大きな手の男(その4)
この時の停電は、長かった。
雷で短時間(数秒程度)の停電が起きるのは珍しくない。業界ではこれを瞬停という。今のように無停電電源(UPS)が普及していなかった頃、たった数秒間停電が起きるだけでコンピューターは停止し、やりかけの仕事がパーになることは珍しくなかった。だから、あたしたちSEは皆、瞬停に敏感なのよ。と同時にUPSの普及した今では、瞬停や停電に対しても落ち着いて行動できるようになった。あたしもSEなら、彼もSE、たかが停電に慌てることはない。止まったゴンドラの中でゆっくり待てばいいと思ったの。
ところが、次の瞬間、目を見張るようなことが起きたの。暗闇の中で、彼(河津さん)は立ち上がると
「あ、あ、」
と言葉にならない声を出して、ゴンドラのドアノブをガチャガチャいじり始めた。あたしは、異様な雰囲気を感じ
「ちょ、ちょっと何やってんの!」
と叫んだ。彼は、
「で、出たい。ここから出たい。誰かこのドアを開けてくれ!」
と悲痛な声をあげる。
「ば、バカなこと言わないでよ。地面は何十メートルもしたよ。落ちたら即死よ!」
あたしの声は一気に1オクターブ高くなった。
「と、とにかく出してくれ」
とまたもや悲痛で哀願するような声。
そして、彼はドアや窓を叩き出した。大きな手でばんばん叩き出した。あたしの右脳はパニック寸前。幸い左脳は冷静だった。左脳の状況分析によれば、彼は『閉所恐怖症』。だから遊園地や観覧車を嫌がっていたのだ。観覧車が一周する時間を覚え、時計の秒針を見ながらひたすら終わるのを待っていたのだ。一周すれば、狭いゴンドラから解放されると。ところが、雷で停電し観覧車は動かなくなった。秒針を見て耐えていたその緊張の糸が切れたのだ。
とにかくやめさせないと、そのうち本当にゴンドラのドアを蹴破って飛び降りかねないわ。そうなったらあたしもただでは済みそうにない。彼に引きづられてあたしも一緒に落ちるかもしれない。左脳は冷静に明日の朝刊の見出しを予知した。『男女カップル、ゴンドラを破壊して飛び降り、死亡、別れ話のもつれか、停電との関係は不明』。右脳が叫ぶ、そんな不条理な死に方は絶対受け入れられないと。
あたしは、暗闇の中でドアを叩く彼の腕をつかもうとした。でも、触れるだけで精一杯。丸太のように太い腕は、とても手でつかめるような太さではない。そこで、両腕で彼の右手を抱えこんだ。右手を腕と体全体でがっちりホールドすることに成功。ところが、彼の右手はあたしを体ごと振り払い、シートにしたたかに打ちつけられた。
「いったー」
お尻と背中が痛い。その時、左手がペットボトルに触れた。さっき水を飲んだミネラルウォーターのボトルだ。まだ水がだいぶ入っている。あたしの中の野獣が呼び醒まされた。両手でボトルのふたのあたり握り、大きく上段に構えて気合いを入れた。
「小手ー」
と叫んで、彼の右手にボトルを打ちおろした。剣道は学校の体育でしかやったことがないけれど、素早く竹刀を打ちこむのとは逆に大きく振りぬいたから相当な打撃のはず。
「イタター」
と言って、彼はシートに座りこんだ。彼は左手で右手をしきりにさする。暗闇の中では、はっきり見えないけれど、右手を閉じたり開いたりしてちゃんと動作するのを確かめている。まるで不滅のターミネーターね。あたしはその右手の生命力に恐怖した。反対に、久しぶりに呼ばれたあたしの中の野獣は不敵な笑いを浮かべてこう言った。
「小手でだめなら、次は金的ね」
視線恐怖症のあたしが出てきた。
「ちょっと、暴力は解決にはならないわ。ここはあたしに任せて」
あたしは、開こうとする彼の右手をさっと両手でくるんで、言った。
「待って! ここから出たいんでしょう?」
彼はコクリと頷く。
「だったら、あたしが出してあげるわ」
そう言って、閉じた彼の右手をゆっくり開いて、両手で挟んだ。表側の手の甲の上にあたしの左手を載せ、裏側の手のひらをあたしの右手で支えた。
「さあ、目をつぶって。あたしがいいって言うまで目を開けちゃだめよ。それじゃ、まず、大きくゆっくり深呼吸をして」
あたしも目をつぶって深呼吸をした。
「河津さんは、北海道に行ったことがある?」
「ある」
「どこに行った?」
「富良野」
「じゃー 紫のラベンダー畑は見た?」
「見ました」
「そう、だったら、その時の空の色は覚えている?」
「さあ、晴れてはいたと思うけれど」
「青よ。東京の白く濁った青とは違う、もっと深い青よ。漆黒の宇宙が透き通って見えそうな青よ。
さあ、想像して、あたしたちはラベンダー畑の真ん中に、こうして手をつないで立っている。
濃厚なラベンダーの香りが立ち込めている。
これから空を飛ぶから振り落とされないようにあたしの手をしっかり握って」
そう言って、あたしは彼の手を強く握った。かわいそうに彼の手の甲には鳥肌が立っている。
「ゆっくり、ゆっくり、あたしたちは上昇していく。
地面は、だんだん遠ざかっていくわ。もうラベンダーの香りはしない。
上昇スピードが上がってくる。
ほら、真四角のラベンダー畑のへりが見えるわ。
その周りにのますっぐな道路が縦横に延びていく。
