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大きな手の男(その3)

 今から考えると、あれはロボットじゃなくて人間だわ。だって、おしろいの匂いがしたもの。きっとあれは、プロの幽霊師ね。

 あたしは、どっと疲れがでた。

「今のお化け屋敷、怖かったわ。ちょっと休ませて」

あたしは一番近くのベンチにへたへたと座り込んだ。彼はどこかへ行ったかと思うと、ミネラルウォーターを持ってきてくれた。ゴクゴクと水を飲んだけれど、まだ、胸のドキドキは続いている。あたしは、血圧を下げるいつものおまじないをした。目をつぶって深呼吸をして礼文島のあの風景を思い浮かべる。

 学生のころ、北海道を一人で周ったことがある。最後に行ったのが礼文島。夏の礼文島は気持ちがいい。さわやかな風、咲き乱れる高山植物、海からそそり立つ巨岩の列。そんな巨岩群がつくる尾根を歩くことができる。遥か眼下には青い海と白いカモメ。頭上には、真っ青な空と、決して暴力的にはならない北国の太陽。巨岩に寝そべると、丁度、空と海の真ん中で時間が止まったような感覚を抱く。これはあたしの忘れられない風景。

 社内の健康診断で血圧測定がある時は、深呼吸しながらこの風景を思い浮かべる。そうすると、血圧が10ぐらい下がってぎりぎりクリアできるのよ。これがあたしの血圧を下げるおまじないであり、また、緊張を解くおまじないでもあるの。


 次にあたしたちが行ったのはメリーゴーランド。作戦はしばらく休止。馬は、意外に高い。あぶみのような梯子を慎重に登り、ブルーのワンピースをももまでたくし上げながら馬にまたがろうとした。右足をかばいながらだから、なかなか難しい。係員が後ろからあたしのお尻を支えてくれる。やっと馬に乗れた。係員にお礼を言おうと思って振り返ると、そこには彼がいた。お尻を支えてくれたのは彼だったのだ。しまった! 薄い生地をとおして彼の手の温かみを感じたのだけれど、その感触の急速に薄れていった。彼はあたしの右隣の馬にまたがる。メリーゴーランドは反時計周りに回り始め、馬は上下にゆっくり動き始めた。

 不思議な感覚だ。周りの馬は上下に動くだけなのに、メリーゴーランドの外の風景はものすごいスピードで後方へ飛んでいく。本物の馬に乗って疾走するってこんな感じかしら。はたとあたしは気がついた。メリーゴーランドは乗馬をシミュレートしているのだと。前方への疾走と上下動で乗馬を模擬しているだ。ステージ全体を回転させる駆動機構と、おそらく、その回転力を少し分けて直線運動に変えるギヤ群とクランク群があるに違いないわ。それらがメリーゴーランドの本質。メリーゴーランドの発明者に会ってみたいわね。きっと子供好きの技術者ね。彼が、もしかしたら彼女が自慢そうに説明する光景が眼に浮かぶわ。SEならこんな作品を作ってみたいわ。


 メリーゴーランドで元気を回復したあたしは、次にどこに行こうかと見回した。この遊園地に来たときから気になっていたあれに乗りたいと思って、彼に持ちかけた。

「今度は、あの大きな観覧車に乗りたいわ」

そう言うと、彼はなんだか浮かない顔をしている。

「あれ、もしかして河津さんは高所恐怖症?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど。結構人も並んでいるし、待たされるよ。それでもいいのですか?」

「並んでいるということは人気があるということで、人気があるということは面白いってことよ。行きましょう」

そう言って、半ば強引に彼を連れて行った。結局30分ほど待ったのだけど、待っているうちに黒雲が空を覆い始めた。ポツポツ降ってきたかと思うとすぐにザーザーと本降りになった。遠くの方では雷が光っている。彼は、

「これじゃー 観覧車に乗っても面白くないですよ」

と言うが、あたしは

「でも、折角並んだし、お金も払ったし。乗りましょうよ」

と言って、結局、乗ることにした。あたしってお金貧乏で、時間貧乏だからこういう時は引けないのよね。つまり、お金がないから払ったお金は無駄にできない。おまけに時間がないから待つのに費やした時間は無駄にはできない。本当のお金持ちにはそんなに会ったことはないけれど、皆、お金があるだけでなく、時間もあるように見える。なぜかしら? そんなことを考えながらゴンドラに乗りこむ。彼も乗りこみ、係員が外から鍵を締める。定員4人の狭いゴンドラに向かい合わせで座る。狭いのは彼が大男だからだわ。ゴンドラはゆっくり、ゆっくり上昇していく。あたしが

