焦ったわ。
「おまえ、やっぱり、俺のゆうたこと正確に聞いてないな」
「え、どうして?」
「そやから、『今の』会社では最後やってゆうたやないか」
「ということは?」
「『別の』会社に移るんや。そこで主任になって、ツアーガイドをやりながら、ツアーの開拓・企画をやるんや」
「ということは引き抜き? 昇任?」
「まあ、そんなとこや」
「へー すごいじゃない。それじゃ、デートもちゃんとできるのね」
「もちろん…… いや、たぶん大丈夫や」
あたしは、アイツの視線が一瞬、宙をさまよったのを見逃さなかった。
「…… 渡、今、考えたでしょう?」
「そんなことあらへんよ。『別の女』のことなんか考えてへんよ」
「あたしは、『別の女』なんて言ってないわよ」
「しもた! おまえ、引っかけたな」
「引っかけたわよ」
「ずる~」
「ずるいわよ、女はいつでも。それより、あたしの言ったこと正確に聞いていないじゃないの!」
「正確に?」
「あたしは、こう言ったのよ。『あたし一人と、つき合ってくれる?』って」
「一人と?」
「そうよ、『一人』よ。浮気は厳禁!」
「厳禁?」
アイツは少しさびしそうな顔をした。それを見てキレた。
「もう知らないわ! ガイドさん、今日はありがとう。あたしは帰ります。もうガイドさんには二度と会いません!」
あたしは勢いよく立ち上がった。が、ビールを飲みすぎたのか、足元がおぼつかない。アイツはあたしをギュっと抱きしめた。一瞬にして、抱きしめられる感覚、快感と安心感の混ざったような感覚におぼれた。耳元でアイツが囁いた。
「浮気はせん」
「ほんとに」
「ああ、ほんまに」
「じゃ、神様に誓ってよ」
「えんま大王やなくて神様に誓うんか?」
「そう、神様よ。神様はあたしの知り合いなの。でも、えんま大王は知り合いじゃないわ」
「ややこしいなあ。似たようなもんやと思うけど。まあええか。ほんなら神に誓って、私、八丈渡は、水上碧一人とつき合い、浮気はしません」
「上出来よ」
「じゃ、誓いのキスをしてもええか?」
「ええ! キス?」
「神様に誓うときはキスをするんとちゃうの?」
「なんか、違うような気もするけれど…… いいわよ。ちょっとだけ。舌は入れちゃだめよ」
「なんでや?」
「だって、さっき食べた、トウモロコシの皮が歯に挟まっているかもしれないし……」
口紅がつくかもしれないって言おうとしたら、渡がキスをしてきた。しかも舌を入れてきた。あたしは歯で軽く舌を噛んでやった。そしたら、アイツはあわてて舌をひっこめたわ。そして、言った。
「おまえ、ほんまは、えんま大王やないか。舌、引っこ抜かれるかと思ったで」
「よくわかったわね…… ねぇ、もう一度抱きしめて。くせになりそう」
アイツは、あたしをギュっと抱きしめてくれた。
「ヒュルルルル~ ドーン、ドーン、ドーン、ドーン」
そして静寂が訪れた。あたしたちはまだ抱き合っている。あたしは、この人、八丈渡と行けるところまで行こうと、神様に誓った。
「先輩、碧さん、花火終わりましたよ」
と望君が声をかけてきた。その声にあたしとたちは、磁石のNとNが反発するように離れた。まわりを見回すと、望君、サラポちゃん、悟君、片品嬢、それに望君の同級生もいる。なんだか皆ニヤニヤしている。あたしは真っ赤になって目を伏せた。アイツは扇子でいかにも暑いという顔をしてあおいでいる。
「皆さん、楽しまれたようですね。では、これでお開きにしましょう」
と望君はにこにこして言った。あたしたちは望君の同級生に礼を言った。