白板の好きな男(その3)
チャップリンの映画を入手したあたしは、早速、作業スペース兼ホームシアターに持ち込んだ。彼は、この日も上から下まで黒づくめだった。丁度、RGBモニター用の検出器(フィルター付ホトダイオード)をセットしている所だった。新旧の2つのプロジェクターは無残にも外箱から取り出されて、中身が露出していて、どちらが新品同様かわからないほどだった。あたしは、彼に声をかけた。
「鶴巻さん、例の映画、持ってきましたよ。そっちが一段落してみたら上映してみない?」
「お、早いですね。10分ほど待っていただけますか? その間に、そこにある自作のふかふかの椅子を試してみてくれます?」
あたしは彼の指差す方を見るが、何もない。正確に言えばゴミが積んであるだけだわ。
「ねぇ、その自作の椅子って、どこにあるの?」
「それです。それ」
と言って指差した。今度は間違いなくそのゴミを指差していた。
「これ? 椅子なの?」
「もちろん」
と彼は自信ありげに答える。あたしは、恐る恐るそのゴミに近づいて調べた。何と、ゴミと思っていたのは緩衝材を巻きつけたパイプ椅子だった。確かにふかふかそうだけど。
「座ってみてよ。マドンナが最初の使用者だよ」
彼の『マドンナ』と呼ぶ声がぎこちない気がする。なんだかとても無理をしているよう。それに、やっぱり『マドンナ』は、あたしには似合わないわ。万が一彼と結婚することになったら、一生『マドンナ』とか『マダム』と呼ばれるのか、と思うとなんだか急に不安になってきた。
「ねぇ、『マドンナ』じゃなくて、別の呼び方をお願いできないかしら」
「別の? 例えば?」
「例えば、普通に『水上さん』とか『碧さん』とか」
「それじゃ、『碧さん』と呼ばせてもらいます。その代り僕のことは、『望』と呼んでください」
「分かったわ望……『望君』でいい?」
「いいですよ」
「望君… それで、この椅子もどきに座ってみればいいのね」
あたしは恐る恐る座ってみた。確かに緩衝材を集めただけあって、弾力はあるわ。でも『ふかふか』の触感はない。最大の問題は音。座る時はもちろん、お尻を動かすたびに『プチプチ……プチプチプチ……』と音がする。エアーキャップ、いわゆるプチプチだ。彼は笑った。
「あはは、やっぱりプチプチはまずかったですかねぇ」
「まずいわよ、これじゃうるさくて映画に集中できないじゃない。他に緩衝材はないの?」
「随分探し回ったんですけど、生憎これしか見つかりませんでした。しょうがないですね。それじゃパイプ椅子で我慢しますか」
結局、あたしは彼が巻きつけた緩衝材をはぎ取って、もとの姿に戻した。
彼はにこにこして言った。
「さて、お待ちかねの映画上映といきますか? 新旧、どちらのプロジェクターがいいでしょうか?」
「まずは、古い方で見て、その次に新しい方で見たら、感動が大きいんじゃないかしら?」
「では、そうしましょう」
「『街の灯』なんて何年ぶりかしら。花売りの売る真っ白な花が印象的だったわ」
あたしたちは、それこそ、わくわくしながら映像を見た。
あれ? なにかおかしいわ。
「色がほとんど出ていないわ。真っ白なはずの花がくすんでいるわ」
「確かに、これは酷いですね。ここまで酷いと補正しようがないような気がします。では、ちゃんとした色の出る新品同様のプロジェクターで見てみましょう」
「……? やっぱり色が出ないですね……」
あたしたちは顔を見合わせた。
「…… もしかして、もしかして……」
「そうですよ、きっと、その『もしかして』です」
「つまり、チャップリンの映画って『白黒』、白黒だったんだわ」
どうりで色が出ないのね。あたしたちの映画熱は急速に冷めていった。
その後、映画は使わずに、RGBの純色をテストに使いながら開発を進めた。あたしは、毎日違う服を着ていく。望君は相変わらず黒しか着ない。
試行錯誤してだんだんわかってきた。アナログ的な方法は、家電レベルの機器には荷が重い、つまり、小さなスペースには収まらないし、コスト的にもバカにならない。一方、デジタル的な方法は、8bitだと、微妙な補正ができないが、12bitであれば、それなりの補正ができることもわかったわ。残る問題は、画素の劣化にムラがあることと、各画素の劣化をモニターするのが現実的でないこと。商品化の障害になりそうだわ。もちろん、今回は商品化するのが目的ではなく、実用化、商品化できそうか見極めるのが目的だから、商品化が無理と判断できれば、それはそれで意味がある。でも、折角なら商品にしたいと思う。開発や試験に携わっている人間はそう願うのが自然。あたしたちは、商品化は困難という結論を出して仕事を終えるべきか、それとも、もう少し頑張ってみるかを決めかねていた。彼があたしを花火に誘ったのはそんな時だった。
「明後日の土曜日にうちの実家のそばで花火大会があるんです。碧さん、一緒に見に行きませんか?」
「花火大会? 花火大会なんて子供の時に行ったきりだわ」
