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大きな手の男(その5)

雨は上がり、また、空が明るくなってきた。河津さんはポツリとつぶやいた。

「すいません」

あたしは、答えた。

「無理しすぎよ。最初から(閉所恐怖症だって)言ってくれればよかったのに」

「そうですね。反省しました」

「でも何とかなったじゃない。ぎりぎりだったけど」

「あと、4秒でしたね」

と彼が言う。あれ? 確かに、秒を数えたけれど、声には出してないわ。どうしてタイムリミットまで4秒だってわかったの? あたし自身、まだ幻術にかかっているかしら。

 時として、妄想は現実よりもリアルになり得る。そして、妄想を抱く者を蝕んでいく。閉所恐怖症も視線恐怖症も病的な妄想と言えなくもない。幻術は、毒を持って毒を制するようなもの。深入りすると取り返しのつかないことが起きるわ。彼に問いただすのはやめた。


 神様のやわらかな視線を感じた。

「お前の幻術もなかなか面白かったわい。こっちへ来れば、次は、わしがいいものを見せてやろう」

「誉めてくれて光栄だわ。でも、こっちってどっち? 天国?」

しばらく考えて、ピンと来るものがあった。きっとあそこだわ。目星がつくと、今度は居てもたってもいられなくなった。あたしは、彼に声をかけた。

「河津さん、疲れたでしょう。今日は、これでお仕舞いにしましょう。私はどうしても今すぐ行きたい所があるの」

「もう少し、あなたのそばにいたいのですが……」

「私のそばに?」

と、あたしは怪訝な表情を浮かべた。

「ええ、そうです。一期一会ですから」

「一期一会?」

その意味を理解するのにたっぷり10秒かかった。『一期一会』 つまり、彼とあたしのこの対面は最初で最後の一度きりのもの。調査だから、普通の候補者のようにキープすることはできない。かと言って、再度、調査を設定すれば、それは、職権乱用。特にシステムの設計責任者としては絶対にできないこと。さっき、気軽に『今日は、これでお仕舞い』と言ったけれど、明日はないんだわ。明日以降、あたしたちが会うことはおそらく一生ない。なんだか辛いわね…… あれ、そう言えば、彼の大きな手をゲットしたいと思っていたんだっけ。さっきのあの幻術の間、たっぷり握っていたはずだけど、覚えている感触は鳥肌だけだわ。あの大きな手とも一期一会なのね。何とももったいないわ。

「それじゃ、私と一緒に来てくれる?」

「どこへ?」

「内緒。あ、でも、エレベータは大丈夫?」

「大丈夫です。少なくとも今までの経験では」

「じゃ、決まりね」


 下から見上げると、東京タワーは高い。赤い鉄骨は力強くカーブを描いて空へ雲へと延びていく。伝説のバベルの塔も、こんなには高くなかったのではないかと思う。まさに人間の偉業だわ。

「私、名古屋出身なの。大学から東京に来たのだけど。私のような地方出には、東京タワーは東京の象徴なのよ」

「象徴ですか?」

「そう、象徴よ。東京の象徴であり、また、昭和の象徴よ」

エレベーターで、展望台へ向かう。そっと彼の左手を握った。大きく、そして、やわらかな手だ。 

 展望台に上ると、雲が遠くまで広がっている。その下に関東平野の街並みが見渡せる。徐々に雲が退いて、街が明るくなっていくのがわかる。あたしたちは西を向いた窓の前に陣取った。

「さあ、始まるわよ。よく見ていて」

「何が始まるんでしょうか?」

「神様のお絵かきタイムよ」

「お絵かきタイム?」

「いいから、黙って見ていなさい」

もこもこした雲は次第に小さな塊になってちぎれていく。

「来た来た!」

雲と雲の切れ間ができた瞬間、一本の太陽光線がその切れ間から筋となって斜めに降り注ぐ。筋は次第に太くなっていく。そのうち、別の切れ間からも光の筋が延びる。雲の切れ間に近い部分は赤く輝き、雲本体は黒い。そのコントラストと光の筋は神様にしか描けない絵だわ。人間がどんなに頑張っても、神様にはかなわないことを知らしめようとしているみたい。あたしたちの周り人が集まってくる。皆、この光景に見とれている。

