牛飼い少年(その1)
携帯の目覚ましがロックをがなりたてる。スヌーズ機能があるので、寝過ごすことはない。先週、さんざんな目に逢ってから、曲をバッハからロックに変えたのだ。たっぷり寝たおかげで、夢を見た。夢の中で熱海桃子があたしを挑発していた。なんでもゴーストさとる君をあたしが寝取ったらしい。ゴーストさとる君を取り合うのもあり得ないシチュエーションだけど、桃子にあたしが悪いことをするはずがない。なんたって昨日は、美容院でのヘアーカラーリング(髪をそめること)に付き合ってもらったのだ。
先週金曜日にあたしはおずおずと桃子に相談した。
「ねえ、桃子。あたし髪を染めたいだけどどうしたらいいの」
「じゃ~ 染めたら」
そっけない返事。何度か無意味なやり取りして、桃子は、ようやく、行ったことがない美容院に一人でいけないことを察してくれた。もちろん、自分で染める手もあるんだけど、過去の失敗を考えるとそれもできないわ。かといって、行きつけの美容院では、高度なカラーリングはできそうもないし、行ったことがない美容院に飛び込む勇気はない。美容師さんの、『うちは一見さんお断りなんですけど』というような視線を浴びた日にはもう息も絶え絶え。という次第で、せめて、桃子の良く知っている美容院を紹介してもらおうと思って相談したの。
あたしが
「赤っぽい茶髪にしたいの」
と言うと、桃子は、難しい顔した。
「あんたわかってないようね。髪の色、眼の色、ファウンデーションの色、肌の色、服の色・形、これらのバランスが全体の印象をきめるのよ。赤が入っているとわかるような髪にしたら、バランスできる組み合わせがなくなるわよ。もちろん、カラーコンタクト、フルメイク、服、靴に投資するだけのお金と時間があれば別だけど」
もちろん、あたしにそんな投資をする余裕はない。ということは、この計画は駄目? あたしの眼を見て桃子はため息をついた。
「仕方ないわね~ あたしがつきあってあげるわよ」
日曜日に桃子指定の渋谷のモヤイで待ち合わせた。最初は、桃子とはわからなかった。黒革の上着に、黒革のミニ、薄ピンクのTシャツ。腰には銀の鎖がじゃらじゃら。おまけに星型のピアス。Tシャツの向こうに豊かな胸があるのがよくわかるわ。桃子は少し迷って、こぎれいな美容院に連れて行ってくれた。あれこれ、店員さんと相談して、色を選ぶ。二人してあたしの髪をいじりまわしながら、なおもカット、ブローを決めていく。桃子は
「じゃね~」
と言って、出て行ってしまった。
美容師さんに桃子は常連なのかと聞くと、今日初めて会ったとのこと。つまり、桃子はその場で適当に店を選んだのだ。渋谷で待ち合わせたのも、単に自分の用事があっただけに違いない。飛び込みで美容院に入る度胸に感心するとともに、それができない自分が情けない。何も言わずに付き合ってくれた桃子の優しさに惚れそうだわ。
週明けの月曜朝に、明るくなった髪に合いそうな服を探す。出てきたものは、お気に入りのベージュのパンツスーツ。襟にフリルのついたブラウスを着て、鏡に向かってメイクを施す。何か、赤いものはないかと探し回った挙句に出てきたのは、赤いバンダナ。高校の遠足で、目印代わりに皆でしてたもの。試しに首に巻いてみる。う~ん、今いち。フリルブラウスをやめて白のカッターブラウスに変更。なんとなくカーボーイ風。わるくない、悪くない。靴はパンプスはやめて、黒のショートブーツに。玄関で全身が映る鏡をみると、結構カッコいいじゃん。よし、準備完了。いざ出勤!
職場に着くと、何となく皆の視線を感じる。あたしは、桃子の席まで行って、昨日はありがとうと言う。桃子は
「かわいいじゃん。そうね~60点ぐらいかな。」
珍しく及第点、つまり、50点以上をもらえた。でも、かっこいいではなく、かわいい? どうもあたしのセンスは少しずれているようね。多分、かわいいは本当なのだろう。
「ありがとう」
と答える。悔しいけど桃子のセンスは抜群だ。うちの課のCAD担当で、デザインをさせたらピカイチ。なんでも服飾専門学校を出たらしい。構造計算までやってくれるから、一体どういう教育を受けたのか謎。でもってわが社の中で一番セクシーだ。単に露出が多いわけではない。小柄な体にはち切れそうな肉体かと思うと、清楚な乙女を演じることもできる。特に眼の表情が豊か。黙っていれば、同性のあたしでもグッとくることがあるわ。唯一の欠点は、その毒舌。うわさでは、その毒舌にくらくらするMな男も多いらしいから、手がつけられないわ。
午前中は左脳、右脳をフル回転させて、バリバリ仕事をした。先週、問題になった件は、あたしの手を離れて、回路のプーさん(本名:赤倉大輔)の所で止まっている。どうやら、熱設計に問題があるようだ。先ほどからキューピー課長とプーさんが深刻な顔で議論している。課長が言った。
「しかたない、美の山製作所に頼みますか」
美の山製作所と聞いて、課員の視線が止まった。課長は続ける。
「OKがでれば、ベースが確立するので、なんとしても今日中には結論がほしいところだなあ」
その瞬間、皆の視線が30度、課長から遠ざかる。
「そもそも、熱設計が難しくなったのは、例の新機能を入れたのが原因だから……」
きた来た来た!