あたしは、彼との関係が進展しそうな気がして、即座にOKした。あたしを『マドンナ』と呼んで以来、てっきり、望君がアプローチしてくるものだとばかり思っていたのだけど、全くその気配はない。毎日、顔を合わせているけれど、仕事仲間以上の親密な関係にはなっていなかったし、映画の話も全くしなくなった。
白、ピンク、紺、赤紫、黒、と地も色々。柄も花、草、蝶、大きさも色々。さらに帯、下駄、と考え出すとキリがない。価格もピンキリ。あたしは、駅前のスーパーの浴衣コーナーの前で30分ほど思案していた。浴衣なんて子供のころの盆踊りで着たきりだったけど。花火と聞いて、あたしはどうしても浴衣が着たくなったの。女の子というほど、若くはないけれど、このチャンスを逃すと、一生、着れないかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなったのよ。
「う~ん。やっぱり左脳で選ぶのは無理ね。しょうがない右脳の直感よ、直感」
そうやって選んだのは、紺地に朝顔の柄の浴衣。帯はスミレ色の平帯。下駄もセットで税込5,980円。それに、前から欲しかった房州うちわが3,600円。なんだか、値段のバランスが変な気もするけれど。
家に帰って、袋を開けて考え込んでしまった。一体どうやって着るのだろう。眼の前に困難があると、別のことがやりたくなるのがあたしの悪い癖。浴衣に比べて、うちわはあおぐだけだから簡単ね。それにしても1本の竹から、よくこんなものが作れるわね、とほれぼれする。うちわの骨を数えてみたら64本。なるほど、2のn乗ね。と言うことは、骨を作る時は、1本の竹から始めて、2等分を6回繰り返して作るのに違いないわ。64かー いい数字ね。
浴衣の方は、結局、ネットで動画を探して、それを見ながら3回練習した。洋服と違って、浴衣を着るにはコツというか慣れというか、アナログ的な要素があるわ。丁度、折り目の決まっていない折り紙のような感じ。練習すると外見はかなり良くなる。難しいのは、着崩れしないように、かつ、太り気味の体を圧迫しないように、結び加減を調整すること。あまりきつくすると、後が怖いので、とりあえず、少しだけきつめにして、崩れた時は、化粧室で直す方針にする。とにかく、食べすぎ、飲みすぎは要注意ね。ほら、『武士は食わねど高楊枝』って言うじゃない。あたしの場合は、『女は食わねど浴衣美人』って所かしら。こうして、金曜日の晩にはすでにハイになっていた。
待ち合わせの大きな提灯の前に集まったのは、望君とあたしだけではなく、なぜかゴーストさとる君(本名:月夜野悟)と片品嬢もいる。桃子は、最初は、
「あたしも行く。絶対、行く。4種類目の流し目を試したいの」
と、バカなことを言っていたけれど、都合が悪くなってキャンセル。
さとる君はいつものさえない恰好。でも、最近は、清潔そうな服を着ている。一方、片品嬢はあたしと同じ、浴衣。白に大胆な花柄、帯はピンク、髪をアップにしている。小柄な体に浴衣がよく似合っている。二人はしっかり手を握っている。望君の方は、いつもの黒づくめではなく、明るい色の麻のシャツに、同色の麻のスラックス。涼しそうな格好だ。あたしは彼に尋ねた
「あら、今日は、黒じゃないのね?」
「そう言えば、そうですね。あれは仕事用ですから」
「え、そうだったの? でもどうして仕事用は黒なの?」
「黒だと色がきれいに見えるんです。明るい色の服だと、そこに光が当たった時に、目ざわりになるのです」
「ふーん。そうだったの」
「碧さんも浴衣を着ると一層かわいいですね」
「あら、久しぶりにほめてくれたわね」
「そうでしたっけ。浴衣はよく似合っていますよ。平帯もきちんと形になっているし、慣れない中で頑張って着ていますね」
「え、どうして、慣れないってわかるの?」
「ああ、しまった。つい、口が滑りました。実は、うちの実家は呉服問屋なんですよ。和服に慣れているか慣れていないかは、着こなし方の微妙な違いでわかるんです。どこがどう違うのかはうまく説明できないのですが」
「ええー 呉服問屋だったの?」
それが分かっていたら、望君に浴衣選びに付き合ってもらったのに。ついでに手取り足取り、浴衣の着方を教えてもらえれば…… あーもしかしたら、一生に一度のチャンスを逃したかもしれないわ。そう言えば、桃子が、『いい噂ならあるわよ』と言っていたけれど、呉服問屋のことを言っていたんだわ。あたしは、一気に3mほど、落ち込んだ。
望君は、皆に声をかけた。
「皆さまお揃いのようですから、これから特等席にご案内します」
あたしたちは仏壇屋のビルの屋上に案内された。高校の同級生の家が仏壇屋で、その屋上は花火の打ち上げ場所に近く、花火観覧には絶好の場所らしい。屋上には、テーブル、椅子が並べられ、ビールや食べ物もあって、即席のビアガーデンになっている。望君の同級生とその家族に挨拶をして、用意していた和菓子を、お世話になりますと言って渡す。と、奥のテーブルから関西弁が聞こえてくる。誰、こんな大声で話しているのは? と思って視線を移すと、男女のカップルがいる。男の方は特徴のある服装だ。あたしは、顔が蒼白になった。鏡で自分の顔色を確かめたわけじゃないけど、蒼白になったのは間違いないわ。