「この光の筋は天使の梯子と呼ばれるの」

「天使の梯子、ですか? どうして、そう呼ばれるのでしょう?」

「さあ、私にもわからないわ。でも、すごいと思わない。三千万以上の人の頭の上で、神様が絵筆をふるっているのよ」

「三千万?」

「そうよ、そのぐらいの人がこの平野に住んでいるのよ。この数に感動しない?」

「いえ、べつに」

と彼は答える。まったく、東京人は鈍感なんだから。当たり前すぎるのかしら。彼にも、東京タワーへのあたしたち地方出の思いをわかってほしいと思った。

「最初にここに来たのは大学の入学式の前日だったかしら。引越しの荷物を寮の部屋に放り込んで、すぐにここに来たの。一人で来たのよ」

「それで、その時は、この関東平野を見てどう思ったのですか?」

「この景色を見て…… 今日から私は三千万人の中の一人になるんだと思ったわ。つまり……」

「つまり?」

「つまり…… 三千万人のざわめきが聞こえない? この大都会で…… 頑張らなくちゃ、と思ったの」

「頑張る?」

「そうよ、頑張るのよ」

「ふーん」

あー、どうしてわかってくれないのかしら。この胸の高まりを。

「田舎者は、大都会に出てきて、ここで一旗あげたいと思うのよ。東京は、あたしたち地方出にとってあこがれなのよ。と同時に恐怖でもあるわ。大都会に押しつぶされるかもしれない。失意のうちに帰郷するかもしれない。東京タワーは、あたしたちが初心を抱き、それを思い出す特別な所なの」

「なるほど、ここへ来て、ふんどしを締めるわけですね」

「あはは、いい表現ね。そう、それよ。やっとわかってくれたみたいね」


もう潮時だわ。それは、彼もわかっているはず。あたしは彼に頼んだ。

「ねぇ。握手してくれない? 長い握手を」

あたしは確信した。これは彼の願いでもある一期一会の別れの握手よ。彼の眼を見ないで、長い握手をした。あたしの視線は、握手した彼の手に注がれる。彼の視線はあたしの顔を向いている。見なくても彼の視線は感じられる。そしてその視線が語る彼の本心と葛藤も。だけど、この関係はキープできない。それはご法度はっと。これが彼の仕事である以上、あたしたちは、会社と顧客の関係以上にはなれない。

 あたしは、身動きができず、息苦しさを感じる。閉所恐怖症のように。でも、彼は顧客のことを『生身の人間である以上、想定外のことは起こるものなのです』と言ったわ。そうよ。あたしは『生身の人間』よ。彼のルール、彼の職業意識に縛られる必要は微塵もないわ。あたしは、この大きな手だけを考えればいいわ。

 彼の手は、あたしをやさしくエスコートしてくれたわ。そして不滅の生命力を持っていたし、弱さもあった。あたしならこの弱さを救ってあげられるかもしれない。さあ、どうする? 考えるのよ。アメリカに行った同級生との握手の時は、衆目の集まる地下鉄駅だから、周りの視線が気になってゆっくり考えられなかったけど、今は違うわ。


 あーやっぱりだめ。結論は出せないわ。あたしは、コンピューターじゃない。いつでもYes, Noが判断できるわけじゃないわ。


 あたしは、彼に頼んだ。

「ねぇ、ちょっと目をつぶってくれる」

握手していた右手を離し、左手で持ち直した。彼の右手の甲を上にして支える。右手で、バックから素早くボールペンをとりだした。彼の大きな手はちょっとした手帳よりも大きい。あたしはゆっくり大きく書いた。

「もう、目を開けてもいいわよ」

彼は、手に書かれたものを不思議そうに見た。2秒後に、それがさかさまに書かれたメールアドレスであることを認識した。あたしは言った。

「あたしは、生身の人間よ。想定外のことは起こるわ」

「確かに想定外だけど……」

「あなたの手の甲は、仕事用の手帳でもないし、パソコンでもない。全くプライベートな領域よ。その情報をどう使うかは、プライベートなあなたに任せるわ」

 結局、あたしは自分で判断しなかった。


 帰宅途中でコンビニによって、缶ビールとたばこを買った。あたしは『生身の人間』だから。

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