「碧ちゃんに行ってもらいますか?」
やっぱり来た。あたしは、うつろな返事をして、しぶしぶ、美の山製作所に電話を入れる。誰も出ない。
「あの~ 課長、誰も出ないんですけど。御留守では」
と半分ウキウキして報告する。課長は答える。
「大丈夫だよ、あそこは兼業農家だから。いないってことはないでしょう。ファックス入れて、今からモジュールを持ちこんでください」
確かに。あそこには、牛が4、5頭いたから、まる一日いないなんてことはない。げげ、うし、牛か~
前回行った時のいやな思い出がよみがえる。あの時は、さんざん脅されていたから、完全武装をして行った。ジーンズ、スニーカー、ウィンドブレーカーに麦わら帽子。駅まで軽トラで迎えに来た息子に、ハイキング客と間違われたぐらいだ。そういう息子も童顔に無精ひげ、手ぬぐい、軍手、長靴といったいでたちだったから、いい勝負だわ。
美の山製作所は、なんでも4、5年前に親父が独立して作った会社で、親父と一人息子だけで操業しているらしい。山奥に会社を建てたのが先なのか、牛が好きだから山奥に会社を建てたのか、どちらが先なのか、真相は不明だわ。とにかく、プレハブ工場の裏に牛舎があって、放牧地があるの。
親父がもっぱら工場で働き、息子が牛の世話をしているらしい。そんなところに会社を建ててやっていけるのかと皆、疑問に思うわ。でも、一度一緒に仕事をすると、その技術がピカイチであることが分かるの。今回の製品のように産業用モジュールは過酷な環境で用いられる。しかも機能を100%作動させて、休みなしで使用することは珍しくないから、熱設計は信頼度が重要。大抵の場合、熱設計は社内で済むのだけれど、今回は、あたしが新しい機能を実装したために、発熱量が格段に増えたわ。というわけで、あたしが責任をとって、発熱試験に付き合うことになったの。
最初から牛が嫌いだったわけじゃない。前回、発熱試験が一通り終わって、一服していたら、あのバカ息子(名前は忘れた)が寄ってきた。
「丁度いい。おれの牛を見てくれよ」
とくりくりした目で『牛飼い少年』は言う。別に見たか~ないんだけど。嫌そうにするあたしを牛舎まで引っ張っていく。
「立派な雌牛だろ。みどりって名前だ」
げげ! なんであたしとおんなじ名前なの?
「乳もでかいし、尻もでかい」
そりゃー人間とは比べものにならないぐらいでかいわな。
「妊娠してなかったら、やりたいんだけど。みどりちゃん、一発やらしてくれ!」
あたしは、思わず、くわえていたタバコを落とした。あわててタバコを拾おうとして手を伸ばしたら、『牛の』みどりが排泄をした。そのしぶきが伸ばした手に降りかかる。あの時、あたしは誓ったのよ。今度来るときは絶対、軍手を持ってこようと。
今回は、急なお話。軍手はおろか、装備は標準。ピカピカでサラサラの染めたての髪に、お気に入りのスーツ。皆の同情の視線を浴びながら出かけた。
おかしい。おかしい。胸騒ぎがする。特急に乗る前に電話したけど、だれも出ない。最寄りの無人駅に着いて電話したけど誰も出ない。幸い、駅前にハイキング客相手のタクシーが止まっていたので、それに乗って行く。運転手さんによれば、親父も息子もそこらあたりでの評判がいいらしい。面倒見がよく、すぐに地元に溶け込んだそうだ。目下のところ、息子の花嫁ポジションを狙って、3人の乙女が熾烈な? かわいらしい? 競争をしているそうだ。運転手はぺらぺらと色々なことを喋ったが、覚えていない。一度心配になると、他のことを考えられないあたしは、上の空。
タクシーの釣銭を受け取るのももどかしく、工場に駆け込む。誰もいない。ファックスから出がけに送った用紙が出たまま。やばい、事件に巻き込まれた? 何が起きたの?