「一周で何分かかるのかしら?」

と聞くこともなくつぶやくと、即座に彼は

「13分。もう、35秒経ちました」

と答える。なんとなく彼の反応がおかしい。それにジッと時計の秒針を見ているようだわ。やっぱり高所恐怖症かしら。あたしは彼の気を紛らわそうと話を続けた。

「普通のカップルは、13分間、何を話すのかしら? 天気が良ければ、あれが見えるとかこれが綺麗とか言うのでしょうね。それとも二人きりの空間を確保したのだから、やっぱり愛を語るのかしら…… 13分もあれば、プロポーズはできるわね。逆に別れ話をしたりもできるか…… でも、ここだと逃げ場がないから、別れ話しには不向きね。だって、7分目で別れ話を終えても、あと6分間ここに閉じ込められるのだから、気まずいわねぇ。相手がすんなり納得してくれればいいけれど、そうでないときは、反撃のチャンスを与えることになるから…… 」

行儀よくそろえられた彼の両膝とその上の大きな二つの手で留っていたあたしの視線は、『別れ話』という音に反応して、動き出した。視線は大きな手を透過し、背後のシートを透過し、ゴンドラの薄い壁を透過する。さらに、眼下の電飾を透過し、遠くへ遠くへ、過去へ過去へと視線が伸びていった。


 あれも一種の別れ話だった。1つ目の手紙が予兆で、2つ目の手紙は事後、その後の飲み屋は確認だった。相手は高校の同級生で、ガリ勉。なんとなくあたしと同じ匂いを持っていた。だからと言って、好きだったわけでも、嫌いだったわけでもなかった。きっかけは、夏休みの自由課題。彼は自由研究、あたしは自由工作で、高校から県の展示会に推薦された。あたしたちはその時からお互いを意識した。もっとも意識したのは本意ではなく、周りがはやし立てたからだ。『ガリ勉カップル』と呼ぶ男子生徒がいれば、『自由連合』と呼ぶ女友達もいた。

 特に付き合っていたわけでないけど、同じ東京の大学に行くようになって、時々、会った。二人だけで会うというよりも、名古屋から高校の友達が来たとか、たまたま同じ講義を取ってレポートで協力した時だとか、何かしら会う理由があった。4年生になって、キャンパスの異なる研究室に行くようになって、全く会わなくなった。

 手書きの手紙が来たのは梅雨の頃だったわ。その頃、あたしは、大学院進学を目指す決意を固めていたの。所が、不得意科目でかつ勉強をしなきゃならないものが膨大で愕然としていた。手紙の内容は全く覚えていないけど、『元気ですか?』程度の手紙としか認識していなかったわ。だから、返事も書かなかったの。

 夏が終わり、大学院入試が終わり、合格発表をもらい、翌年の春になって、ワープロで書かれた2通目の手紙が来た。曰く『その後、色々あって、今度、アメリカに行ってそこの大学院を目指すことにした。ついては、最期に君に会っておきたい』。そんな内容だった。あたしは大慌てで電話して、居酒屋で会うことにした。だって、最後ではなくて『最期』って書いてあったのよ。彼によれば、最初の手紙の頃、彼は大変な窮状に陥っていたらしい、その後、一度、自殺を試み、やり直すためにアメリカに行くとのこと。必ず成功してみせるとも言った。肝心な時に、両思いだと思っていたあたしがそばに来てくれなかったと、暗にあたしを非難していた。

 地下鉄の駅で別れ際に、彼は握手を求めてきたわ。そして長い長い握手をした。握手をしながら、彼はあたしに男と寝たことがあるかと聞いてきた。彼は、自分は行きずりの女と寝たことがあると言った。それがまるで不潔で恥ずべきことだったかのように言った。あたしは、自分から手を離してさよならを言った。

 今から考えると、あの握手をしながらあたしを誘っていたんだわ。もし、そうして一夜を共にしていれば、彼の人生もあたしの人生も変わっていたに違いない。でも、そうはならなかったわ。最初の手紙をきちんと読めなかったあたしが悪いと言えば、悪かったわ。でも、きちんと自分の窮状を伝えられなかった彼にも責任があるわ。若者特有の鈍感さと不器用さの典型ね。言われたことを正しく理解できない。言いたいことをはっきり言えない。したいことをできない。今だったら、もっとストレートにもっとスマートにできたと思う。あたしの思い、彼の思いがお互いにどれだけ伝わったのかは確かめようがないけれど、あの時、あたしたちは確実に別れた。それだけは二人の共通認識だわ。もし、別れの握手をしたのが衆目の集まる駅ではなくて、こんなゴンドラだったら、違った展開になったかもしれないわ。

 でもよく考えると、これが、河津さん言う『もし、相手への興味があれば、当然、相手を思いやることができ、悲劇的な破局を迎えることもないでしょう』の見本のような気がしてくる。あたしは、若者という理由をつけたけど、本当の理由は『相手に興味がなかった』かもしれない。


 一つ目の雷が、過去をさまよっていたあたしを現実に引き戻した。かなり近い。2つ目の雷はもっと近かった。光と音がほぼ同時だった。光はほんの一瞬で伝わるから、光と音の時差は、音速で決まる距離を反映するの。時差が1秒なら340 mという具合に。2つ目の雷の光と音の時差はせいぜい0.2秒、つまり 70 m 以内に雷が落ちたことになる。雷の光は、彼、河津さんの蒼白な横顔を映し出した。そして、電気が消えあたしたちは暗闇につつまれた。停電したのだ。

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