道路の先は遥かかなたの山にまで届いている」
あたしは、彼の手の甲をゆっくりとさする。
「さあ、もっともっと高く昇るわよ。
右手には藍色の海が見えてきた。
水平線がだんだんと丸みを帯びてくる。
左手の地平線も丸くなっているわ。
今度は、昇るのはやめて、南へ南へ、海峡を渡って本州の上空に行くの。
山々が見えてくる。
雲も出てきたわ。
太陽光線で輝く真っ白な雲よ。
だんだんと雲が広がってもう地上も海も見えない。
さて、東京の上空はこのあたりかしら。
それじゃ今度は雲の中を降りて行くわよ。
ほら、足先が雲に触った。
ちょっと寒くなるけど我慢してね。
そうっと、そうっと降りて行くわよ。
周りは冷たく白い霧、だんだんと霧が濃くなっていくわ。
太陽の光も弱くなって、暗くなっていく。
さあ、ここから雲の底まで一気に降りるわ。
そら、抜けた。
真下には停電で暗い街が見える。
赤や青の信号機だけは点灯している。
遊園地が見えるわ。
遠くの街が灯りを取り戻している。
停電が終わったのよ。
そら、灯りの波がだんだんとこちらへ押し寄せてくる。
もうすぐ遊園地の停電も終わるわ。
さあ、観覧車の方へ降りて行きましょう。
あたしたちの乗っていたゴンドラは、丁度、真上にあるやつね。
よく見て。
ゴンドラの壁がすけているわ。
ほら壁を触ってみて」
そう言って、あたしは彼の右手を立てて、前後に動かした。
「ね、壁はすり抜けられるのよ。
さあ、壁を抜けて元のゴンドラへ戻ってきたわ。
まだ、目を開けちゃだめよ。
目をつぶっていても、ゴンドラの壁をすかして見えるでしょう。
あたしたちが乗ったメリーゴーランド。
お化け屋敷。
それにティーカップ」
あたしは、そう言いながら、自分だけ目を開けた。まだ、周りは暗いわ。停電したのは遊園地だけではないようね。でも、おかしいわね。さっきは、確かにすぐそばに雷が落ちたと思った。もし、観覧車や、そばのビルに落ちたのなら、こんなに広い範囲で停電が起きるかしら? どちらにしろ、停電は、すぐに復旧するはず。問題は、観覧車がすぐに動くかどうかだわ。もし、観覧車の制御系統がやられていたら厄介ね。雷の電流自体は避雷針を通ってアースに流れたはずだから、駆動系がやられることはないと思う。でも雷につられて流れる電流、誘導雷は、時として被害をもたらすの。最近のインテリジェントな制御システムは、意外にこういうものに弱い。でも、観覧車はそんなに多く出る製品じゃないし、一定速度で回るだけだから、そんなに複雑でやわな制御システムは持っていないはず。だから、停電が復旧すれば、すぐにでも動くわ。
あたしの妄想幻術で、いつまで彼をおとなしくさせられるかしら。あと、3分? 10分? やっぱり10分は無理ね。長くても3分ぐらいね。その時は最後の手段の『金的』狙いね。
そうだわ、その前に忘れていたことがあった。神様に祈らなくちゃ。
「神様、神様、一生に一度のお願いですから…… 」
あ、やっぱり、一生に一度というのは勿体にないわね。一生に十度くらいの内の一度分にしておこうかしら。それでももったいない気がするわ。それじゃこうしましょう。
「神様、神様、今年度、最初で最後のお願いですから、一秒でも早く、観覧車が動くようにしてください!」
自分で言っていて、恥ずかしいわ。本当に、あたしってケチというか強欲というか。まあ、貧乏の星の元に生まれたから仕方ないわね。
その時、灯りがついた。あたしは、ホッとするとともに、これからが勝負だと思った。さあ、早く動いてちょうだい! あたしのかわいい観覧車ちゃん!
灯りがついたのを感じた彼は
「もう、目を開けてもいいですか?」
と聞いた。やっぱり『金的』狙いか…… と考えながら、ペットボトルを目で探す。
「いいわよ」
と返事をした。目を開けた彼は、周りを見回して、それから右手に視線を落とした。あたしはまだ、彼の右手を両手で包みこんでいる。まだ、自由にさせるわけにはいかないわ。鳥肌はもう消えている。そのかわり、右手首の少し上には大きな青あざができている。あたしの『小手』の痕だ。
彼は、息を殺して、じっとあたしの両手に包まれた右手を見ている。あたしの幻術が効いていて、手をすかしてその先を見ているかしら。それとも何も考えないように、何も見ないようにしているかしら。あたしもじっと手を見て秒を数えた。
「1、2、3、……」
「…、156、157、158、……」
あたしはだんだん焦ってきた。もうすぐタイムリミットの3分。神様にお願いをするのに、貧乏根性を出したのはまずかったかしらと反省した。
「…、175、176」と数えた所で、ガタっと小さく揺れて、観覧車は動き出した。あたしは、ふー と小さく息をした。彼の方は、さっきと同じ姿勢のまま、じっと耐えている。
ようやくゴンドラは下まで降りてきた。あたしが、彼の手を離すと、係員がドアを開いて、ペコペコ謝った。あたしたちは、無言で、濡れていない一番近いベンチに向かった。そして、二人ともへなへなと座った。深呼吸を3回して、彼に飲みさしのペットボトルを無言で差し出した。彼もまた無言で受け取り、一気に飲み干した。